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サムライ・ドルフィンズ  作者: 古池ケロ太
ヴァーミリアン・カップ
39/50

(5)

 真紅のジェットがみるみる遠ざかってゆく。追わないとと思うほどに、風は粘り気を増して身にからみつく。さっきまで羽のようだったジェットが、今はタンカーの重さだ。

「くっそ……くっそぉ……!」

 屈辱。十四年生きてきた中で、味わったこともない屈辱だった。

 まだ、感触が残っている。

 ゲートを通った瞬間、赤いジェットが逆さまに跳んだ。それは見えた。そして、その後氷后が自分にしたことも、まるでスローモーションのように感じ取れた。

 そう、信じられないことだが――ヤツはついと右腕を伸ばし、自分の頭を撫でたのだ。

 挑発なのか、それとも頭が艇とぶつからないよう下げさせたのかは分からない。

 なにより、鳥肌が立ったのはそこじゃない。

 そのときの、彼女の顔――一瞬の交錯の中で、そこだけ切り抜かれた一枚の静止画。

 敵意や殺意ならよかった。睨みつけられたほうが、よほど楽だったに違いない。だが。

 氷后は、笑っていた。赤子をあやす母親のような顔で、やさしく、おだやかに。

(オレは……オレなんか、敵じゃねーってのかよ!)

 思えば、最初からそうだったのだ。

 シベリウスが後から入ってきたんじゃない。自分が見つけたと思った『音の向こう』は、とっくに彼女のものだった。自分は、彼女の切り開いた世界にやっとこさ生まれ出たばかりの、赤子にすぎなかったのだ……

【ああっと、残り三百メートルでキャンデロロ失速! トップとの差は二艇身! これは勝負あったか! やはり氷后の牙城は崩せないのか!】

 視界が薄暗く曇ってゆく。自分のまわりにだけ、黒雲が立ち込めるような錯覚。

 その雲の中から、ぬらり、と漆黒のヘビが伸びてくる。顔に、首に、肩に、手足に、うねうねとからみついてくる何匹ものヘビ。牙が皮膚を食い破り、肉を噛み裂く。

「オ……オレは……オレ、は…………」

 喰われる。

 ――オレは、世界一……………………………………………………………じゃ、ない。



「コーチ、ロロが潰されたって……」

 クリスの問いかけに、沢村は唇を噛んで答えた。

「キャンデルの力の源は、自信だ。自分こそが世界一だという自負があいつを支えている。シベリウスはそれを断ち切ったんだ」

 おそらくビッグゲートに突入する前に、ロキシィを抜こうと思えば抜けたのだろう。

 それをわざわざあんなアクロバティックな真似を見せて、実力差を思い知らせた――それもこれも、ロキシィを脅威と認めたがゆえなのだが。

 シベリウスとの差は、もう三艇身にまで広がった。ばかりか、三位のブラジル艇までもが、もう真後ろに迫っている。

「ロロ……泣いてル」

 クリスのつぶやきは、親友ならではの的確さだった。

 涙を流してはいない。先ほどの抜け殻状態から一転、今度は躍起になってジェットを前に持っていこうとしている。必死の顔――だけどそれは、子供がケンカに負けてムキになるのと同じだ。泣きそうになるのを我慢しているだけ。

「キャンデル! 力を抜け! リラックスしてヒザを使うんだ! キャンデル!」

 必死の呼びかけにも、もう応えはない。

 またもヒザが固まっている。それどころか、全身が硬直している。いわゆる『置き物』状態だ。スタミナが切れて技術の差がモロに出る終盤、これではもう――

「くそっ!」

 沢村はテーブルに拳を叩きつけた。腹が立ってしかたない。

 言うことをきかないロキシィにではない。無力な自分に、だ。

(何をやってる、私は! こんなときこそコーチの出番じゃないか!)

 トライアウトの時点で、すでにロキシィの儀力は全盛期の自分を凌いでいた。その才能を伸ばすため、過酷な練習を課した。辛かったと思う。苦しかったと思う。それでも彼女は、よくついてきてくれた。今、ロキシィの実力は間違いなく世界を凌駕する。

 力を出し切れば――シベリウスにだって勝てるのだ。

 それができないのは、誰でもない、コーチの責任だ。罪だ。

「コーチ……!」

 クリスのすがるような声が痛い。こんな場面でリラックスなど無茶だというのは、百も承知だ。それでもなんとかしなければ。

(だが、どうすればいい……どうすれば!)

 ブラジル艇が後ろから追いついてくる。ラテンの歓声が容赦なく背中に突き刺さる。

 画面の中でもがき続けるロキシィ。遠ざかるシベリウス。迫るリミット。

 沢村は覚悟を決めた。こうなったら――やぶれかぶれだ。

「キャンデル、聞け! よく聞けよ!」

 肺が破裂しそうなくらい息を吸い込む。

 次いで放ったその大声は、間違いなく、地球の裏側にまで届いた。

「ポッ…………ポンポコリ――――――――――――ン!」

 世界が白く凍りついた。

「こ……コーチ……?」

 困惑の向こう側に行ったような顔のクリス。

 沢村は沸騰した顔を、テーブルに押しつけた。十億トンの後悔が襲ってきた。できうることなら五秒前に戻って、パニクった自分にナイフを突き刺してやりたい――そう思ったときだった。

【あっ……?】



【差が……】

 詰まってゆく。絶望的だったその距離が、わずかずつ、しかし確かに狭まってゆく。

【なっ……なんだ? 日本艇キャンデロロ、スラロームを次々と突破してゆく! まるで別人の動きだ、一体何が起こった?】

 高ぶる実況の声も、驚きざわめく観客の声もよく聞こえる。

 ヒザはバネのように靭くそして柔らかく、艇は高速道路を走るように海を疾走する。

 ロキシィは――笑っていた。

(ったくよォ……おかげで思い出しちまったじゃねーか)

