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サムライ・ドルフィンズ  作者: 古池ケロ太
ライダーの資格
21/50

(8)

 まだ陽の昇り切らない街の中を、沢村は走っている。

 たった五キロで息は上がり、ジャージの中は汗でびっしょりだ。

 引退して三年半、身体はなまりになまっている。一刻も早く体力を取り戻さなければならない。コーチが少しでも疲れたそぶりを見せれば、選手はついてこない。どれだけ日差しが強かろうと、ランニングを追いたてるのが辛かろうと、息一つ乱さないでいるのが指導者の責任だ。

 浜辺にほど近いガレージの前で立ち止まる。ジェットや練習用具を置くためレンタルしているところだ。朝練のために、用具を出しておかねばならない。

 カギを回し、シャッターを持ちあげにかかる。片腕でこれをやるのは結構な重労働だ。

 歯を食いしばってどうにか途中まで上げられたところで、沢村は気付いた。

 明かりがついている。中に人がいる。

「……」

 そのアロエ頭の少女は、居並ぶジェットに押しのけられるように、壁際にいた。

「エンちゃんに、カギ、借りました」

 美海はうんこ座りで、一心に何かをいじっている。……ハードルだ。

「島は潮風が強いから、すぐネジが錆びるんです。こまめに取り替えないと」

 沢村はシャッターを上げきると、その様子を黙って見つめた。美海の脇には、すでにネジの交換を終えたと思われるハードルが並んでいた。なぜそう思うかというと、昨日までそれらのハードルは、あんなにひん曲がってはいなかったからである。

「あっ」

 一本のネジが美海の手から落ち、コロコロと沢村の足元へ転がった。

 拾い上げる沢村。美海と目が合う。古ぼけた蛍光灯が、ジジッ、と鳴く。

 美海が立ち上がった。丸く幼い瞳を、今は強くまっすぐに向けて。

「『まっすぐ前を見ること』。それがライダーの権利です」

「……」

「もう再レースなんて言いません。その代わり、雑用でもなんでもします。道具運びもトイレ掃除もやります。お尻見せろっていうんなら見せます。あたしのできること、全力でやります。だから、ヴァーミリア島に連れていってください。お願いします!」

 美海は、ヒザにくっつきそうになるくらい、深く深く頭を下げた。

 沢村は大きく息をつき、ネジを投げ捨てた。コンクリートの床に冷たい音が響いた。

「ネジの一つも巻けんのに、雑用が務まるか」

「沢村さん!」

「出ていけ。部外者は入ってくるな」

「おいおい、冷たいなぁ。沢村よ」

 ぎょっとする沢村。ジェットの陰からのっそりと人影があらわれた。

「小野田さん……」

「ジェットの手入れを教えてくれって、美海ちゃんに頼まれてな。低血圧だってのに朝五時起きだよ、まったく」

 小野田は、ふあ~あ、とカバのようなあくびをかまし、

「例の件、やっと予算が下りたぜ」 

 沢村の目が大きく見開いた。

 美海も何の話だか聞いていなかったのだろう、首をかしげ、

「例の件、って? 小野田さん」

「リザーブさ」

 知らない単語に、顔をしかめる美海。小野田はニンマリと頬を吊り上げ、

「予備のライダーだ。現地までチームに帯同して、レギュラーメンバーに故障なんかが発生したとき、代わりに走る選手だな。普通どのチームも最低一人は用意しておくもんだが、なんせウチはビンボーだからなぁ、三人でやり通す予定だったんだ。……が」

 意地悪く笑って、沢村を指差した。

「そこの御方がな、トライアウトが終わったその日に俺に電話してきたんだよ。どうかあと一人、リザーブの枠を作ってくれ、ってな」

「小野田さん!」

 沢村の大声にも、小野田のニタニタ笑いは崩れない。

「予算は確定してたし俺も無理だって言ったんだけどなぁ。けど、『自分の給料は一円もいらない。その分を回してくれ』なんて言われちゃ、やるしかないだろ。なぁ沢村?」

 美海は沢村の顔を見た。額に拳を押しつけて、痛恨の極みといった顔つきである。

「もちろん給料ゼロなんつーわけにはいかんから、そのへんは理事長の不倫ネタをタテに……って、おおいけね、しゃべりすぎだわ。だっはっは」

 小野田の大笑いも、もう美海には聞こえていない。瞳をうるませ、両手を胸の前で組み合わせて、まるで十年ぶりに再会した恋人を見るような顔である。

「沢村さぁん……」

「――リザーブというのは」

 沢村はため息とともに切り出した。

「レギュラーと同じように練習し、体調を整え、気持ちを上げ、それでもなおレースに出られるかどうか分からない、ある意味レギュラーよりもつらい役目だ。覚悟はいいか」

 雑用でかまわないと言っていた美海である。いいも悪いもあるはずがなかった。

「はい!」

 ガレージ中に大声が反響した。沢村は耳鳴りが収まるのを待ち、やおら踵を返した。

「行くぞ」

「え?」

「え、じゃない。お前の家にだ。お母様を説得しに行かねばならんだろうが」

 美海はしばし立ちつくし、やがてもう一度、沢村が飛び上がるようなバカ声で答えた。

「はいっ!」



 二人がガレージを後にする。

 それを建物の陰から見届け、円は心底嬉しそうに微笑んだ。

「よかったですねぇ。ねっ、クリスさん」

「ま、妥協点としてはなかなかデスね」

 朝食の野菜スティックをかじりながら、クリスが言う。

「でも、沢村さんも意地が悪いですねぇ。最初から言ってあげればよかったのに」

「それこそ甘さが克服できないからデショう。それニ、予算が下りるかどうかなんて分かりマセんしネ」 

「何にしろ、これから楽しくなりそうですね。ねっ、ロロさん……ロロさん?」

 ロキシィは壁にもたれて座り、口をとがらせて手の内の何かを見つめていた。

「……なんでぇ、勝手に立ち直ってやんの……」

「何ですか、それ?」

 のぞきこまれた途端、「ホアッ?」と小動物のような反応でそれを後ろ手に隠す。しかし、その背中からはごまかしようのない証拠がちらりとのぞいていた――ビニール袋いっぱいに入った、『岩石みてーなお菓子』が。

 円はハハァ、といかにも知ったような笑い方をした。

「それ、誰にあげるつもりですかぁ?」

「あっ、あげねーよ! これはオレが食おうと思ってだな……」

「でもそれ、ミィさんの大好物ですよね?」

「オレも好きなんだよ! だーも、いいからランニングの続き行くぞ、オラッ!」

「あー! 逃げた!」

 猛然と通りへ飛び出すロキシィを、円とクリスが追いかける。地平線が明らんでゆく。



 朝焼けに染まる街の中、必要以上に早歩きの沢村に続きながら、美海は考えた。

 母はどんな顔をするだろう。いくらリザーブとはいえ、説き伏せるのは相当骨が折れそうだ。泣いて頼むか、脅すか、おだてるか。策は渦を巻き、なかなかまとまらない。

 ただ、一太刀目はもう決めてある。家に帰ったら、真っ先にこう言おうと思う。

 お母さん。あたし、お父さんが走った海へ行くよ――。

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