(2)
スラロームとは、海上に設置されたブイ――バスケットボール大の浮き――の間を、ジグザグに通り抜けることを言う。ターン技術を養う練習であると同時に、本番のレースでもしばしば登場する障害の一つだ。
ゆるやかに波立つ海面。十メートルの等間隔でブイが列をなしている。その間を蛇行する、二本の白い航跡。
「とひゃーっ!」
先行するのは天然元気娘・美海だ。けったいな雄叫びをあげながら、右に左に腰を落としてブイを突破してゆく。だがその軌道はフニャフニャと膨らんだり不自然に尖ったりして、なんとも落ちつかない。
と、その後ろからもう一艇が迫ってきた。ゴーグルの下に冷徹な瞳を押し込めた鉄面皮・クリス。こちらは、コンパスで描いたような弧が左右対称に並ぶ、美しい航跡だ。
クリス艇がぐん、と前に出る。美海艇のスピードが緩んだ瞬間を見逃さず、芸術的なターンで、外側から一気にかわしてみせた。
慌てて追いかける美海、だが今度はスピードの上げすぎだ。次のブイを曲がり切れず、たちどころに外へ膨らんで真横に転覆、
「ふんぬぅっ!」
いや、持ちこたえた。海面にくっつくまで腰を落とし、鋭い切り返しでクリス艇の間近に迫る。肩越しに振り返ったクリスの眼が一瞬険しくなり、次の瞬間。
「うわちゃっ!」
転覆した。無理な加速で船首が持ちあがり、バク転してしまったのだ。
「うう~っ……。なんで上手くいかないんだろぉ……」
「そりゃおめー、才能ねーからだよ」
ロキシィの憎まれ口に、美海は「む~」と唇を尖らせた。シート越しに伝わる砂浜の熱さが尻につらい。
「それにしてもすごいですよ、ミィさん。全ポジションの練習をこなしてるんですから」
と円。口にしているのはレモンの砂糖漬け。美海が家から持ってきた疲労回復薬だ。
ヴァーミリアン・カップはリレー形式のレースだが、陸上競技のそれと決定的に違う点がある。各ライダーが、異なる距離を走るということだ。
具体的に言うと、第一区間は直線中心の短距離コース。第二区間は第一の五倍もの距離を走る長距離コース。最終区間は中距離で、かつターンが多いテクニカルなコース。
このことから、各フェイズを担当するライダーは、それぞれスピード・スタミナ・テクニックを要求される。平均的な選手よりも、特化した能力を持つ者同士を競わせ、よりスリリングなレースを展開しようという狙いである。
日本チームの構成は、第一走者『スターター』がロキシィ、第二走者『セットアッパー』が円、そして最終走者『アンカー』がクリスだ。
よって彼女らは、各々の役割に特化した練習を積んでいるわけだが、美海だけはそうはいかない。彼女の役割はリザーブ、すなわち故障者が出た時の代役である。そして故障は誰に発生するか分からない。ゆえに、各ポジションすべてに対応するスキルを身につけねばならないわけだ。
「ま、スターターの練習はしなくていいけどな」
「なんで?」
「オレがケガするわけねーからだよ。おめーは、セットアッパーの練習でもしてな」
美海は丸い瞳をイヤそうに歪めた。円が毎日毎日馬車馬のように走り、マグロのように泳ぎまくっているのを知っているからだ。もちろん美海とて同じメニューをなぞってはいるが、こなせる量は円の半分にも満たない。
「エンちゃんさ、イヤにならないの? あんなすごい練習」
「それはもうきついですけれど。でも、耐える秘訣はあるんですよ」
「えっ、教えて教えて!」
「それじゃ、目を閉じてください。すごく息苦しい状況を思い浮かべて」
「ほい。……あ、あ、くるしい、くるしいよぅ~」
「では次に思い浮かべてください。目の前を、沢村さんが走っています」
「ほい。……あ、沢村さ~ん」
「バニー服です」
「ほい、バニー……え?」
「沢村バニーさんはお尻をフリフリ、イタズラっぽい微笑みを投げかけてきます。ほら狩人さん、捕まえてみて? ああっ捕まえます、ゲッチューしますとも、沢村さんっ!いくら疲れてても、つらくても、世界の果てまで! ふああああんっ!」
円は唇を突き出しつつ、自らの体を抱いて前のめりに倒れた。
「……おい、モーコ。真似してみるか?」
「い、いや、遠慮しとく……」
彼女の変態ぶりは、すでにロキシィも知る所である。一方で、当の沢村はいまだ円の本性に気づいていないというのだから、これはこれで不思議だった。
「あ、そういや明日クリスの誕生日なんだよな」「ふーん」
美海はスポーツドリンクをちゅー、と口に含み、
「ブーッ!」
「うおっ、きたなっ!」
「な、な、なんでそんな大事なこと早く言わないのぉっ!」
「大事なことかぁ?」
「大事だよ! ああもう急いでプレゼントとかパーティーとか用意しないと、ねぇクリスちゃん、なんか食べられないものとかあるっ? ……クリスちゃん?」
クリスの視線は地球の裏側に飛んでいた。レモンの切れ端が口からはみ出ている。
「おーい、クリスちゃん?」
「……ハイ?」
「いや、だから、食べられないもの」
「あ、ハイ。エスカレーターでキスするバカップルは、煮ても焼いても食えないデス」
「……」
むっくりと立ち上がり、
「……走ってきマス」
「え? また練習するの? もう今日はアガリだよ?」
「まだ体力が余ってマスから……。お先に上がっててくだサイ」
と、水辺のジェットに向かう。その足取りはふらついていた。
「……」
親友のその様子を、ロキシィは黙って見つめている。