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サムライ・ドルフィンズ  作者: 古池ケロ太
ヴァーミリアン・カップ
38/50

(4)

「よし! よォしッ!」

 沢村は、胸元で何度も拳を握りしめた。百点満点の立ち上がりだ。

 ロキシィをスターターに選んだのは、スピードももちろんだが、他の二人には無いものがあるからだ。

 それは、勝負カンである。ジュニアでいくつもの修羅場を踏んできた彼女には、状況の変化に瞬時に対応する力が備わっている。そしてそれを生かせるのは、レース中最大の混戦となる、このスタート直後をおいて他にない。

「やりマシたね、コーチ!」

 クリスがスタート地点から駆け戻ってきた。息が荒いのは走ってきたから、というだけではない。親友の快挙に、さすがの彼女も興奮を隠せないようだ。

「まだ始まったばかりだ、油断するな。お前も横で見ていろ」

「ハイ!」

 立場上、顔を引きしめて注意はした。が、一番胸を高鳴らせているのは、沢村自身だ。

 ここからは、レース中最長を誇る大直線『アンリミテッド・ハイウェイ』だ。五百メートルの距離を小細工も何もなく、ひたすらに突っ走る。要求されるのはただひとつ、スピードのみ。

 すなわち、ロキシィの土俵だ。

 ――いける。このレース、取れる!


【日本艇さらに加速して二位との差、実に六艇身差! すごいすごい、大会史上にまれに見るスピードスターの登場だッ!】

 暴力的な勢いで、風は髪を引き抜こうとする。顔を打つ水しぶきは弾丸の痛みだ。

 だが、心地いい。天国になんか行ったことないが、きっとこんな感じだろう。

 風の音がめまぐるしく変わる。ビリビリと紙を引き裂くようだったそれが、獣の咆哮に化け、次いでヘリコプターのプロペラ音にも似た爆音に変質してゆく。

 ふっつりと、全ての音が消えた。風も、波も、歓声も聞こえない。

 無音――ロキシィのネコ目が、恍惚に緩んだ。

(来たぜェ……『音の向こうっかわ』に!)

 この世界に足を踏み入れたのは、ヴァーミリア島についてからのことだ。

 直線の練習をしていたときだ。島の鐘楼が、正午を知らせた。最高速で飛ばす最中、長く響くその音が、奇妙に歪んで聞こえた。ビデオのスロー再生のような感じだ。

 はじめはドップラー効果とかそのへんの類だろうと思った。だが、歪んだ音は、日に日にその質を変えていった。まるで、自分を追いかけきれず、息切れするように。

 ある日、ふっとその音が途切れた。鐘の音も、近くを行く観光船の音も、そして気がつけば波や風の音もなかった。音を置き去りにしたのだ。

 そのとき、はっきりと自分が誰も到達したことのない世界に来たことを知った。

 ロキシィ=キャンデロロは、正真正銘、世界最強のライダーになったのだ。

(見たか、女王サンよ! これがオレだ! てめーが退けモンにした、ロキシィ=キャンデロロだ! ざまあみやがれ!)

