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サムライ・ドルフィンズ  作者: 古池ケロ太
リザーブの役割
26/50

(5)

 風が強くなってきた。台風が近づいているらしい。

 足早に通り過ぎる灰色の雲の下、不機嫌な色の海を、クリスは一人走っている。

 後ろから追いかけてくる波に船尾が持ち上げられ、船首が水面に突き刺さった。船体の前半分が沈没する『サブマリン』という状態。レースなら致命傷だ。

 ぷあっ、と海面から顔を上げる。ハンドルポールにぶつけたアゴが痛い。チンパッド(ポール上部の衝撃吸収用カバー)がなければ、歯が折れていたかもしれない。

 ――駄目ダ。このままじゃ。

 強風でいつもより波は高いが、それは言い訳にならない。本番では周りの艇が起こす波で海面がもっと複雑になるからだ。この程度が耐えられないのでは話にならない。

 そう――もしこれが美海なら、必ず耐える。

 美海なら、もっと綺麗に波に乗る。

 美海なら、もっと鋭くターンする。

 美海なら、もっと、もっと、もっと。

「もっと、練習しないト……もっと……もっと……」

 ……本当は、分かっていたのだ。

 あのトライアウトの最後のレース。最下位は、自分だということを。

 他の三人には分からなかったろう。だが、一番後ろにいた自分には、一番後ろにいたからこそ、はっきりと見えていた。数センチの差で遅れる、自分のジェットが。

(だけど――だから?)

 だから、どうしろと言うのか。正直に手を挙げて「みなサンおめでとう! ワタシは国に帰るから、後はよろしくネ!」――そう言えとでも?

 できるはずがない。自分は立派な人間じゃないし、かっこよくもないし、能天気でもない。感情を表に出さないからよく誤解されるけれど、他人が思うより、ずっと卑怯で、陰険で、子供っぽいのだ。

 いつだったか、ロキシィが日本に行くと言い出したとき――ついて行くと言ったのは、何も彼女を慮ってのことではない。

 離れるのが、嫌だったからだ。

 敵だらけの学校で、ロキシィだけが助けてくれた。彼女だけが居場所をくれた。

 その彼女が遠くへ行ってしまう。それは、再び居場所が奪われることに他ならない。

 ただそれだけの理由で、ついてきた。

 そして、今、また――

「クリスちゃーん!」

 大声に振り向く。と同時に、足元のデッキが跳ね上がり、

「のわあっ!」

 マヌケな叫び声が聞こえたときには、クリスは頭から海に投げ出されていた。

「ごめんごめん! 波が高くて止まれなかった! 大丈夫、クリスちゃん?」

 ぶつかってきておきながら、美海はといえば自分だけ無事。クリスは顔を上げ、

「……何しにきたんデスか。もう練習は終わってマスよ」

 我知らずトゲが入り、一瞬ひやりとする。だが美海はてんで気にしたふうもなく、

「うん、お手伝いに!」

「手伝い……?」

「そう! どうせ練習するなら、一人より二人の方がいいでしょ? アンカーは特に併せ練習が大事だって、沢村さんも言ってたしぃ」

 悪意のカケラもないその笑顔が、クリスには妙にぼやけて見えた。

 どうしてこの人は、こんなにも呑気なのだろう。

 自分はこんなにも追い詰められて悩んで苦しんでいるのに、どうしてアナタだけ。

 膨張してゆく感情を、理性が食い止めようとする。

 ――ダメだヨ、美海は好意で言ってくれてるんだカラ。お礼を言わないト。

 そんなことは分かっている。ちゃんと理解している。だけど。

「別に……いいデスよ。一人でできマスから」

「そう言わないでって。足手まといかもしんないけど、あたしも頑張るから」

 頑張る? ふざけないデ。イヤミのつもりなノ? なんでそんなへらへらしてるノ?

 無神経だと思わないノ? 頭おかしいんじゃないノ?

 体中の神経が、きりきりと絞られるようだった。死に物狂いで作る鉄面皮の下、感情と理性が必死の綱引きをしていた。

 来ないでヨ。踏み込まないでヨ。誰のせいでこんな想いしてると思ってるノ? 

 ――何言ってるノ、誰も何も、本当ならミミがレギュラーなんだヨ。

 そんなことは分かってる。分かってる、けど。

 理不尽な苛立ちはガスのように溜まり、ぶくぶくと膨れ上がってゆく。そして。

「あたしも上手くなってきたからね、油断してたら追い抜いちゃうよ? へへへっ」

 ……分かって、いたのだ。どうということのない軽口だということ、彼女なりの気安さの証だということ。笑って済ませばいいということ。

 だけど、もう、

「……デ」

「え?」

 火がついてしまった。

「余計なことしないデ!」

 美海は丸い目をさらに丸くした。

「誰もそんなこと頼んでマセん、邪魔デス、目ざわりデス、不愉快そのものデス!」

 ようやっと自分に向けられた敵意を理解したらしい。崩れゆく美海の顔を見て、クリスは黒い快感を感じた。

「いいって言ったデショう! バカじゃあるまいし、一度で分かってくだサイよ!」

 一線を越えてしまえば後は片道切符だ。この天真爛漫な少女を滅茶苦茶に壊してやりたい、自分と同じドス黒い感情で塗りつぶしたいという欲求が、ちっぽけな罪悪感を押しつぶして口を走らせる。

「ワタシはレギュラーなんデスよ! 本番前に一人で集中したい時だってあるんデス!どうしてそれが分からないんデスか? ……ああ、分かりマセんよね。だってアナタは、リザーブなんだカラ! どうせレースに出ないんだカラ! もう……本当にもう、イライラしマス! その呑気な顔を見てると気が狂いそうデス! 早くどっかに行ケ!」

 最後はもう絶叫だった。

 美海は迷い子のように目を泳がせ、ぽつりと一言、

「……ごめん、ね」

 笑顔は機械仕掛けのようにぎこちなかった。

「あたし、ホントにバカだから、気がつかなくて……本当にごめんなさい……」

 水飛沫を飛ばすのも申し訳ないというふうに、ゆっくりと艇を翻して去ってゆく。

 ぱしゃん、と波がクリスの顔に当たった。

 胸のつかえが取れた、と思ったのは、虚脱感を錯覚しただけ。

 数秒後にはそれも消え、襲ってきたのは地球よりも重い後悔だった。

「うっ……」

 自分勝手な、あまりに自分勝手な涙が出てきた。泣きたいのは美海のほうだろうに。

 このまま沈んでしまいたかった。でも、この綺麗な海は自分を拒むに違いない。

 沈むことも戻ることもできないまま、クリスは自分勝手に泣き続けた。

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