(8)
「オレなら勝ってたね、確実に。あーそりゃもう絶対勝ってたね! 間違いなく!」
「だからぁ~、謝ってるでしょお?」
「謝ってすむことか、あーん? おめー、『ギャフンと言わせる』とか言ってたよなぁ、そりゃ引き分けのことなんか、あああああん?」
いい加減しつこいロキシィのお小言に、美海はうんざりと顔をそむけた。
ジュリエットとの勝負は同着に終わった。正確には、肉眼では判別がつかないくらいの同時ゴールのため、いつぞやのごとく「こっちの勝ちだ」「いいやこっちだ」の言い合いになり、そうこうしているうちに天気がいよいよ怪しくなって、「覚えてやがれ」の一言で両軍解散と相成った。いかにもお粗末な決着であるが、結果的に両者の髪が無事だったのは幸いと言うべきか。
「勝ち負けの問題じゃない。大会前に決闘なんぞしおって、このくそたわけが」
事の顛末を聞いた沢村は、不機嫌の絶頂だ。
「ンだよ、向こうから売ってきたケンカだぞ?」
「勝手に行動を起こすなと言ってるんだ! まず私に連絡しろ!」
「やられたのはクリスだぞ! ンな悠長なことしてられっかこのバカトシマ!」
喧々囂々の二人を尻目に、美海はそそくさと逃亡。交代で円が仲裁に入る。
「まぁまぁ、それよりお祝いしましょうよ、せっかくのパーティーなんですから。クリスさん、本当に大丈夫ですか?」
「ハイ。おかげさまデ」
夜になって、クリスの体調はある程度回復した。顔色はいくぶん良くなったし、表情も生き生きと……はしてないが、とりあえずいつもの鉄面皮を取り戻している。
「でも、大事をとって寝ていてもよかったのに……パーティーなら延期できますし」
「いエ、せっかく貸切にまでしていただいてるんデスから」
「ハナから誰も来ねーって、こんな天気じゃ」
『ふぁいみーる』の外は、絶賛台風到来中。窓枠がガタガタ鳴りっぱなしだ。
「それよりロロさん、少しはお料理運ぶの手伝ってくださいよ。食べてばっかりだと牛になりますよ」
「牛はおめーだよ、妖怪ホルスタイン。肩こりがひどくなって死ね」
「ちょ、ひどっ! 何ですかその地味に効く罵倒! 人の苦労も知らないで!」
「……てめ、遠まわしにケンカ売ってんのかそりゃよォ……?」
ぺたん子ロキシィは、ゆらりと立ち上がった。円がむっと受けて立つ構えを見せる。
しかし、怒号は思わぬところから上がった。
「くそたわけ! 女は尻だ!」
イスを飛ばして立ち上がったのは、沢村真希その人だ。真っ赤な顔で全員を指差し、
「貴様らそこに座れ! 私が尻というものの本質について、三日三晩語ってやる!」
突然のことに、あぜんぼーぜんの美海とロキシィ。
「お、おい。トシマのヤツ、なんか様子がヘンだぞ」
「だ、だーる。なんか急におとなしくなったな、思ったら……」
「問題は大きさではない、品格だ。美学だ主張だ生き様だ。いいライダーの尻はきまって美しい。垂れることなく引き締まりされど曲線に歪みは見当たらない。触れれば弾き返すようなみずみずしさを持ちそれでいて何もかもを受け入れる包容力にあふれている。すなわち丸みと弾力、それが美尻のエッセンスであって……」
今度は一人でくどくどと持論を展開する沢村。一体どうすりゃいいのこの人――というその場の空気を、大音声が打ち破った。
「そのとーりですっ!」
円だった。
「今の若い人たちは、胸にばっかり目がいきすぎです! おっぱいの大きい小さいなんて、本人にはどうしようもないじゃないですか生まれつきじゃないですか! でもお尻は努力すれば変えられるんです! 綺麗な心があれば、綺麗なお尻になれるんです! お尻は心の鏡ですっ!」
「よく言った速水! 今ので全宇宙のおっぱい星人が八割は減ったぞ!」
「ホントですか! わぁーい! ばんじゃーい!」
ばんじゃーい! ばんじゃーい! と諸手を挙げて合唱する円と沢村。
一体何が起こっているのか。別人のような二人の有様に、美海の頭の上で無数の「?」がぐるぐると渦を巻いたところで、
「あの、すみませ~ん。みぃさん、みぃさん、みぃみぃさ~ん」
円がトロンととろけた瞳で、空のグラスを突き出してきた。
「この水、おかわりくだしゃい~。すごくおいしくって~。さすが沖縄れすね~」
「水……?」
まさか、と美海はグラスの残り香を嗅いだ。……酒くさい。
「エンちゃんっ! これ水じゃない! 泡盛だよぉ!」
「何だモーコ、アワモリって?」
「お酒! すんごく強いの! 誰よぉ、こんなの出してきたの!」
と、背後からゴトン、とヤバい音がした。テーブルに沢村の頭が落ちていた。
「あいっ! 沢村さんが倒れた!」
「いエ、寝てるだけのようデスよ」
見れば、黒髪の下からはすぅすぅと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。いつも吊り上げているまなじりが柔らかく下がっていて、意外と言っては失礼だが、愛らしい寝顔だ。
「うは~、さわむらさんったら、かわひ~。ね、ね、食べちゃっていいれすかぁ~?」
「やめとけ変態」
