(2)
鼻穴固めからようやく解放されると、そこは仏間だった。畳の上にタンスと見まがうばかりの巨大な仏壇がある。キャーギーという木材で作った、この島独特のものだ。
遺影の中は、真っ黒に日焼けした、いかにも海の男といった感じの人物だ。
頭を押さえつけられ、正座する美海。どんな怒声が来るかと思いきや、母は意外なほど静かな声で、
「まだあきらめてなかったの」
美海は虚を突かれた。やがて苦しまぎれに半熟の笑顔を作り、
「だ、大丈夫だよ、お母さん。あたしが出るのは女子のほうだし……」
「バカ、同じよ。知ってるでしょ、片腕なくした人」
「……」
「それともあんた、その人やお父さんと同じ目に遭いたいの? 同じ、目……に……」
母の目にじわり、とにじむものがあった。ヤバイと思ったときにはもう遅い。かさついた唇がぐにゃりと歪み、「ふぃ」とふぬけた息が漏れるのに続いて、
「ぶえぇ――――――――――ん!」
泣いた。子供泣きだった。
母親の、それも今年で四十に手が届く中年女のマジ泣きである。いろんな意味で見るにたえず、美海は仏壇に備え付けのバスタオルをブシッと押しつけた。
「あーもーほらほら、イイ子だから泣きやんでよぉ。お父さんが見てるよぉ、ね?」
「うぶええええ~~ん。だっへぇ~、お父さんが死んで、ア、アンタまでいなくなったら、わ、私どうしたらいいか……。なんれよぉ、どーして二人とも、そんなに死にたがんのよぉ~~~~っ、ぶえええええ――っ!」
女手一人でそば屋を切り盛りする気丈な母も、父のことを思い出すたびにこの有様だ。
今度は美海がため息をつく番だった。
(どうして、かぁ……)
多分、母は父を失ったことが悲しいのではない。
遺影を見る。ヴァーミリア島に出発する前、父は部屋を片付けていった。知人に遺書を預けていった。自分たちを受取人に、生命保険までかけていた。死にたがっていたわけでは当然ないだろうが、その覚悟はできていたわけだ。
なんで。どうしてそこまでして。
それが今でも分からないから、母はまだ泣くのだ。
自分も父を憎んでいた時期があった。勝手にレースに出て勝手に死んだあげく、全身肝っ玉な母を、こんなにしてしまった。同じ思いはさせないと母に約束だってした。
だけど。
――なんで。どうしてそこまでして。
時間が経つにつれ、その問いは、違った形に成長していった。
――そんなにしてまで、出たいのかな。そんなにすごい大会なのかな。
間違っても憧れではない。だけど小さな疑問はぼんやりとした興味へと移り、やがて三年半――自分の体はすっかり問いに支配されてしまった。
――見たい。知りたい。感じたい。
このあいまいで巨大な『なんで』の重しをかかえたまま、生きていきたくない。
そして、その重しを外す方法は、一つしかないのだ。
「……ね、お母さん。まだお父さんのこと、好き?」
母は嗚咽は止めた。
「な、なによ、急に……」
「あたしは好きだよ」
遺影の横には、彼と幼い美海が砂浜の上、ジェットに相乗りしている写真がある。それを置くのを正子はイヤがったが、仕方なかった。家中をひっくり返したところで、この二人がジェット抜きで映っている写真など、一枚もないのだから。
「お父さんのこと、キライになりたくない。だから、行くんだ」
中庭に風が吹き、デイゴの葉をさわさわと鳴らした。
ぶみーっ! とタオルの向こうで鼻をかむ音。「うっ」と十センチも後ずさる美海に、正子は仏壇の棚から何かを取り出して渡した。
「これって……?」
ゴーグルだった。強い水飛沫にさらされ続けるライダーにとって、必須の装備である。
両目がつながったデザイン。ずいぶんと使い込まれたものらしく、バンドの部分は海水で変色していた。
「お父さんのよ。前の大会で使ってたの」
美海の顔がパッと輝く。つまり、父の形見である。それを渡されたということは――
「こら、勘違いしない。認めてるんじゃないのよ。その逆」
「へ? 逆?」
「今度こそ約束しなさい。もし今日のトライアウトに落ちたら、それでおしまい。一生ライダーにはならないこと」
美海は息を呑んだ。
「て、ていうことは、次の大会も……」
「当然、ダメ。これがマジで本気で、最後のラストチャンス」
「最後のラストチャンスって、意味がかぶってるような……」
などとツッコんでいる場合ではない。母の目は、これ以上ないほどに真剣だった。
美海は覚悟を決めた。どのみち四年後まで待てやしないのだ。ここが天王山だ。
「分かった。落ちたら、今度こそあきらめる」
「私じゃなくて、お父さんに誓いなさい。だったらもう破れないでしょう?」
美海は神妙にうなずき、遺影に向かって手を合わせた。
「誓います、お父さん。あたし……………………」
不意に振り上げた顔は、ヒマワリのような笑顔だ。
「絶! 対! ヴァーミリアン・カップに出てみせるから!」
あぜんとする母を置き去りに、美海は部屋を飛び出した。