表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サムライ・ドルフィンズ  作者: 古池ケロ太
リザーブの役割
28/50

(7)

 ビーチの真正面に、二つのブイが浮かんでいる。

 まず赤いブイが五十メートルの沖に。その五十メートル向こうには、黄色のブイだ。

 ロキシィがジェットを駆って目前の水辺に出た。

「そんじゃあ、も一回おさらいすんぜ。スタート地点は、今ジェットが並んでるそこの砂浜。同時にスタートして、8の字旋回で往復して戻ってくる。カンタンだろ?」

 8の字旋回とは、二つのブイの周りを、数字の8を描くようにターンすることを言う。

 シンプルだが「加速・減速・旋回・切り返し」というライディングの全てが集約された、まさにライダーの試金石である。

 美海が、「ハイハイ」と手を挙げた。ちなみに、ライディングギアは着用済みだ。

「しつもーん。ゴールも砂浜なの?」

「バカ、少しは常識で考えろ。それじゃ乗り上げちまうだろうが」

 ロキシィは浜辺から二十メートルほどの水面に、二つのブイを置いた。

「この青いブイの間がゴールラインだ。ちなみにジェットの先っぽが通過した時点でゴールだかんな。いいな?」 

 ゴーグルをつけたジュリエットが、肩をそびやかしてやって来た。

「覚悟はよろしくて? わたくしが勝てばその目障りなトンガリ頭、ツルッツルの丸坊主にしてさしあげてよ」

「ふんだ。あたしが勝ったら、その頭の栓抜きごとハゲにしてやるから」

 なぜか会話を通じ合わせ、二人はフン! と左右に分かれた。世にも恐ろしい髪切りデスマッチのはじまりである。

(……ううっ、どうしよう……)

 顔をそむけるなり、美海はいきなりスダレ顔になった。

 勢い込んでタンカを切ったはいいが、何しろ相手はフランス代表、正真正銘世界のトップライダーだ。ロキシィが「やめとくか?」なんて言うから意固地になってしまったが、正直ちょっと怖くなってきた。

(どぇーい! ダメダメ! 弱気になるな!)

 同じ人間だ。しかもロキシィに教えてもらったところ、同じ十六歳だという。なんとかならないわけはない。お尻だって、そんなに大したことない……ように見える。

「さぁやるぜモーコ! オレの代わりにやらせてやってんだかんな、死んでも勝てよ!」

「ロキシィ! レフェリーは中立になさいませよ!」

「うっせー、分かってらー!」

 美海とジュリエットが各々のジェットの左側につく。そして反対側にはそれぞれ円とシャルロットがついた。二つのジェットが両側から持ち上げられ、水面から浮く。

 ジェットレースのスタート方式は複数あるが、これは『プルアップ』と言う。海水から離すのはモーターが冷えすぎるのを防ぐためで、これにより最速のスタートダッシュが期待できる。ヴァーミリアン・カップ本番でも採用される方法である。

「そんじゃあ行くぜ! セット!」

 両陣営のジェットが、水につけられる。強烈な水飛沫がノズルから噴射される。

「ゴー!」

 発進。二人のライダーが相棒に飛び乗り、海へと飛び出した。

 勝負は一瞬でついた。

「あっ?」

 ブロックだ。暴力的な勢いで飛びだしたジュリエット艇が、美海の鼻先に躍り出るや、その進路をガッチリとふさいだのである。

 しまったと歯噛みする暇もない。青ブイの間を通り抜けて、最初のターンが目の前だ。

 風がうなる。ジュリエットの丸い尻を前に見ながら、ブイの右を抜ける。ハンドルを左に切ると、サイドバンパーの切り取る波が弧を描いた。

「あーもうっ! どいて! どいてってばぁ!」

 目の前からジュリエット艇が離れない。こちらが取ろうとする軌道を、いちいち向こうが先取りするのだ。顔面を叩く先行艇の水飛沫が、この上なくうっとおしい。

(ダメだ、横から抜かないと!)

