(3)
どよめきが空気を揺らした。美海はスープをすする手を止めた。沢村は目だけを向け、
「……ようやくお出ましか」
ホールの入口、押し合いへしあう人だかり。無数の記者とカメラの砲台に囲まれて、それでもその人物の姿は、驚くほど際立って見えた。
美海はツバを呑みこんだ。背筋が凍る、というのはこういうことを言うに違いない。
「見えるか、平良。あの水色のドレスの……」
「分かります」
教えられるまでもない。
違う。まとっているものが、他の人間と圧倒的に違う。
存在感というものが目に見えることを、美海は初めて知った。氷から冷気が立ち昇るような、圧倒的なオーラ。
雪色の肩に、エメラルドグリーンの髪がまっすぐ落ちる。同じ色の瞳は切れるように鋭い。沢村の眼が研ぎ澄まされた日本刀なら、彼女は氷で作ったサーベルだ。
「あれが『氷后』。フランス代表、ジーゼ=シベリウスだ」
いくら美海でも、彼女の顔と名前だけは知っている。世界最速のライダー。生ける伝説。そして何より、前回のヴァーミリアン・カップで沢村と競り合った――
氷の瞳がいきなりこちらへ向いた。
のに続いて、あろうことか、氷后はそのまま近づいてくる。
「あいっ、こ、こここここここっち来る!」
「逃げるな、くそたわけ!」
スープ皿を持ったまま逃げようとする美海を、沢村が引っ掴む。シベリウスは迷いのない足取りで接近してくる。記者たちが家来のごとくそれに追従する。ホール中の視線が注がれる。沢村が席を立つ。真正面から二人は対峙する。
「おおっ、『氷后』と『サムライ・マキ』のツーショットか!」「絵になるぜこりゃ!」
テーブルを囲んだカメラの列から、すさまじい数のフラッシュが撃ち込まれた。
二人の背丈はほぼ同じほど。一歩も退かない、刃とサーベルの鍔競り合い。
先に動いたのはシベリウスだ。真っ白な両腕が沢村へと伸び、緊張が走り、そして、
「おひさっ! マキ!」
抱きついた。
「あ~んもう、この感触超ひさしぶり! ね、ね、ちょっと大きくなったァ?」
チャイナドレスの胸に頬ずりする氷后、その顔は雪が融けたように朗らかだ。
「……やめんか。人が見てる」
「いいじゃないの、見せてあげましょうよ! あっカメラさん後で写真ちょーだいね!あーもう何年ぶり、四年ぶり? 元気してたぁ?」
(す、すごい落差……何言ってるかわかんないけど)
腰砕けになる美海の隣で、不意に赤い闘気が上がった。
「なんですかあの人、わたしの沢村さんを…………。カネ払えよ」
「エンちゃん……」
そして沢村はまるでいつもの調子だ。氷后を引きはがし、流暢なフランス語で、
「相変わらずだな、お前は。少しは落ち着けんのか」
「あン、だって嬉しいんだもの。また貴方と戦えるなんて」
「戦うのは私じゃないぞ」
「貴方が技を教えた子たちでしょう? なら同じコ・ト」
一房だけ長く伸びた前髪を弄りつつ、心底楽しそうに微笑む。声は弾むようだ。
「本当、楽しみ。あのとき、リーグ・アンで私と互角だったのは貴方だけだったもの」
「よく言う。お前の完勝だったろう」
「結果はね。でも、今だから言うけど、いつだって内心ドキドキしてたわ。次こそ抜かれるんじゃないか、負けるんじゃないかって。いつも怖くて、そして楽しみだった」
「……」
「あの続きが、またできるのね。本当、楽しみ……」
「アンネット」
ぴしゃりと叩きつけるような声に、氷后の笑みが吹き消える。
(アンネット?)
美海は首をひねった。氷后のファーストネームは、ジーゼだ。アダ名だろうか。
「今の私はサムライ・マキじゃない。日本チームのコーチ、沢村真希だ。お前がどう思おうと再戦はかなわない。再戦しようとも思わない」
「……」
「もう一度言う。戦うのは私じゃない。あくまで……こいつらだ!」
バッ! と腕を振ってみせる沢村、記者たちの眼が一斉にそちらへ集中する。そして、栄えある日本チームの戦士たちは。
「……どこ?」「いないぞ?」
逃げていた。
「出てこんか平良! 速水! キタガワ!」
ホールの隅っこでダンゴムシになっていた少女たちを、沢村は引きずり戻す。
「うええっ、だってカメラがあんなに!」「わたしも人が多いところはちょっと……」「最初からいないものと思ってくだサレばこれ幸い」
「くそたわけ!」
怒りの沢村、美海のドレスを引っ掴んで立たせ、
「平良、何か一言言ってやれ!」
「えええっ? な、なんであたしなんですかぁ!」
「シベリウスはお前と同じフェイズだ! 宣戦布告だ、気合いを見せろ!」
いきなりの死刑宣告だった。
(あ、あたしが世界最強と……?)
氷后の前に突き出される。途端、機関銃のようにフラッシュが襲いかかってくる。
(む、無茶振りしすぎだよぉ~。言葉も分かんないのにぃ~)
顔を上げれば、手の届く距離に世界一のライダー。何を見せてくれるのか、という感じで、にこにことこちらを見ている。
注目と沈黙が重く重くのしかかった。何かを言わねば解放されそうにない。
(うう~~っ、もう! こうなりゃヤケだ!)
気合い負けするなと沢村は言った。そうだ、気合いだ。こっちだってイヤというほど練習を積んできた。実績は天と地ほども違うけど、努力の量なら誰にも負けない。
気合いのスコップで、知っている言葉を掘り起こせば、回答は一つしかなかった。
「……ウィ……」
洩れた声に注目がぐぐっと集まる。握り拳を天に突き上げ、美海は吠えた。
「ウィーアー、ナンバーワ――――――――――――――――ン!」
あぜんとした沈黙の後。
大爆笑が沸き上がった。
「わはは、なんだそりゃー!」「氷后の前で王者宣言か!」「いい度胸してるよ、君!」
腹をかかえて笑う群衆。赤面し、自由の女神のごとく固まる美海。やんやの大喝采。
「――うそつきね、マキ」
背後の声に沢村は振り向き、ぎょっと固まった。
シベリウスの指先が、目元に触れていた。恐ろしく冷たい瞳で、妖しく微笑んで。
「貴方の目は復讐に濁っている。牢獄から抜け出したモンテ・クリスト伯のそれよ」
「なに?」
冷たい指は、つぅと唇に流れ、そして離れた。
「目は口よりも正直……また遊びましょう?」
足音もなく去る氷后。
沢村は、身じろぎもできず、ただ立ちつくした。