 ロキシィは噛みつかんばかりの勢いで振り返った。ここから先は一人旅だ。見えなくなる前に、女王の歯ぎしりする顔を目に焼きつけておこうと思う。

「……?」

 いない。赤いジェットが見えない。視界に映るのは、十艇身以上も後ろでもたつく雑魚どもだけだ。まさか、コケたのか――と思ったその瞬間。

「ふぐりかも」

 心臓をわし掴みにされた。

 無音の世界に突如として入り込んできた、その声の主は――



 再びの大歓声がスタンドを揺らす。

【うわああっと、来た来た来た! 一度は引き離されたシベリウス、半艇身差まで巻き返してきた! 青二才にデカい顔はさせないとばかりのスーパーチャージだァ!】

 ディスプレイの中で、ロキシィの顔が驚きから焦りに変わってゆくのを、沢村は見た。

 口元から余裕の笑みは消え、全力全開フルスロットル。――だが。

【離せない、離させない! シベリウス、ハイウェイの真ん中でスピード違反のルーキーをガッチリ逮捕! まさにまさに、海の上の刑事コロンボとお伝えしておきます!】

「そんナ……スピードでロロが遅れをとるなんテ」

 呆然のクリスに、沢村は「いや」と首を振った。その額にも冷や汗がにじんでいる。

「純粋な速さでは、わずかだがキャンデルが上だ。儀力でもシベリウスを凌ぐだろう」

「なら、どうしテ? 何か秘密でモ……」

「秘密も秘訣も何もない。見てみろ、二つのジェットの周りを」

「周り……? ……あっ」

 クリスはメガネの奥の目を見開いた。

 ロキシィの艇の周囲には、大量の水飛沫がひっきりなしに飛び跳ねている。荒れた引き波がカーペットのように敷き詰められ、海を蹂躙するという表現がぴったりだ。

 対してシベリウス艇には、それがない。サイドバンパーに切り取られた水がわずかに白く線を残すだけで、これだけのスピードなのに、その静けさは不気味なほどだ。

「スタンスだ。キャンデルの艇は波に乗り上げるたびにバウンドしている。砂利道の上を走っているようなものだ。対してシベリウスは、アスファルトの道路を進むように、全くブレがない。前後に細かく体重移動することで艇のスタンスをまっすぐに保っているんだ。馬力が互角なら、どちらが速いか、考えるまでもない」

 クリスは声を失った。それは、沢村自身からさんざん教え込まれた、ライディングの「基礎の基礎」である。五ヶ月の間うんざりするほど聞かされた言葉の、その本当の意味を、理由を、たった今思い知ったのだった。

「見ろ、ヤツのライドを――」

 言いながら、沢村は幻肢痛に顔をしかめた。シベリウスは自分が知っているよりも、はるかに速くなっている。今さら、その二つ名を思い出させるほどに。

 知らぬ人は、その由来を彼女の冷厳な雰囲気と結びつけて考える。

 だが本当は違う。今、このライドを見れば誰でも分かる。

 そう、アスファルトの道路どころか――

「まるで、氷の上を滑ってるようじゃないか……?」

 『氷后ラ・グラッセ』。

 魔法ではない。手品でもない。ただひたすら基本に忠実に、そしてそれを神域にまでつきつめた、究極のライダー。それが世界最速、ジーゼ=シベリウスの正体だ。

【さぁ、とうとう追いついた! 氷后、ついに王座に舞い戻った! 日本艇は伸びが足りない、もう限界かッ?】

 歓声が沸騰する。客席に三色旗トリコロールが華々しくひるがえる。

 沢村はマイクに向かって声を張り上げた。

「キャンデル! ヒザだ! ヒザを使え!」

 悪いクセが出ている。波を無理に押さえつけようとして、デッキの上で踏ん張ってしまうのだ。だがこれは逆効果だ。ヒザが固まり、体重移動もクソもなくなってしまう。

「キャンデル! スクワットを思い出せ! ヒザの力を抜くんだ! キャンデール!」

 返事はない。追いつかれたことで、完全に頭に血が昇ってしまっている。

 しかも、である。

(いかん! この先は……!)

 全身の血が冷えた。このまま突き進めば――命にかかわる。

【さぁ、アンリミテッド・ハイウェイも残り三分の一! 疾走する二艇の前に、ファーストフェイズ最大の見せ場、『ビッグゲート』が立ちはだかります!】

 ビーチ脇の大スクリーンが画面分割され、そのうちの一つが、大直線の最後に待つものを映し出した。その威容に、スタンドから感嘆とも畏怖ともつかない息が漏れる。

 ビッグゲート――その正体は、波に浸食されてできたトンネル状の奇岩である。

 コースをさえぎるように立つ高さ十二メートルの巨岩は、もともとは、左手に見える岸壁の一部だったらしい。長い間波にさらされた結果、岬から切り離され、おまけにどてっ腹に穴まで開けられた不幸な岩。ライダーたちを通せんぼするのは、その逆恨みに他ならない。

 スターターたちは、この穴を通過しなければならない。コースアウトは即失格だ。

 入口から出口まではたった一メートルほどだから、トンネルというよりはまさに門だが、恐ろしいことは、この穴の幅までもが一メートル強――すなわちジェット一艇分しかないことだ。