 美海は船体を左に寄せ、儀力を全開にした。だが。

「あいっ? な、何でっ?」

 加速できない。水を蹴る感触があまりに軽い。全速力で走らせた自転車のギアを、いきなり一番軽いのに落とされたような、空回りの感触。

 美海は必死に儀力を送り込んだが、ジェットはまるで無反応だ。そうこうする間に水の抵抗が速度を奪い、今度は一気に船体が倍ほどの重さになる。

 背筋が凍えた。トラブルか。プロペラかモーターに何か故障が――



「ねーよ、そんなもん」

 ロキシィはきっぱりと言い放った。

「で、でも、いつもならミィさん、もっと速いのに」

 円と並んで見守る先、美海はこれ以上ないくらいにおたついている。ロキシィは両腕を組んだ姿勢で、ムスッと一言。

「キャビテーションだ」

「キャビ……なんですか?」

「んなことも知らねーのか。見てみろ、ジュリエットの艇の後ろ」

 金ピカ艇の船尾から、ささくれ立った白い波が帯のように広がっている。後ろを走る美海は、必然、その波を踏まされる形だ。多少横にズレたくらいでは、逃れられない。

「あの白いのは、空気の泡だ。その上をジェットが走ってみろ、一体どうなる?」

「あ……」

 アクアジェットは、船底の吸水口から水を取り込んでプロペラで加圧し、後方のノズルから噴射することで推進力を得る。その水に空気が混じるということ、それはつまり。

「プロペラの空回り……!」

「そうだ。艇が急失速して、ヘタすりゃ転覆までいっちまう。それをキャビテーションつーんだ。あの白い波――『引き波』ってのは、ジェットにとっての猛毒なんだよ」

「そ、それじゃあ、もっと横にそれて波から出れば……」

「バカヤロ。ンなことしたら、どんだけの距離のロスになるよ」

 あ、と円は息を呑んだ。ロキシィは舌を打った。

「逆にジュリエットは引き波をぶつけられる心配が無ぇ。しょっぱな出遅れた時点で、勝負は決まっちまったんだ。バカモーコが、ちゃんとスタートの練習しとけっつの」

「え。でもロロさん、『オレはケガしねーから、スタートの練習なんかするな』って」

 鋭い円のツッコミに、ロキシィは「う」とあさっての方向を向いた。

「う、う……うるせーうるせー! なんでもいいからとにかく勝て! モーコ――!」

「逆ギレっ?」

 ギャーギャーと騒ぐロキシィのその後ろ。

 木陰に横たわりながら、クリスは二艇の勝負を弱々しい視線で見つめている。

「ミミ……」


 黄色のブイが右前方に迫ってきた。前を行くジュリエットの艇が、ぐるりと時計回りの弧を描き始める。なおも言うことをきかないジェットに、気が狂いそうになる。

 そのとき、ロキシィのキンキン声が、波を踏み越えてきた。

「モーコー! 外だ、外回れェ――!」

 意図は分からない。分からないが、考えている場合ではない。美海はほとんど操られるように、ジュリエット艇の弧の外側、すなわち左側に駆けこんだ。

 ジェットが一気に軽くなった。引き波から抜け出したのだ。

(おおっ? なんだかわかんないけど、とにかくよし!)

 直線では長く伸びる引き波も、ターンでは円を描くため交錯しにくくなる。

 しかも外に回ったことで、速度の点で有利になった。遠心力は内側に行くほど強くなる。スピードを抑えて走るジュリエット艇の小さな弧を、美海艇の大きな弧が包み込むように伸びてゆく。

 折り返し点、二艇の鼻先がついに横並びになった。追いついた。

 ここからだ――そう思った瞬間。 

「かかったァ♪」

 ぐん、と右から力がかかった。

 ジュリエットがやおらジェットを寄せてきたのだ。サイドバンパーがこすれ合い、美海艇はコーナーリングラインの外側にぐいぐいと押し出される。

 まずい、と押し返すが、駄目だ。動かせない。相手の艇は、岩でも乗せているのかと思うほどに重い。それもそのはず、向こうが遠心力を逆手にとって外に膨らむのに対し、こっちはそれに逆らわないといけないのだ。

「ぐっ……ぬ……あっ」

 じりじりと押し寄せる重圧。美海の額に汗がにじみ出る。耐えられない。

「さようなら《オゥヴォア》」

 ガヅン、とジュリエット艇のバンパーが離れた。円軌道から弾き出され、美海艇の右側が、その勢いで水面から浮き上がる。転覆――

「して……たまるかぁ!」

 気合一発、右側加重。かろうじて持ちこたえた。

 まだ追いつける。さっきのスピードを見た限り、これくらいのロスなら、まだ――

「あっ……」

 顔を上げて、美海は愕然とした。

 ジュリエット艇ははるか彼方、赤いブイに迫ろうかというところだった。先ほどまでとはスピードがまるで違い過ぎる。

 ――なんで。

 などというのは、愚問だった。往路では、ワザとゆっくり走っていたのだ。

 なぜ? それも決まってる。自分を罠にかけて、苦しむ顔を見たいがためだ。

 ジュリエットが肩越しにこちらを振り返った。その顔は、ゴーグルをかけていてもはっきり分かる、笑っていた。完全にバカにした、人を人とも思わないド汚い笑み。

 絶望感より、怒りの方が早かったのは、僥倖だった。そうでなければ、そこでジェットを止めていただろうから。

「……」

 ぐつ、と、血が煮えた。腹わたを熱される感触があった。視界が赤くなった。

 ――なんだその顔は。

 そんなに嬉しいか。人を負かすことがそんなに楽しいか。

 そんな顔で、そんな腐った笑顔で――クリスを嬲ったのか。

 あんなに努力している人を、あんなに頑張っている人を。

 奥歯が鳴った。

 ジェットを速く走らせる。それだけのことで、どうしてそんなに人を見下せる。

 ――それがそんなに偉いのなら。

 全体重を後ろにかけた。船首が持ち上がり、ジェットと海面の接触が最小になる。水の抵抗を最小に抑え、最大限の加速を生み出すフォームだ。

 先のターンのことなど考えなかった。全ての儀力をハンドルバーに叩き込んだ。

 ――思い知れ!



 それから数秒の出来事が、クリスの目には、まるでコマ送りのように見えた。

 黄ブイの横にいた美海が、一気に加速した。

 その加速はたしかにすごかった。なにしろ四、五艇身はあった差を一気にゼロに縮めてしまったのだから。

 それでも、ジュリエットは驚かなかった。加速力には目を見張っただろうが、さすがに経験が違う。慌てず急がず、自分のジェットを赤ブイから見て、外側に寄せた。

 美海艇のスピードでは、とても小さくは回れない。となれば、抜かれないためにはアウトコースさえふせげばいい。おそろしく速く、そして正確な判断だった。

 そして、その判断を、美海は越えた。

 そんな速さの切り返しを、クリスは見たことがない。おそらく世界の誰もいないだろう。信じられない角度でインコースに斬り込んでゆく美海の姿に――正直に言うべきだろう、クリスは見とれていた。

 だからその後、ジュリエットはどれだけ驚愕に顔をゆがませたのか。どれだけ慌てたのか。並んで走る二艇のどちらが先にゴールしたのかを、クリスはよく覚えていない。

 ただ、一つのことだけをひたすらに、ひたすらに、思っていた。

 ――もう……届かないんだネ……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