(7)
ビーチの真正面に、二つのブイが浮かんでいる。
まず赤いブイが五十メートルの沖に。その五十メートル向こうには、黄色のブイだ。
ロキシィがジェットを駆って目前の水辺に出た。
「そんじゃあ、も一回おさらいすんぜ。スタート地点は、今ジェットが並んでるそこの砂浜。同時にスタートして、8の字旋回で往復して戻ってくる。カンタンだろ?」
8の字旋回とは、二つのブイの周りを、数字の8を描くようにターンすることを言う。
シンプルだが「加速・減速・旋回・切り返し」というライディングの全てが集約された、まさにライダーの試金石である。
美海が、「ハイハイ」と手を挙げた。ちなみに、ライディングギアは着用済みだ。
「しつもーん。ゴールも砂浜なの?」
「バカ、少しは常識で考えろ。それじゃ乗り上げちまうだろうが」
ロキシィは浜辺から二十メートルほどの水面に、二つのブイを置いた。
「この青いブイの間がゴールラインだ。ちなみにジェットの先っぽが通過した時点でゴールだかんな。いいな?」
ゴーグルをつけたジュリエットが、肩をそびやかしてやって来た。
「覚悟はよろしくて? わたくしが勝てばその目障りなトンガリ頭、ツルッツルの丸坊主にしてさしあげてよ」
「ふんだ。あたしが勝ったら、その頭の栓抜きごとハゲにしてやるから」
なぜか会話を通じ合わせ、二人はフン! と左右に分かれた。世にも恐ろしい髪切りデスマッチのはじまりである。
(……ううっ、どうしよう……)
顔をそむけるなり、美海はいきなりスダレ顔になった。
勢い込んでタンカを切ったはいいが、何しろ相手はフランス代表、正真正銘世界のトップライダーだ。ロキシィが「やめとくか?」なんて言うから意固地になってしまったが、正直ちょっと怖くなってきた。
(どぇーい! ダメダメ! 弱気になるな!)
同じ人間だ。しかもロキシィに教えてもらったところ、同じ十六歳だという。なんとかならないわけはない。お尻だって、そんなに大したことない……ように見える。
「さぁやるぜモーコ! オレの代わりにやらせてやってんだかんな、死んでも勝てよ!」
「ロキシィ! レフェリーは中立になさいませよ!」
「うっせー、分かってらー!」
美海とジュリエットが各々のジェットの左側につく。そして反対側にはそれぞれ円とシャルロットがついた。二つのジェットが両側から持ち上げられ、水面から浮く。
ジェットレースのスタート方式は複数あるが、これは『プルアップ』と言う。海水から離すのはモーターが冷えすぎるのを防ぐためで、これにより最速のスタートダッシュが期待できる。ヴァーミリアン・カップ本番でも採用される方法である。
「そんじゃあ行くぜ! セット!」
両陣営のジェットが、水につけられる。強烈な水飛沫がノズルから噴射される。
「ゴー!」
発進。二人のライダーが相棒に飛び乗り、海へと飛び出した。
勝負は一瞬でついた。
「あっ?」
ブロックだ。暴力的な勢いで飛びだしたジュリエット艇が、美海の鼻先に躍り出るや、その進路をガッチリとふさいだのである。
しまったと歯噛みする暇もない。青ブイの間を通り抜けて、最初のターンが目の前だ。
風がうなる。ジュリエットの丸い尻を前に見ながら、ブイの右を抜ける。ハンドルを左に切ると、サイドバンパーの切り取る波が弧を描いた。
「あーもうっ! どいて! どいてってばぁ!」
目の前からジュリエット艇が離れない。こちらが取ろうとする軌道を、いちいち向こうが先取りするのだ。顔面を叩く先行艇の水飛沫が、この上なくうっとおしい。
(ダメだ、横から抜かないと!)
美海は船体を左に寄せ、儀力を全開にした。だが。
「あいっ? な、何でっ?」
加速できない。水を蹴る感触があまりに軽い。全速力で走らせた自転車のギアを、いきなり一番軽いのに落とされたような、空回りの感触。
美海は必死に儀力を送り込んだが、ジェットはまるで無反応だ。そうこうする間に水の抵抗が速度を奪い、今度は一気に船体が倍ほどの重さになる。
背筋が凍えた。トラブルか。プロペラかモーターに何か故障が――
「ねーよ、そんなもん」
ロキシィはきっぱりと言い放った。
「で、でも、いつもならミィさん、もっと速いのに」
円と並んで見守る先、美海はこれ以上ないくらいにおたついている。ロキシィは両腕を組んだ姿勢で、ムスッと一言。
「キャビテーションだ」
「キャビ……なんですか?」
「んなことも知らねーのか。見てみろ、ジュリエットの艇の後ろ」
金ピカ艇の船尾から、ささくれ立った白い波が帯のように広がっている。後ろを走る美海は、必然、その波を踏まされる形だ。多少横にズレたくらいでは、逃れられない。
「あの白いのは、空気の泡だ。その上をジェットが走ってみろ、一体どうなる?」
「あ……」
アクアジェットは、船底の吸水口から水を取り込んでプロペラで加圧し、後方のノズルから噴射することで推進力を得る。その水に空気が混じるということ、それはつまり。
「プロペラの空回り……!」
「そうだ。艇が急失速して、ヘタすりゃ転覆までいっちまう。それをキャビテーションつーんだ。あの白い波――『引き波』ってのは、ジェットにとっての猛毒なんだよ」
「そ、それじゃあ、もっと横にそれて波から出れば……」
「バカヤロ。ンなことしたら、どんだけの距離のロスになるよ」
あ、と円は息を呑んだ。ロキシィは舌を打った。
「逆にジュリエットは引き波をぶつけられる心配が無ぇ。しょっぱな出遅れた時点で、勝負は決まっちまったんだ。バカモーコが、ちゃんとスタートの練習しとけっつの」
「え。でもロロさん、『オレはケガしねーから、スタートの練習なんかするな』って」
鋭い円のツッコミに、ロキシィは「う」とあさっての方向を向いた。
「う、う……うるせーうるせー! なんでもいいからとにかく勝て! モーコ――!」
「逆ギレっ?」
ギャーギャーと騒ぐロキシィのその後ろ。
木陰に横たわりながら、クリスは二艇の勝負を弱々しい視線で見つめている。
「ミミ……」
黄色のブイが右前方に迫ってきた。前を行くジュリエットの艇が、ぐるりと時計回りの弧を描き始める。なおも言うことをきかないジェットに、気が狂いそうになる。
そのとき、ロキシィのキンキン声が、波を踏み越えてきた。
「モーコー! 外だ、外回れェ――!」
意図は分からない。分からないが、考えている場合ではない。美海はほとんど操られるように、ジュリエット艇の弧の外側、すなわち左側に駆けこんだ。
ジェットが一気に軽くなった。引き波から抜け出したのだ。
(おおっ? なんだかわかんないけど、とにかくよし!)