「というか、具体的にどうするつもりなんデスか?」
「ふへへっ、ききたい?」
「……いエ。やっぱりいいデス」
クリスはいいかげん性犯罪者の域に入ってきた円を引きはがし、
「ワタシ、お水もらってきマス」
「ごめんねぇ、お願い。……あ、クリスちゃん」
呼び止める声に、クリスは振り向いた。美海は困ったような、申し訳ないような顔で、
「なんか、いろいろ……ごめんね」
クリスはしばらくそれを見つめ、一言だけを告げた。
「……こちらコソ」
謝れた。そういうことにしてもらおう。あれが今の自分には精一杯だから。
正直体はきつい。でもパーティーは延期したくなかった。今日でないといけなかった。
明日、帰るから。
今まで練習を重ねてきたのは、ひょっとしたらまだ美海に追いつけるかも、という思いにすがっていたからだ。だけど今日のレースで、はっきりと分かった。
美海はもう、手の届かないところに行ってしまった。
明日の朝の便で、故郷に帰ろう。
ロキシィには言わない。きっと泣いてしまうから。
美海には言わない。また、ひどい言葉をかけてしまうかもしれないから。
さわやかに「頼んだよ」と言えれば、どんなにかっこいいだろう。潔くリザーブに下がることができれば、どれほど素敵だろう。でも、やっぱりそんなに強くはなれない。
美海はいい人だ。だからこそ、もう顔を合わせちゃいけない。これでいいんだ。
「あら。どうしたの、クリスちゃん?」
奥の厨房にいくと、正子が大量の皿を洗っているところだった。
「お水をもらいたくテ……あ、お皿洗い、後でお手伝いしマスから」
「いいのよ、主役なんだから。えーと、お水お水。ちょっと待っててね」
水仕事に荒れた手が、手際よく皿を片づけてゆく。クリスは正子の横顔を見つめた。
やさしい鼻歌。いつも微笑んでいるような口元。美海によく似た、くるりと丸い瞳。
この人にも会えなくなる――そう思うと、どうしても聞いておかなければならないことがあった。
「おばサン。怒ってないんデスか?」
「ん~? 何が?」
「ミミがヴァーミリアン・カップに行くことデス。反対してマシたよね」
途中いろいろあったが、結果的には不合格のハズの娘が逆転判決でチーム入りすることになったのだ。彼女にしてみれば、裏切られたも同然だろう。平気な顔をしてはいるが、内心チームを恨んでいるのではないかと、前々から気になっていた。
が、懸念に反して正子は仕方なさそうに笑い、
「そりゃもう、最初はガッカリしたわよ。でも、もうあきらめちゃった。どうもウチの家系、一度決めたら聞かないのが多いみたい。苦労するわぁ」
「そう……デスか……」
実は明日にはレギュラーになるんデス、と言ったらまた反応は違うかもしれない。ただ、胸のつかえが降りた気はした。
「あの子、ちゃんとやってる?」
「あ、ハイ。すごいと思いマス。ターンもダッシュもどんどん上手くなっていって……」
自分よりも、もうずっと――その言葉はかろうじて飲みこむ。
――そういえば。
どうして美海はあんなに頑張れるのだろう。基礎練習に加えて全ポジション分の、つまり単純に言って三倍の練習をこなさなければならないのだから、疲労の度合いで言えば自分よりもはるかに上のはず。なのに、へこたれる様子など全く見せない。
ジェットに乗るのが楽しいから、だけでは弱い。ひょっとしたら、彼女もレギュラーになれる可能性をすでに見ていたのだろうか。だから、あんなに生き生きと――
「そういうことじゃなくて、ね」
「ハ、ハイ?」
「リザーブの役目、ちゃんとできてるのかなって」
思いもかけない言葉だった。
「役……目? どういうことデスか?」
リザーブはただの補欠であって、役目など誰かがケガしたときにしかやってこない。
首をひねるクリスに、正子はコップに水を注ぐ手を止めた。
「あの子の父親がね……前のヴァーミリアン・カップの前に言ってたの。うちのチームで絶対に欠かせないのは、自分でもコーチでもない。リザーブの人だって」
「はぁ……?」
「自分はレースに出られないかもしれない。なのにいつも自分たちの練習相手をつとめてくれる。冗談を言って、みんなを和ませてくれる。レースが近くてピリピリした中で、どれだけその人に救われたか知れない、言葉にできないくらい感謝してるって。私にレースのことを話したのも、私の前で泣いたのも、あの一度っきり……」
「……」
「だから、ね。美海がチームに入ることが決まったとき、一つだけ条件を出したのよ」
「条件……何デスか?」
美海そっくりの丸い瞳が、柔らかく微笑んだ。
「自分の役割をちゃんと果たしなさい、って」
クリスは言葉を忘れた。
「レギュラーでもリザーブでも、与えられた役目の大事さは変わらない。そこで腐ってるようじゃ、仮にレースに出たところで何にもできやしないもの。でしょう?」
その問いかけに、どんな言葉を返せばよかったのだろう。
「あらやだ、すっかり話が長くなっちゃった。ごめんね、はい」
正子は、お盆に人数分のグラスを乗せて差しだした。水はきっちりと冷えていた。