花に嵐― kiss of fire ―
ふとしたことで、恋の火が灯るかもしれません
「うぅ、えっく」
教室の後方、窓際の席に突っ伏しながら男が泣いていた。その横に佇む女は慰めるでもなく、窓辺に咲いている花を眺めながら黙って傍に居続けている。人が泣く理由はいくつもあるが失恋もよくあることだ。
「うっ、ぐす。決めた! 俺はもう恋なんかしない」
学ランの袖で涙を拭いながら顔をあげ、またいつもの決意を口にする。失恋の度にこうだった。
それを横目に、女は窓を開けた。少し冷たい春先の空気が頬を撫でる。外では風に散らされた花が空を舞い、薄紅の淡雪が降っているような夢幻の景色がひろがっていた。そのひらひらと漂う花びらに、女は自分の想いまで映っているような気がした。
近くの枝先に咲いた花に指を伸ばすと、ふいに窓から花びらが舞い込んで男の机に落ちていった。
「桜、か。あのさ、今日の古典であったじゃん」
男が唐突に、今日の古典でやった伊勢物語を話題にしてきた。
「えと『世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』ってやつ」
たどたどしい調子で和歌が詠まれる。その色も艶もない口調は、女の口元に笑みをのぼらせた。
「訳は?」
試すような声音が教室に凛と響く。男はあやふやな記憶を探り、
「この世に桜がなかったら咲いた、散ったと一喜一憂しなくて済むのになぁ、だっけ?」
と何となくな訳を言った。女から溜息のような笑いが零れた。
「とにかく! そうなんだよ。桜がなかったら期待しないようにさ、恋しなかったら泣かないで済むんだよ」
今回は少し応えたのか、柄にもなくうしろ向きなことを言っている。例えが振られること前提だった。
女は興味なさ気に装いながら花を弄び続けた。どうせいつもの立ち直る儀式みたいなものだ、と胸のうちで独りごちる。
「恋が人生の全てじゃなぁーい! 俺は今日からストイックに生きてやる! まずは――」
こぶしを振り上げ、己の禁欲の誓いを次々と列挙しいく男に、
「似合わない」
戯れていた花から顔を上げ、女が苦笑しながら呟いた。キャラじゃないと思ったのか、男も苦笑いしながら頬を掻いている。
「やっぱり?」
「女好きのままでいなよ、業平みたいにさ」
男の顔に『誰それ』と書かれてあるのを読み取るように、
「さっきの歌の詠人」
と告げる。
男が納得したように手を打ち鳴らした。
「おお、なっちゃんも女好きか。どうりで共感する歌だと思ったぜ」
有名歌人にみかんジュースと同じあだ名を付け、ひとりで愉快そうに笑った。打たれ強いのか、もう免疫があるのか。その表情に、さっきまでの失恋の色は影を潜めている。
そうやって男はひとしきり笑うと、おもむろに席を立った。
「また話聞いてもらっちまったな。すっきりした、サンキュー。俺さ恋は当分いいやぁ」
女は掛けられた言葉を複雑な気持ちで受け取りながら、肩越しにヒラヒラと片手を振った。なんでもない、とでもいうように。
何気ないその仕草に感謝するように、男が更に言葉を重ねてくる。
「ホントお前って、いい『友達』だよな!」
パキン――。
一瞬にして理性が弛緩したような感覚に女は襲われた。心に暗い翳がさす。思わず指に力がこもり、弄んでいた花まで手折ってしまった。
「どうした?」
向き直った女の顔から感情の色は窺えない。ただ黙って、手折った花を左の人指し指と中指で挟み口元に寄せている。
「……散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき」
静寂を破り、澱みない調子で和歌が諳んじられる。口唇に淡紅色の花が控えめに寄り添い、文字通り花唇の風情を思わせた。
「なんだ、それ?」
男は戸惑いの表情で伺ってくる。
「さっきの歌への返歌」
「どういう意味だ?」
女の黒曜の瞳に男が映りこんだ。
「桜は惜しまれて散るからこそ素晴らしくて、この世に永遠なものは何もない、ってこと」
平易に噛み砕いた言葉を男に返すと、思案顔で腕を組んだまま頷いていた。それを見ながら、
「だから……」
女が歩を寄せる。
「また恋してよ」
願うようにそう囁き、花に口づけてみせる。
「あたしが困るからさ」
言葉が終わる刹那に、手にした花が男の唇に押しあてられた。艶やかな微笑みも添えられて。
「っん!」
こんなことをしたのは、桜吹雪に魅せられたからか春嵐に想いを煽られたのか。
それとも、こいつのせい?
自嘲めいた笑みが女に浮かぶ。男は困惑した表情で、よろめきながら一歩下がった。花びらが一片、その唇を彩っている。
女が想いの言葉を紡ぎだそうとした瞬間、教室のドアが急に開いて担任が入ってきた。
「何してるんだ?」
担任は訝しげな顔で教卓の上にあったプリントをとり「早く帰れよ」と、念を押しながら出て行った。どちらともなく吐息が漏れる。
興を削がれた女は、伝えられなかった言葉を胸に仕舞い、それから伏し目がちに、
「残念」
と言葉を洩らす。
スカートの裾を翻し、そのまま男の脇を抜けようとした。でも衝動的に、男にその細い腕を掴まれてしまう。
「な、何であんな……」
まだ、わかんない?
振り返った顔が、馬鹿な奴ほど愛しい。そう言っている。
「教えてやんないよ」
瞳を和ませながら男の上唇に残る花びらを指先で掬い、それを口寄せた。見せつけるかの様に。そして微笑みだけを後に残して、教室から出ていった。
窓の外では花嵐が桜を舞い散らし、花びらが宙を彷徨っている。それは揺らぐ想いの――恋にも似て。
こんにちは、ユエです。
この作品は、今年の桜舞う季節に書いたものです。
今作ではモチーフとして「桜」と「和歌」を使用しております。
また、作品創りにおいて少し古典も意識してみました。
色々と初挑戦が多い作品となっております。
よろしければ、ご意見ご感想をお聞かせください。