(7)
池間島は、宮古島の北から橋で結ばれた小島である。ここの高台に設けられた展望台が、美海のお気に入りだ。高台を飾る茂みの緑、下りてすぐそばの砂浜の白、そこから続く海原。心洗われるはずのこの景色を眺めながら、しかし、美海は最悪の気分だった。
展望台の手すりにもたれかかり、ため息をつく。もう一時間半も、こうしている。
くやしい。そして恨めしい。
みんなグルだったのだ。母も小野田も……そして、沢村も。
何が権利だ。何がライダーの資格だ。口からでまかせもいいところだ。適当な理由をつけて、強引に自分を落選させようとしただけの話じゃないか。
理屈は分かる。古いなじみの母に頼まれたから、というだけではないだろう。
もしレースでヘタを打って親子二代で事故死なんてことになったら、協会に集まる批判は大変なものになる。下手をすれば、未来永劫大会への参加がナシになるかも知れない。自分をチームに入れるメリットなんて、どこにもありはしない。
それでも、こんなのはあんまりだ。実力で負けるならともかく、実力を比べることすらしないなんて。
(ちょっと恐いけど、ジェットについてだけはものすごく真剣な人だと思ってたのに。間違ってもこんなことだけはしないと思ってたのに……)
柵の上にもたれかかる。展望台からは海が見えた。とても綺麗で、憧れる景色。
だけど、あそこへ到る道はない。行ってみたいと足を踏み出しても、そこはガケ――行き止まりだ。道は途絶えてしまった。
「ミィさん!」
せっぱ詰まった声。振り向いたところにいたのは、
「……エンちゃん?」
汗みずくの円は階段を昇るのも一苦労という感じで、息を荒げつつ、
「よ、よかった……ぜぇっ……こ、ここに……いて……ぜぇっ……ぜぇっ……」
「なんでここに? 家にいたんじゃないの?」
「ご、ごめんなさい……さっきの話、聞いてしまいました……」
その言葉に美海はまず顔を曇らせ、次いでハッと息を呑み、
「まさか……走って追いかけてきたの?」
「あ、あはは……だってミィさん、すぐ追いつけるかと、思ったら……おうちの前で、バ、バイクに乗ってしまうんですもの……けほっ……」
呆然とする美海。なにしろ家から池間島まで、自前の原付で四十分はかかる。しかも展望台まではかなりの急勾配で、まず徒歩では無理だ。なのにたった二時間ほどで……。
「お母様に、ふさぎこんだときは、いつも、こ、ここにいると……うかがったので……」
「だ、だからって、走ってこなくても! バスとかだってあるのに」
「え。そ、そうだったんですか……? あう……。……で、でも、いいです。いてもたってもいられなかったし……はああっ……」
「わあぁっ! エンちゃん!」
ふらっと傾ぐ円を支え、ベンチに寝かせた。上物のブラウスは汗で台無しだった。
「もう、無茶しすぎだよぉ」
「だ、大丈夫です。スタミナにはちょ、ちょっとだけ、自信、あ、ありますから……」
そういえば家に泊まり込んでいた間も、彼女は早朝のランニングをかかさなかった。それも毎日五キロというから、ちょっとどころの騒ぎではない。
「あの……さっきの、ことは……」
「あ……」
同情されるのがイヤで、美海は半ばなげやりな笑いを飛ばした。
「ははっ、バカみたいだよね、あたし。とっくに結果は出てたのに一人で大騒ぎして、駆けずり回って、ちょっとは期待なんか、してたりして。……ホント、バカみたい」
最後は尻すぼみになった。せっかく来てくれた円には悪いが、どんな同情も慰めも、今の自分には届かないと思う。
「ちが、ちがうんです……そうじゃなくて……」
「え?」
「沢村さんは……そんなことしません。するはずありません。小野田さんから命令されたにしても、断ってるはずです」
胸に乾いた風が吹いた。なんだ、と思った。
「……なんで、そんなこと分かるの?」
出た声は、自分でも驚くほどに冷淡だ。
「エンちゃんが沢村さんのことが好きなのは知ってる。でも、悪いけど、あたしにはそこまで信じる理由なんかない。証拠もないのにさ」
なんてイヤな言い方をしているのだろう。嫌われてもしょうがないと思う。
案の定、円はショックに泣き崩れ……るかと思いきや、にこりと笑ってみせた。
「ありますよ。証拠」
「えっ?」
「わたし、前に、沢村さんのお引っ越しを手伝ったって言いましたよね?」
「う、うん……」
「そのとき、偶然ですけど、おかしなものを見つけたんです」
「え、と。何?」
「喪服です」
それのどこが、おかしなものなのか。
「おかしいと思いませんか? 沢村さんはここに滞在してるだけなんですよ。仮にその間不幸があったとしても、ご実家に戻って喪服を取りに行けばすむ話じゃないですか」
「……あ」
「しかも、です。何日か続けて着たようなんです。喪服なのにですよ」
「なんで続けて着たって分かるの?」
「カバーから出し入れした形跡がありましたから」
いや、それはそうなのだが、問題はなぜカバーを見られたのかということで。
何日か続けて、というからには引っ越しの後もそれを目にしたのだろう。けど喪服なんてタンスの奥にしまうのが普通なわけで、それなら部屋に侵入してタンスを開けでもしないと確認できないわけで。
「あと、お供え用のお花がゴミ箱に捨ててあったことも」
