プロローグ
レースの最中、ふと、時間の檻に閉じ込められたような感覚を抱くことがある。
右に左に続くターン。気まぐれに吹きつける風。目まぐるしく変わる波の顔色。
一つとして同じ状況はないはずなのに、あたかもハムスターの回し車のように、延々と同じところを走らされているような……。
恩師の言葉を、沢村真希は思い出していた。
儀力はすでに搾りつくした。ハンドルバーを握る手は力をなくし、ヒザは震えてデッキに立つこともままならない。時速九十キロの風に長く束ねた黒髪は引っ張られ、絶え間ない水飛沫に顔の皮膚感覚はもうゼロだ。
持てる技術は総動員、直線は最大のスピード、スラロームは最短のライン。これ以上はないという走りを出して、しかし、それでも追いつけない。
前を行く『氷后』のジェットがいつまでも遠い。あまりに変わらない光景に、時間の感覚が麻痺してくる。彼女の船尾とこっちの船首の間に見えない棒でもつっかえているのではないかと思う。
――弱気になるな。
気迫で負けるな。
氷后には誰も勝てない。日本人にはヴァーミリアン・カップは獲れない。
その二つの「ない」が、ヴァーミリア島に来てから、いや、そのずっと前から耳元についてまわった。誰もが、お前じゃ無理だとあざ笑った。
それが、どうだ。世界一のライダーは、もう手の届くところにいる。
あとジェット一つ分、あと三メートル。踏み越えられないはずがあるものか。
沢村の鋭い目が、ラストフェイズ最後の難関『ケーキカット』をとらえた。
左右を切り立った崖に挟まれた、L字型の水路である。
島の岸壁が水の浸食で削り取られたもので、上空からだとショートケーキの角をフォークで切り取ったようにも見えることから、この名がついた。
幅は約五メートル。岩の隙間をほんの百メートルほど進み、左にターンすれば、あとはゴールまでいくらもない。スピードで劣る自分が勝つ、これが最後のチャンスだ。
氷后が水路に突入。カンマ一秒遅れて続いた瞬間、視覚が死んだ。
陽光あふれる海上からいきなり暗い亀裂の中に入ったのだ。瞳孔がついていかず、目の前が真っ暗になる。左右の岩壁にモーター音が反響し、聴覚までも潰えた。
が、暗闇も耳鳴りも先刻承知済みだ。体が覚えたタイミングでそのときを待つ。
光が弾けた。左から陽光が差し入り、白んだ視界の中、氷后のジェットは左前方、腰を落として左ターンの姿勢に入っていた。
――ここだ!
ハンドルを切り、水面につくほど腰を左に落とす。狙いは相手の右側、スピードにまかせてアウトコースから追い抜いてやる。
二本の航跡が、ほぼ同時に弧を描いた。横殴りの遠心力が全身をなぶった。
そして、時間の檻が外れた。沢村の目が、ついに氷后の横顔をとらえた。
やった――と思った次の瞬間、背筋が凍った。
ジェットが浮いた。こちらの船首が氷后の船尾に乗り上げ、バイクでいうウィリーの状態になったのだ。
体重を前にかけるがもう遅い。コントロールを失った船体が水上を横滑りし、岩壁が目の前に迫ったかと思うと、世界が砕け散るような衝撃が来た。
少なくとも、自分の中では意識を保てていたと思う。
口を開いたと同時に息苦しさが喉の奥までなだれ込み、沢村は自分が落水したことを悟った。脳みそがパニックを起こし、『暴れたい・もがきたい』のメーターがマックスまで振り切れる。
――落ち着け。
背中を丸め、体が勝手に浮き上がるのを待った。
ほどなく光と空気の感触が来た。見回せば、岩肌、空、雲、海。
ジェットレースにおいて落水は失格ではない。すぐに這いあがればレースに復帰できる。すでに逆転は絶望的だったが、不思議とそれは頭になかった。ただ早く、〇.一秒でも早くという思いだけが頭と体を支配している。
不幸中の幸い、ジェットはひっくり返ってはいなかった。物言わぬ相棒は、流線形の巨体を水に横たえ、自分の騎乗を待っているように思えた。
上半身をデッキに乗せ、左手でハンドルをつかむ。続いて右手を伸ばし、胴体を引き上げようとしたところで、べちゃりとデッキに突っ伏した。
おかしい。右腕に力が入らない。というより、動かない。
手はちゃんとハンドルを握っているのに、それ以上ぴくりともしてくれない。
身を引き裂くような激痛が追いかけてきた。沢村は自分の右腕を見た。
肩から先には、何もなかった。
ぼちゃん。
――と。
ハンドルにぶらさがっていた腕が、水に落ちた。