【日本艇、フランス艇、両者相譲らず! ビッグゲートまで残り百メートル! こ、このまま行けば大変なことになります!】

 観客たちがざわつきはじめた。

 二艇は激しくバンパーをぶつけ合いながら、門への突入ラインを争っている。もしこのままなら、いずれか片方、または両方が岩に激突する。

 ここを抜ければ、ゴールまではスラロームが連続する。そこで先行艇を追い抜くのは至難の業だから、ここは是が非でも先頭でくぐり抜けたい。

 が、それもこれもジェットが無事ならという話である。いや、もし時速百二十キロ超のこのスピードでぶつかれば、ジェットどころか――。

「キャンデル! ここは一旦下がれ! 共倒れになるぞ!」

 『下がる』という単語にアンテナが触れたのだろうか。ロキシィはようやっとコーチの言葉に反応した――もちろん悪い意味で。

『寝言は寝て言え! 走ってんのはこのオレ様だぞ! 一億ユーロでも譲れっかよ!』

 沢村はもう、テーブルを叩くしか打つ手がない。

【残り七十メートル! 五十メートル! さ……三十!】

 もう手遅れだ。ここで突入ラインから外れたら、確実に激突する。

【二十! 十ッ!】 

 二艇が同時に門へと殺到する。クリスは顔を手でおおった。

 その瞬間だった。

 真紅のジェットが右に流れた。シベリウス自ら、ラインを外れたのである。

 時が止まったかに思えた。

 沢村も観客たちも、それを目撃した全ての人間が凍りつき、そして同時に考えた。

 シベリウスが、ジェットレース界の至宝が――死んだ。

 爆音。

 噴きあがる巨大な水柱。

 通過の瞬間、ジェットの巻き上げた大量の水が岩の内側にはね返り、門が塞がれる。『閉門クロージング』と呼ばれる現象である。 

「なんだ、どうなった!」「何も見えないぞ、おい!」「氷后はどうなったんだよ!」

 白い水煙が視界をふさぐ。水中で爆弾が炸裂したようだ。騒然となる客たちの前で、ディスプレイが門の向こう側を映し出した。

 映ったのは、無傷で走るブルーの日本艇と――そして。

【あっ……】

 ロキシィの『左』にぴたりとついた、氷后のジェット。

【ぶ、無事です! シベリウス、無傷でゲートを通過!】

 喝采が上がった。

【し、しかし、どうやって門を抜けたのでしょう? ……あっ、今リプレイが入ります。レースの途中ですがご覧ください、ビッグゲートの内側のカメラからの映像です!】

 分割画面の一つに、スロー映像が映される。

 カメラは真上から見下ろす形に設置されているらしい。画面右から、二艇が突入してきた。この時点ではまだシベリウスは画面上部、すなわちロキシィの右側だ。

 それが動いたのは、岩肌に激突しそうになる直前だった。画面上部から中央左に向かってナナメに移動した。そしてそこから、船底を見せながら、ロキシィ艇に重なるように通過、そのまま画面下へと消えてゆく。

 ジャンプしたのだ。

 ロキシィが引かないと見た彼女は、とっさにジェットを跳ね上げた。そしてきりもみしながらロキシィ艇の上を飛び越し、門を通過、そのまま回転して着水――

「アンビリーバブル!」「なんだそりゃ、すげぇ!」「ブラヴォー! ラ・グラッセ!」

 再び大歓声が沸く。一歩間違えば門の内側に激突する、紙一重の神技である。

 声もない沢村――と、その袖をクリスが血相を変えてつかむ。

「コーチ! ロロの様子が!」

 見れば、すでに二艇は右へ左へ連続するスラロームゾーンに入っている。

 ブイとブイの間隔は三十メートルもあるから、そう難しいコースではない。

 なのに。

【うわっと! 日本艇キャンデロロ、あやうくコースアウト! どうした、急に!】

 まるで酔っぱらいだ。ハンドルバーをでたらめに振り回し、デッキを踏む足はおぼつかない。視線もヒジの曲げ方も滅茶苦茶で、ターンのたびにいびつな航跡がブイを囲む。

「何やってんだ、ルーキー!」「まともなのは直線だけか、おおい!」

 この醜態に、スタンドからはブーイングだ。――そして。

【うわーっと、ここでシベリウスだ! ふらつく日本艇を尻目に、真紅のジェットがついに前に出た! ファーストフェイズ残り五百メートル、勝負の天秤は傾いたか?】

「ロロ! どうしたノ、しっかりしテ! ロロ!」

 白い顔を蒼白にして叫ぶクリス。沢村は赤い唇を噛みしめ、苦々しくつぶやいた。

「……潰された」

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