(5)
真紅のジェットがみるみる遠ざかってゆく。追わないとと思うほどに、風は粘り気を増して身にからみつく。さっきまで羽のようだったジェットが、今はタンカーの重さだ。
「くっそ……くっそぉ……!」
屈辱。十四年生きてきた中で、味わったこともない屈辱だった。
まだ、感触が残っている。
ゲートを通った瞬間、赤いジェットが逆さまに跳んだ。それは見えた。そして、その後氷后が自分にしたことも、まるでスローモーションのように感じ取れた。
そう、信じられないことだが――ヤツはついと右腕を伸ばし、自分の頭を撫でたのだ。
挑発なのか、それとも頭が艇とぶつからないよう下げさせたのかは分からない。
なにより、鳥肌が立ったのはそこじゃない。
そのときの、彼女の顔――一瞬の交錯の中で、そこだけ切り抜かれた一枚の静止画。
敵意や殺意ならよかった。睨みつけられたほうが、よほど楽だったに違いない。だが。
氷后は、笑っていた。赤子をあやす母親のような顔で、やさしく、おだやかに。
(オレは……オレなんか、敵じゃねーってのかよ!)
思えば、最初からそうだったのだ。
シベリウスが後から入ってきたんじゃない。自分が見つけたと思った『音の向こう』は、とっくに彼女のものだった。自分は、彼女の切り開いた世界にやっとこさ生まれ出たばかりの、赤子にすぎなかったのだ……
【ああっと、残り三百メートルでキャンデロロ失速! トップとの差は二艇身! これは勝負あったか! やはり氷后の牙城は崩せないのか!】
視界が薄暗く曇ってゆく。自分のまわりにだけ、黒雲が立ち込めるような錯覚。
その雲の中から、ぬらり、と漆黒のヘビが伸びてくる。顔に、首に、肩に、手足に、うねうねとからみついてくる何匹ものヘビ。牙が皮膚を食い破り、肉を噛み裂く。
「オ……オレは……オレ、は…………」
喰われる。
――オレは、世界一……………………………………………………………じゃ、ない。
「コーチ、ロロが潰されたって……」
クリスの問いかけに、沢村は唇を噛んで答えた。
「キャンデルの力の源は、自信だ。自分こそが世界一だという自負があいつを支えている。シベリウスはそれを断ち切ったんだ」
おそらくビッグゲートに突入する前に、ロキシィを抜こうと思えば抜けたのだろう。
それをわざわざあんなアクロバティックな真似を見せて、実力差を思い知らせた――それもこれも、ロキシィを脅威と認めたがゆえなのだが。
シベリウスとの差は、もう三艇身にまで広がった。ばかりか、三位のブラジル艇までもが、もう真後ろに迫っている。
「ロロ……泣いてル」
クリスのつぶやきは、親友ならではの的確さだった。
涙を流してはいない。先ほどの抜け殻状態から一転、今度は躍起になってジェットを前に持っていこうとしている。必死の顔――だけどそれは、子供がケンカに負けてムキになるのと同じだ。泣きそうになるのを我慢しているだけ。
「キャンデル! 力を抜け! リラックスしてヒザを使うんだ! キャンデル!」
必死の呼びかけにも、もう応えはない。
またもヒザが固まっている。それどころか、全身が硬直している。いわゆる『置き物』状態だ。スタミナが切れて技術の差がモロに出る終盤、これではもう――
「くそっ!」
沢村はテーブルに拳を叩きつけた。腹が立ってしかたない。
言うことをきかないロキシィにではない。無力な自分に、だ。
(何をやってる、私は! こんなときこそコーチの出番じゃないか!)
トライアウトの時点で、すでにロキシィの儀力は全盛期の自分を凌いでいた。その才能を伸ばすため、過酷な練習を課した。辛かったと思う。苦しかったと思う。それでも彼女は、よくついてきてくれた。今、ロキシィの実力は間違いなく世界を凌駕する。
力を出し切れば――シベリウスにだって勝てるのだ。
それができないのは、誰でもない、コーチの責任だ。罪だ。
「コーチ……!」
クリスのすがるような声が痛い。こんな場面でリラックスなど無茶だというのは、百も承知だ。それでもなんとかしなければ。
(だが、どうすればいい……どうすれば!)
ブラジル艇が後ろから追いついてくる。ラテンの歓声が容赦なく背中に突き刺さる。
画面の中でもがき続けるロキシィ。遠ざかるシベリウス。迫るリミット。
沢村は覚悟を決めた。こうなったら――やぶれかぶれだ。
「キャンデル、聞け! よく聞けよ!」
肺が破裂しそうなくらい息を吸い込む。
次いで放ったその大声は、間違いなく、地球の裏側にまで届いた。
「ポッ…………ポンポコリ――――――――――――ン!」
世界が白く凍りついた。
「こ……コーチ……?」
困惑の向こう側に行ったような顔のクリス。
沢村は沸騰した顔を、テーブルに押しつけた。十億トンの後悔が襲ってきた。できうることなら五秒前に戻って、パニクった自分にナイフを突き刺してやりたい――そう思ったときだった。
【あっ……?】
【差が……】
詰まってゆく。絶望的だったその距離が、わずかずつ、しかし確かに狭まってゆく。
【なっ……なんだ? 日本艇キャンデロロ、スラロームを次々と突破してゆく! まるで別人の動きだ、一体何が起こった?】
高ぶる実況の声も、驚きざわめく観客の声もよく聞こえる。
ヒザはバネのように靭くそして柔らかく、艇は高速道路を走るように海を疾走する。
ロキシィは――笑っていた。
(ったくよォ……おかげで思い出しちまったじゃねーか)
誕生日パーティー。タヌキ。そば屋のバイト。ツンデレ。メイド。
笑って。泣いて。怒って。はしゃいで。一日があっという間に過ぎていった。苦しいはずの練習が、待ち遠しくて仕方なかった。みんなの体温が、最高に心地よかった。
(そうだよ。オレはもう一人じゃねー……)
あの日々の積み重ねの上に、今がある。今の自分があるのだ。
無音なんかじゃ、ない。
(くやしいけどよ、オレの世界は、もう――)
――ロロちゃん。 ――ロロさん。 ――ロロ。 ――キャンデル!
