(9)
役割。リザーブの役割。レギュラーの役割。
いつだってそうだった。美海はレギュラーを獲りたいなんて、一度も言わなかった。
――一人でやるより二人の方がいいでしょ?
併せ練習につきあってくれた。レモンの砂糖漬けを持ってきてくれた。チームのためになることを、ずっと考えてくれた。
(ミミ……)
お盆を持ってホールに戻る。途端、
「おめでと――――――――――――――――――――――――――――――っ!」
バカ声と破裂音が襲ってきた。次いで目に映ったのは、自分の頭から垂れ下がるクラッカーのリボン、そしてその向こうの、少女たちの笑顔。
「いやー、わりわり、なんか驚かすタイミングがなくってよー!」「十五才、おめでとー! クリスちゃん!」「おめれとーごらいまーす!」
クリスはその場に立ちつくした。みんながいた。祝ってくれていた。クラッカーを手に笑いかけてくるロキシィ。美海。円。そしてタヌキ――
「……って、タヌキっ?」
「タヌキがどうかしたか、キタガワ?」
タヌキがしゃべった。……と思いきや、それは両目と鼻を黒く塗られた人間だった。
「……もしかして……コーチ、デスか?」
「他の誰に見える」
「タヌキに見えマス」
タヌキ、もとい泥酔から目覚めた沢村は、メイク用の手鏡で自分の顔を見た。
縁取りされた両目がみるみるうちに吊り上がった。
「な、なんだこれは――!」
怒声が窓を揺らした。と同時に、爆笑が沸き上がった。
「だからやめとけっつたろー! テャハハハハハ!」
「なんれよぉ! やっらのはロロひゃんれひょお!」
「いやぁん、かわいいれすぅ! さわむらさぁん!」
水性マジックを手に笑い転げる美海たち。……全員酔っていた。
「き、貴様らぁ……!」
怒りに震える沢村だが、なにせ顔がタヌキである。怒るほどにギャグになり、美海たちはいっそう腹をかかえて転げまわる。
「おーい、タヌキ! ポンポコリ~ンって言ってみろ、ポンポコリ~ン!」
だまれ! と沢村が振り回すゲンコツから、美海たちは笑って逃げる。捕まえられない彼女らに、とうとうあきらめたのか、沢村は洗面所へダッシュ、途中で正子に見つかったらしく「あら? 意外とお茶目なのねぇ、真希ちゃん」「いえっ、ま、正子さん、これには深いワケが!」などとうろたえる様があまりに哀れである。
一同は笑いがおさまらない。テーブルを叩いて転がる少女たちを、クリスは青い瞳でしばらく見つめ、やがて。
「は……あははっ」
はた、と美海たちは顔を上げた。一斉にこちらを見るその様子が、また可笑しくて。
「あははっ! あはははははは!」
クリスは笑った。口を開けて。生まれてこの方なかったくらい、精一杯に。
「クリス……」「クリスちゃん、笑ってる……」
やがて美海も。
「にゃはははははははははは!」
「うお? 狂ったか、モーコ?」
「えー? だって、うれしいじゃない、クリスちゃんが笑って! ねー!」
なんだそりゃ、とロキシィは呆れ、しかし次には巻きぞえを食らった感じで笑いの渦に巻き込まれてゆく。さらには円もそれに続く。ホールが意味不明の笑いに包まれる。
クリスは思った。
(ああ、ここだ――)
誕生日なんて、どうでもいいと思っていた。ただ年齢を重ねるだけのことに、どうしてそうまで騒ぐのか、理解できなかった。
だけど、今なら分かる。こうして一緒に過ごしてくれる人がいる。それだけで、こんなにも嬉しくて、楽しいなんて。
自分の海はここにある。他のどこでもなく、このチームで自分は優勝がしたい。
そのために自分ができること。そのための、自分の役割。それは――
「はぴばっせーとーゆー。はぴばっせーとーゆー。はぴばっせーであークリスちゃーん」
美海のひどすぎる発音に和を乱されつつも、祝福の歌が終わった。
電気を消したホールの中、十五本のロウソクが、主賓の手によって吹き消される。弾ける拍手に、クリスは真っ暗やみの中、頭を下げる。
