(8)
まだ陽の昇り切らない街の中を、沢村は走っている。
たった五キロで息は上がり、ジャージの中は汗でびっしょりだ。
引退して三年半、身体はなまりになまっている。一刻も早く体力を取り戻さなければならない。コーチが少しでも疲れたそぶりを見せれば、選手はついてこない。どれだけ日差しが強かろうと、ランニングを追いたてるのが辛かろうと、息一つ乱さないでいるのが指導者の責任だ。
浜辺にほど近いガレージの前で立ち止まる。ジェットや練習用具を置くためレンタルしているところだ。朝練のために、用具を出しておかねばならない。
カギを回し、シャッターを持ちあげにかかる。片腕でこれをやるのは結構な重労働だ。
歯を食いしばってどうにか途中まで上げられたところで、沢村は気付いた。
明かりがついている。中に人がいる。
「……」
そのアロエ頭の少女は、居並ぶジェットに押しのけられるように、壁際にいた。
「エンちゃんに、カギ、借りました」
美海はうんこ座りで、一心に何かをいじっている。……ハードルだ。
「島は潮風が強いから、すぐネジが錆びるんです。こまめに取り替えないと」
沢村はシャッターを上げきると、その様子を黙って見つめた。美海の脇には、すでにネジの交換を終えたと思われるハードルが並んでいた。なぜそう思うかというと、昨日までそれらのハードルは、あんなにひん曲がってはいなかったからである。
「あっ」
一本のネジが美海の手から落ち、コロコロと沢村の足元へ転がった。
拾い上げる沢村。美海と目が合う。古ぼけた蛍光灯が、ジジッ、と鳴く。
美海が立ち上がった。丸く幼い瞳を、今は強くまっすぐに向けて。
「『まっすぐ前を見ること』。それがライダーの権利です」
「……」
「もう再レースなんて言いません。その代わり、雑用でもなんでもします。道具運びもトイレ掃除もやります。お尻見せろっていうんなら見せます。あたしのできること、全力でやります。だから、ヴァーミリア島に連れていってください。お願いします!」
美海は、ヒザにくっつきそうになるくらい、深く深く頭を下げた。
沢村は大きく息をつき、ネジを投げ捨てた。コンクリートの床に冷たい音が響いた。
「ネジの一つも巻けんのに、雑用が務まるか」
「沢村さん!」
「出ていけ。部外者は入ってくるな」
「おいおい、冷たいなぁ。沢村よ」
ぎょっとする沢村。ジェットの陰からのっそりと人影があらわれた。
「小野田さん……」
「ジェットの手入れを教えてくれって、美海ちゃんに頼まれてな。低血圧だってのに朝五時起きだよ、まったく」
小野田は、ふあ~あ、とカバのようなあくびをかまし、
「例の件、やっと予算が下りたぜ」
沢村の目が大きく見開いた。
美海も何の話だか聞いていなかったのだろう、首をかしげ、
「例の件、って? 小野田さん」
「リザーブさ」
知らない単語に、顔をしかめる美海。小野田はニンマリと頬を吊り上げ、
「予備のライダーだ。現地までチームに帯同して、レギュラーメンバーに故障なんかが発生したとき、代わりに走る選手だな。普通どのチームも最低一人は用意しておくもんだが、なんせウチはビンボーだからなぁ、三人でやり通す予定だったんだ。……が」
意地悪く笑って、沢村を指差した。
「そこの御方がな、トライアウトが終わったその日に俺に電話してきたんだよ。どうかあと一人、リザーブの枠を作ってくれ、ってな」
「小野田さん!」
沢村の大声にも、小野田のニタニタ笑いは崩れない。
「予算は確定してたし俺も無理だって言ったんだけどなぁ。けど、『自分の給料は一円もいらない。その分を回してくれ』なんて言われちゃ、やるしかないだろ。なぁ沢村?」
美海は沢村の顔を見た。額に拳を押しつけて、痛恨の極みといった顔つきである。
「もちろん給料ゼロなんつーわけにはいかんから、そのへんは理事長の不倫ネタをタテに……って、おおいけね、しゃべりすぎだわ。だっはっは」
小野田の大笑いも、もう美海には聞こえていない。瞳をうるませ、両手を胸の前で組み合わせて、まるで十年ぶりに再会した恋人を見るような顔である。
「沢村さぁん……」
「――リザーブというのは」
沢村はため息とともに切り出した。
「レギュラーと同じように練習し、体調を整え、気持ちを上げ、それでもなおレースに出られるかどうか分からない、ある意味レギュラーよりもつらい役目だ。覚悟はいいか」
雑用でかまわないと言っていた美海である。いいも悪いもあるはずがなかった。
「はい!」
ガレージ中に大声が反響した。沢村は耳鳴りが収まるのを待ち、やおら踵を返した。
「行くぞ」
「え?」
「え、じゃない。お前の家にだ。お母様を説得しに行かねばならんだろうが」
美海はしばし立ちつくし、やがてもう一度、沢村が飛び上がるようなバカ声で答えた。
「はいっ!」
二人がガレージを後にする。
それを建物の陰から見届け、円は心底嬉しそうに微笑んだ。
「よかったですねぇ。ねっ、クリスさん」
「ま、妥協点としてはなかなかデスね」
朝食の野菜スティックをかじりながら、クリスが言う。
「でも、沢村さんも意地が悪いですねぇ。最初から言ってあげればよかったのに」
「それこそ甘さが克服できないからデショう。それニ、予算が下りるかどうかなんて分かりマセんしネ」
「何にしろ、これから楽しくなりそうですね。ねっ、ロロさん……ロロさん?」
ロキシィは壁にもたれて座り、口をとがらせて手の内の何かを見つめていた。
「……なんでぇ、勝手に立ち直ってやんの……」
「何ですか、それ?」
のぞきこまれた途端、「ホアッ?」と小動物のような反応でそれを後ろ手に隠す。しかし、その背中からはごまかしようのない証拠がちらりとのぞいていた――ビニール袋いっぱいに入った、『岩石みてーなお菓子』が。
円はハハァ、といかにも知ったような笑い方をした。
「それ、誰にあげるつもりですかぁ?」
「あっ、あげねーよ! これはオレが食おうと思ってだな……」
「でもそれ、ミィさんの大好物ですよね?」
「オレも好きなんだよ! だーも、いいからランニングの続き行くぞ、オラッ!」
「あー! 逃げた!」
猛然と通りへ飛び出すロキシィを、円とクリスが追いかける。地平線が明らんでゆく。
朝焼けに染まる街の中、必要以上に早歩きの沢村に続きながら、美海は考えた。
母はどんな顔をするだろう。いくらリザーブとはいえ、説き伏せるのは相当骨が折れそうだ。泣いて頼むか、脅すか、おだてるか。策は渦を巻き、なかなかまとまらない。
ただ、一太刀目はもう決めてある。家に帰ったら、真っ先にこう言おうと思う。
お母さん。あたし、お父さんが走った海へ行くよ――。