だからなんで人の部屋のゴミ箱を。
「……えっと。と、とにかく……つまり、どういうことなの?」
「つまりです。沢村さんは、この島のどこかの家にお線香をあげに行こうとした。でも、途中で思い直して止めたんじゃないか、と」
「どこかの家にって、一体……あ」
もしかして。
「……うち?」
円はうなずいた。
沢村が父の弟子のようなものだったというのは、美海もぼんやりと知っている。それなら、確かに線香を上げに来ても不思議はない。
「けど、だったら途中で止めたっていうのは……なんで……」
「わたしもずっとそれが不思議だったんです。けど、さっき分かりました。今のわたしと一緒ですよ。きっと、合わせる顔がなかったんです」
小野田から、美海を落選させるべしと命じられた沢村は、しかし、自らの信義に従ってそれを断った。だが、恩師の妻である正子とは顔見知りで、気持ちが分からないでもない。恩師に線香を上げに行きたいのはやまやまだが、話を断った手前、顔を合わせるのはどうにも後ろめたく、行こうか行くまいか決心がつかず――
円がそう推理するのに、しかし、美海は渋い顔だった。
「納得できませんか?」
「だって結局はあたし、落選したわけだし。後ろめたくなんかないじゃない」
すると円は「それじゃ、次の証拠」と言い――続く言葉に、美海は呼吸を忘れた。
「わたし、訊かれたことがあるんです。『ヒントを与えていいものだろうか』って」
「……は」
「その後すぐ、大慌てで『忘れろ』って言われましたけどね。ふふっ」
一体どういう顔をしたらいいのだろう。うつむく美海に、円はやさしく語りかける。
「ミィさん。沢村さん、待ってるんですよ。ミィさんのこと」
「うん……」
そう返すのが精一杯だった。
よかった――そう思う一方で、しかし、何喜んでんだという自分もいた。
疑念は晴れた。だけど、だからと言って、状況は何も変わっていないのだから。
「エンちゃんは……分かるの? ライダーの権利って何か」
そのとき、初めてだ。円の顔が厳しくなった。
「知ってますよ。ライダーですから」
「……」
「知りたいですか?」
美海は、重々しくうなずいた。円は上体を起こした。
「本当は、教えちゃダメだって思ってました。自分で答えを見つけないと、意味のないことですから。でも、今のミィさんを見てたら、そんなわけにもいきません。だから……ヒントだけ、言いますね」
美海は再びうなずいた。
「覚えてますか? 最終試験のレース、ゴール手前で、わたしが転びそうになって……」
「あ、うん。あたしが手を伸ばしたときだね」
「それです」
「へ?」
「わたしのことを助けた、その甘さが、沢村は気に入らなかったんだと思います」
ちょっと待った。
「で、でもさ、だってあれは、あたしがジェットをぶつけちゃったから……」
「じゃあ、もしレース本番で、競り合っている相手が転びそうになったら。ミィさんはその人を助けるんですか?」
ぐ、と言葉に詰まった。そんな質問は卑怯だと思う。
理屈はそうかもしれない。甘いと言われれば、言い返す言葉もない。
「で、でも……」
それでも、目の前で危ない目にあっている人を、どうやって見捨てられるだろう。
第一あの場面、自分が手を伸ばさなかったら、どうなっていた?
「もし、もしだよ。あたしが無視してたら、エンちゃん死んでたかもしんないんだよ?それでもいいの?」
「いいですよ。自分の責任ですから」
ひょい、と返された答え。
美海はもう、目の前の少女が自分と同じ高校生とは思えなかった。
「そんな、だって、だってさ。あたしにジェットの乗り方、教えてくれたじゃない! あのことに感謝してるから、あたしは……!」
すると円は、意外にも「痛いところを突かれた」とばかりに苦笑した。
「そうですねぇ。わたしも甘いのかもしれません。……でも」
きっぱりと。
「デッキに乗った瞬間から、ライダーですから」
胸を撃ち抜かれた気分だった。
「ミィさんが落とされたのは、ある意味わたしのせいです。でもわたし、あやまりません。ヘタクソだけど、わたしだってライダーのはしくれですから」
何も言えなかった。恥ずかしさと情けなさで身が震えた。
おっとりに見える円のほうが、ずっと強く立ってる。彼女の方が、ずっとライダーだ。
甘さがいけない。そう言われて反発したけど、言い替えれば、それは落選を円のせいにしているのと同じことだ。海の上では、誰のせいにもできないのに。
(あたし……何やってるんだろう)
癇癪起こしてダダこねて。問いの答えが見えなければ、ヒントくれだなんて。
「答え、もう分かりますよね?」
こくりとうなずく美海に、円は微笑み、
「また、レースしましょう。負けませんよ」
ポニーテールを揺らして、階段を降りて行った。
まさかまた走って帰るつもりなのか。そりゃ無茶だ――などと考えつつ、しかし、美海は動けなかった。
こんなのじゃ、恥ずかしくて再レースなんて言えない。そんな資格はない。だけど。
美海は顔を上げた。
階下に視線をめぐらせれば、道はどこにでもあり、そしてどこにでも続いていた。
(行かなきゃ。やらなきゃ、あたしにできること……全部!)
「待ってよ、エンちゃん!」
美海は階段を駆け降りた。