「おや?」
と壁際に控えていた沢村が声を出した。カチカチとスイッチを押す音がする。
「おい、早く電気つけろよ。タヌキ」
「やかましい! ……妙だな。スイッチがきかん」
「ひょっとして停電ですか?」
「やさ(だね)。ほっとけばそのうち戻るよ」
さすがに慣れているだけあって、美海はのんびりしたものだ。が、他のメンバーはどうにも落ち着かない。互いの様子を見るような、むずむずした沈黙の中、ふと。
「あノ。みなサン。そのままでいいので聞いてもらえマスか」
おっ、という雰囲気が闇の中で吹き上がった。
「ええト。ワタシが初めてジェットに乗ったのは、三年前のことなんデスが」
「あいー? なになに、クリスちゃん、プロフィール紹介?」
にわかに始まった自分語りに、固まりかけていた空気が、一気に解きほぐされる。
少しはにかむように笑ってから、クリスは続けた。
「……それは、ロロに誘われてのことデシた。いじめられて、ふさぎこんでいたワタシに、乗ってみるかって言ってくれテ。一人乗りのジェットだったんデスけど、ロロが後ろについてくれて。……あのときのことは一生忘れマセん」
「な、なんだよ、こっ恥ずかしーな」
照れ臭そうなロキシィ。クリスの声が、微笑みを帯びる。
そう、忘れない。海に照り返す陽光、流れゆく風。この世の誰よりも自由になった気がした。フランス人でも日本人でもない、ただのクリスティーヌ=キタガワになれた。
「ロロがあのとき言ってくれた言葉、よく覚えてマス。『泣くな、クリス。泣きたいときこそ笑え。それができなきゃ、せめてむっつりしてろ。泣き虫クリスよか、むっつりクリスのほうがマシだ』って……あのときから、ロロと同じ海を走ることがワタシの目標になりマシた」
すでに、場からうわついた気配は消えていた。
「でも……」
でも今、その目標は、もっと大きなものに――夢になった。
個人じゃなく、チームのために。自分のためじゃなく、自分たちのために。
「コーチ。アナタがこの数日、ワタシに言おうとしていたコト、分かってマス。ワタシに気をつかって、言い出せなかったコトも」
沢村の、何かをこらえるような息遣いが聞こえた。
「どうか言ってくだサイ。覚悟はできてマス。ワタシは……」
「やめろ、クリス!」
ロキシィが叫び、イスの倒れる音がした。クリスはやめなかった。
「いいの、ロロ。ワタシはワタシの夢を叶えてくれる人を見つけタ。だから……」
光が瞬いた。数度の点滅を経て明かりが戻り、佇む少女の姿を映し出した。
クリスは、泣いていた。
「だから、ミミ」
青い瞳から涙の粒を落とし、それでも口元にはおだやかな笑みを浮かべて。
「バトン……渡しても、いいデスか?」
「クリスちゃん……」
クリスのそばに、沢村が歩み寄った。
「もっと早く伝えてやるべきだった。だができなかった。お前の努力を誰よりも知っているつもりだったからな。……だが、それが余計に長く苦しめてしまったんだな」
すまなかった――そう言う彼女に、クリスは小さく首を横に振った。
「キタガワ。私たちを支えてくれるか」
「……ハイ!」
精一杯の声を絞ると、後はもう言葉にならなかった。せきを切ったように泣き声を上げるクリスの、そのメガネをそっと外し、沢村は抱きしめた。
円がハンカチで目をぬぐう。ロキシィは両膝に震える拳を押しつけ、怒りを押しとどめるように床をにらみすえる。不意に美海の胸倉をつかみ、
「クリスの分も走るんだ。ぜってー優勝するぞ、モーコ!」
美海は、魂を抜かれたように、何も答えなかった。
雨風の勢いが止まず、沢村たちはそのまま平良家に泊まることになった。人数の関係から、ロキシィ・円・クリスは居間、沢村は美海の部屋だ。
「すまんな、浴衣まで借りてしまって」
「いえ。サイズ大丈夫ですか?」
「ああ。問題ない」