 誕生日パーティー。タヌキ。そば屋のバイト。ツンデレ。メイド。

 笑って。泣いて。怒って。はしゃいで。一日があっという間に過ぎていった。苦しいはずの練習が、待ち遠しくて仕方なかった。みんなの体温が、最高に心地よかった。

(そうだよ。オレはもう一人じゃねー……)

 あの日々の積み重ねの上に、今がある。今の自分があるのだ。

 無音なんかじゃ、ない。

(くやしいけどよ、オレの世界は、もう――)

 ――ロロちゃん。  ――ロロさん。   ――ロロ。   ――キャンデル!

「てめーらの声でいっぱいなんだ!」

 ロキシィは波を蹴った。

【うあああっ! キャンデロロ、さらに加速! もうトップとは一艇身差だ! ま……負けるのかッ? 世界最速が、シベリウスが敗れるのかッ? ジェットの歴史が変わるのか――!】

 スラロームを抜けた。目の前に最後のブイ。そこを左に曲がった先――見えた。

 バトンエリアだ。洋上、セットアッパーたちのジェットが横並びに待ち構えている。

 そして自分と同じ青のジェット、円はもうゆるやかに助走に入りながら、こちらに視線を向けている。自分のバトンを待っている。

 ホルダーからバトンを取り出した。風が吠え、ツインテールが躍った。

 シベリウスがこちらを振り返った。その顔は、見間違えじゃない、恐怖に歪んでいた。

 ロキシィは八重歯をむき出して笑った。

(いいカオだぜ、氷后サンよ。だが、それじゃあまだ、許してやんねー)

「見せてもらうぜ、てめーの泣きっ面ァ!」

【追うキャンデロロ! 逃げるシベリウス! 両雄半艇身差で最終ターンに突入!】

 シベリウスが先行する。渾身の左ターン。女王の意地。ブイをかすめる芸術的曲線。

 最短距離をなぞるそのラインの、しかし、ほんのわずかなほころびを、今のロキシィは見逃さない。

 弧の頂点、目の前を赤いジェットが右へ流れ、空いたスキ間は、ほんの一艇分。

 全体重を左に落とす。全儀力をバーに叩き込む。全存在を、この一瞬に。

「目ン玉かっぽじってよく見てろ! これがオレの!」

 差し一閃。

「ありったけだァ――――――――――――――――――――――ッ!」

 ブチ抜いた。

 歪んだ視界の右側を氷后が滑り落ちた。

 瞬間、目の前に一気に光が広がった。それは、ずっと夢見続けた、世界一の景色だ。

 歓喜が全身を埋めつくした。

 重力の戒めが解け、身体が空に浮き上がった。そして天地がひっくり返った。

 ……。

 …………。

 ………………。

「ぷはっ! ……あれ?」

 ロキシィは水面から顔を上げた。

 泡立つ波間にただよっている。ライフジャケットの空気で浮かんでいる。すぐ横で、青いジェットが白い腹を見せて浮かんでいる。空は高く澄んでいる。

 引き波が折り重なったせいで、海は荒れ放題に荒れていた。スターターたちはとっくにバトンを渡し終えて、慣性走行に入っている。その向こうでは、バトンを受け取ったセットアッパーたちが、もう米粒のような小ささだった。

 何がなんだか、分からなかった。

 激しい波音の合間に、実況の叫び声が飛んできた。日本艇。痛恨。キャビテーション。氷后の引き波を踏んで。転覆。そんな単語がとぎれとぎれに聞きとれた。

(キャビテーション? 転覆?)

 まさか。ありえない。この大事なレースで、このオレがコケるなんて。

 ヴァーミリアン・カップ。世界一の晴れ舞台。この五ヶ月、この日のために生きてきた。天才のこのオレがちょっとは努力なんかしちゃったりして、トシマの言うことも聞いてやったりなんかしたりして、ヘタクソどもの面倒も見てやったりなんかしたりして。

 そう、あいつらはヘタクソだから、このオレががんばんなきゃ。できるだけ差をつけて繋げてやんなきゃ。きっとあいつら、泣いて感謝するぞ。ありがとうございますロキシィ様とか何とか言って、涙流して抱きついて。

「……ロ……ん……」

 トシマだって。絶対。喜んで、くれて……。

「……さん……ロロさん!」

 顔を上げた。バトンエリアに、たった一人。円がこちらに強く手を伸ばしていた。

 バトンはすぐ横に浮かんでいた。のろのろとそれを拾い、のろのろとジェットを起こし、のろのろと船体を前へやり、素人のようにヒザを片方ずつ乗せて騎乗する。

 さんざん繰り返したバトンタッチの練習は、クソの役にも立たなかった。ロキシィは店員が客にお釣りを渡すように、それを手渡した。

 円は涙顔を残して、波の向こうへ消えていった。

(何泣いてんだ、アイツ……)

 ぼんやりとそれを見送るロキシィの上。空からぱらぱらと落ちてくるものがあった。

 拍手だ。

 スタンドの観客たちが立ち上がり、柔らかに手を叩いていたのである。

 よくやったぞ。惜しかったな。がんばった、胸を張れ――そんな声も聞こえてくる。

「あ……」

 そこでようやく。

 ロキシィは、自分がしてしまったことの意味を、知った。

「あ……あ……ああっ……」

 もう、何も考えられなかった。世界が滲んでゆく――


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