「てめーらの声でいっぱいなんだ!」
ロキシィは波を蹴った。
【うあああっ! キャンデロロ、さらに加速! もうトップとは一艇身差だ! ま……負けるのかッ? 世界最速が、シベリウスが敗れるのかッ? ジェットの歴史が変わるのか――!】
スラロームを抜けた。目の前に最後のブイ。そこを左に曲がった先――見えた。
バトンエリアだ。洋上、セットアッパーたちのジェットが横並びに待ち構えている。
そして自分と同じ青のジェット、円はもうゆるやかに助走に入りながら、こちらに視線を向けている。自分のバトンを待っている。
ホルダーからバトンを取り出した。風が吠え、ツインテールが躍った。
シベリウスがこちらを振り返った。その顔は、見間違えじゃない、恐怖に歪んでいた。
ロキシィは八重歯をむき出して笑った。
(いいカオだぜ、氷后サンよ。だが、それじゃあまだ、許してやんねー)
「見せてもらうぜ、てめーの泣きっ面ァ!」
【追うキャンデロロ! 逃げるシベリウス! 両雄半艇身差で最終ターンに突入!】
シベリウスが先行する。渾身の左ターン。女王の意地。ブイをかすめる芸術的曲線。
最短距離をなぞるそのラインの、しかし、ほんのわずかなほころびを、今のロキシィは見逃さない。
弧の頂点、目の前を赤いジェットが右へ流れ、空いたスキ間は、ほんの一艇分。
全体重を左に落とす。全儀力をバーに叩き込む。全存在を、この一瞬に。
「目ン玉かっぽじってよく見てろ! これがオレの!」
差し一閃。
「ありったけだァ――――――――――――――――――――――ッ!」
ブチ抜いた。
歪んだ視界の右側を氷后が滑り落ちた。
瞬間、目の前に一気に光が広がった。それは、ずっと夢見続けた、世界一の景色だ。
歓喜が全身を埋めつくした。
重力の戒めが解け、身体が空に浮き上がった。そして天地がひっくり返った。
……。
…………。
………………。
「ぷはっ! ……あれ?」
ロキシィは水面から顔を上げた。
泡立つ波間にただよっている。ライフジャケットの空気で浮かんでいる。すぐ横で、青いジェットが白い腹を見せて浮かんでいる。空は高く澄んでいる。
引き波が折り重なったせいで、海は荒れ放題に荒れていた。スターターたちはとっくにバトンを渡し終えて、慣性走行に入っている。その向こうでは、バトンを受け取ったセットアッパーたちが、もう米粒のような小ささだった。
何がなんだか、分からなかった。
激しい波音の合間に、実況の叫び声が飛んできた。日本艇。痛恨。キャビテーション。氷后の引き波を踏んで。転覆。そんな単語がとぎれとぎれに聞きとれた。
(キャビテーション? 転覆?)
まさか。ありえない。この大事なレースで、このオレがコケるなんて。
ヴァーミリアン・カップ。世界一の晴れ舞台。この五ヶ月、この日のために生きてきた。天才のこのオレがちょっとは努力なんかしちゃったりして、トシマの言うことも聞いてやったりなんかしたりして、ヘタクソどもの面倒も見てやったりなんかしたりして。
そう、あいつらはヘタクソだから、このオレががんばんなきゃ。できるだけ差をつけて繋げてやんなきゃ。きっとあいつら、泣いて感謝するぞ。ありがとうございますロキシィ様とか何とか言って、涙流して抱きついて。
「……ロ……ん……」
トシマだって。絶対。喜んで、くれて……。
「……さん……ロロさん!」
顔を上げた。バトンエリアに、たった一人。円がこちらに強く手を伸ばしていた。
バトンはすぐ横に浮かんでいた。のろのろとそれを拾い、のろのろとジェットを起こし、のろのろと船体を前へやり、素人のようにヒザを片方ずつ乗せて騎乗する。
さんざん繰り返したバトンタッチの練習は、クソの役にも立たなかった。ロキシィは店員が客にお釣りを渡すように、それを手渡した。
円は涙顔を残して、波の向こうへ消えていった。
(何泣いてんだ、アイツ……)
ぼんやりとそれを見送るロキシィの上。空からぱらぱらと落ちてくるものがあった。
拍手だ。
スタンドの観客たちが立ち上がり、柔らかに手を叩いていたのである。
よくやったぞ。惜しかったな。がんばった、胸を張れ――そんな声も聞こえてくる。
「あ……」
そこでようやく。
ロキシィは、自分がしてしまったことの意味を、知った。
「あ……あ……ああっ……」
もう、何も考えられなかった。世界が滲んでゆく――