とは言うが、やはり少し小さいらしい。浴衣の裾からは白い脚が露わになっていた。
円を一緒にしなくてよかった、と美海は思った。
窓を開けると、黒雲はまだ空をおおっていた。ただ、雨は小降りになったようだ。
「……ビックリしました。クリスちゃんがあんな顔するなんて……」
「それだけのものを背負っているということだ。ライダーなら、きっと誰でも」
「沢村さんも、ですか?」
その質問は予期してなかった、というふうに沢村は目を開いた。右肩を押さえ、
「私はとっくに引退した身だからな。口のするほどのものはない。……ただ、それでも」
窓の外、はるか遠くへ視線を飛ばす。口元はぐっと引き締められている。
「ヴァーミリアン・カップを制した者に贈られる、三女神のトロフィー。一度でいい。あの杯を抱きしめてみたい。それはきっと、全てのライダーの夢だ」
美海は、押し黙った。
「どうした、平良」
「あたし、ライダー失格かもしれません」
沢村は眉をひそめた。
「あたし、ただ、夢中で……リザーブになって、お母さんに『役割を果たしなさい』って言われて、そうしようって思って。あたしにできること、全力でやろうって、本当にそれだけなんです。レギュラーとか、トロフィーとか。一度も……考えなくて……」
たどたどしく、整理しきれないままの言葉が、口から洩れる。
「それが、急にあんなこと言われて……なんていうか……びっくりするばっかりで」
クリスが泣いたとき、何もできなかった。
ロキシィに迫られたとき、何も言えなかった。
がんばろう――そう言われたなら、うなずくこともできただろう。だが。
――勝つぞ。
その言葉を聞いた瞬間、胸がくしゃくしゃに潰れてしまったのは、なぜだろう。
プレッシャーに押しつぶされた、というのではないと思う。
勝つか負けるか。そんなところにまで考えが及んでいなかったのだ。
トロフィーを抱えている自分を想像できない。突如示された頂への道のりを、どうやって登ればいいのか分からない。絶対勝ちたい、負けたくない。そういうところまで、気持ちを持っていけない。クリスが渡してくれたバトンを、自分は受け取っていない。
「ダメ、ですよね。こんなんじゃ……」
うなだれる頭の上に、ふと――あたたかな感触が降りてきた。
沢村の手だった。
「歴史は、繰り返すんだな」
「沢村さん……?」
「昔、同じセリフを言ったライダーがいた。フランスに留学することが決まったんだが、なにしろまだ十四歳だ。いざ出発というとき、成田のロビーで泣きだしてしまった。イスにしがみついて『行きたくない、恐い、ライダーなんてもうやめる』、とな」
「それって……」
ぽん、とやさしく手の平が頭を叩く。
「そのときだ。出迎えに来てくれたそのライダーの師匠が、こう言った。『ジェットにバックギアがあるのか』と」
「……」
「『ジェットは前にしか進まない。泣いても叫んでもそれは同じだ。だったら顔を上げろ。ただひたすらに前へと進め』。……今でも、忘れない」
沢村は、ゆるやかに微笑んだ。
「難しく考えるな。平良」
黒曜石の瞳は、深い夜のやさしさだった。
「悩んでも迷っても、ジェットは前にしか進まん。だから、変えるな。曲げようとするな。顔を上げろ。胸を張れ。ただひたすらに、前へと進め。――以上だ」
「……はい!」
なんて単純なんだろう。強く返事をした途端、胸のつかえがすっかり取れてしまった。
そうだ。自分はバカだから、同時に二つも三つも違うことはできはしない。
だから、一つのことに全力を注ぐのだ。それでいいんだ。それしかないんだ。
「あ」
窓の外に目を向ける。沢村もそれに続く。
いつの間にか、黒雲は去っていた。ひさしの向こうは宝石箱のような星空だ。天蓋を埋めつくす星の海、そこに白い航跡が尾を曳いた。
「流れ星……」
一瞬のきらめきを残して、天空の矢は飛び去ってゆく。海の向こう、はるか東へ。
東へ――