直線では長く伸びる引き波も、ターンでは円を描くため交錯しにくくなる。
しかも外に回ったことで、速度の点で有利になった。遠心力は内側に行くほど強くなる。スピードを抑えて走るジュリエット艇の小さな弧を、美海艇の大きな弧が包み込むように伸びてゆく。
折り返し点、二艇の鼻先がついに横並びになった。追いついた。
ここからだ――そう思った瞬間。
「かかったァ♪」
ぐん、と右から力がかかった。
ジュリエットがやおらジェットを寄せてきたのだ。サイドバンパーがこすれ合い、美海艇はコーナーリングラインの外側にぐいぐいと押し出される。
まずい、と押し返すが、駄目だ。動かせない。相手の艇は、岩でも乗せているのかと思うほどに重い。それもそのはず、向こうが遠心力を逆手にとって外に膨らむのに対し、こっちはそれに逆らわないといけないのだ。
「ぐっ……ぬ……あっ」
じりじりと押し寄せる重圧。美海の額に汗がにじみ出る。耐えられない。
「さようなら《オゥヴォア》」
ガヅン、とジュリエット艇のバンパーが離れた。円軌道から弾き出され、美海艇の右側が、その勢いで水面から浮き上がる。転覆――
「して……たまるかぁ!」
気合一発、右側加重。かろうじて持ちこたえた。
まだ追いつける。さっきのスピードを見た限り、これくらいのロスなら、まだ――
「あっ……」
顔を上げて、美海は愕然とした。
ジュリエット艇ははるか彼方、赤いブイに迫ろうかというところだった。先ほどまでとはスピードがまるで違い過ぎる。
――なんで。
などというのは、愚問だった。往路では、ワザとゆっくり走っていたのだ。
なぜ? それも決まってる。自分を罠にかけて、苦しむ顔を見たいがためだ。
ジュリエットが肩越しにこちらを振り返った。その顔は、ゴーグルをかけていてもはっきり分かる、笑っていた。完全にバカにした、人を人とも思わないド汚い笑み。
絶望感より、怒りの方が早かったのは、僥倖だった。そうでなければ、そこでジェットを止めていただろうから。
「……」
ぐつ、と、血が煮えた。腹わたを熱される感触があった。視界が赤くなった。
――なんだその顔は。
そんなに嬉しいか。人を負かすことがそんなに楽しいか。
そんな顔で、そんな腐った笑顔で――クリスを嬲ったのか。
あんなに努力している人を、あんなに頑張っている人を。
奥歯が鳴った。
ジェットを速く走らせる。それだけのことで、どうしてそんなに人を見下せる。
――それがそんなに偉いのなら。
全体重を後ろにかけた。船首が持ち上がり、ジェットと海面の接触が最小になる。水の抵抗を最小に抑え、最大限の加速を生み出すフォームだ。
先のターンのことなど考えなかった。全ての儀力をハンドルバーに叩き込んだ。
――思い知れ!
それから数秒の出来事が、クリスの目には、まるでコマ送りのように見えた。
黄ブイの横にいた美海が、一気に加速した。
その加速はたしかにすごかった。なにしろ四、五艇身はあった差を一気にゼロに縮めてしまったのだから。
それでも、ジュリエットは驚かなかった。加速力には目を見張っただろうが、さすがに経験が違う。慌てず急がず、自分のジェットを赤ブイから見て、外側に寄せた。
美海艇のスピードでは、とても小さくは回れない。となれば、抜かれないためにはアウトコースさえふせげばいい。おそろしく速く、そして正確な判断だった。
そして、その判断を、美海は越えた。
そんな速さの切り返しを、クリスは見たことがない。おそらく世界の誰もいないだろう。信じられない角度でインコースに斬り込んでゆく美海の姿に――正直に言うべきだろう、クリスは見とれていた。
だからその後、ジュリエットはどれだけ驚愕に顔をゆがませたのか。どれだけ慌てたのか。並んで走る二艇のどちらが先にゴールしたのかを、クリスはよく覚えていない。
ただ、一つのことだけをひたすらに、ひたすらに、思っていた。
――もう……届かないんだネ……