第一章-2
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翌日、平原絵里はいつものように学校へと向かっていた。
ジーっとアブラゼミが五月蠅く立てる音をイヤホンで遮断し、長い坂道を登っていた。
7月も中盤となり、連日三十度を越えると言う異常な温度に辟易しながら高校へと続く道を登り続けていた。
学校が山の上に在るお陰で、周りには緑が多く、木陰のお陰で幾分か涼しく感じる事はできるが、この長い坂がその恩恵を打ち消し、気持ちをマイナス方向へとシフトさせていく。
駅から歩いて十五分、その半分近くを占める坂道もようやく終わりが見え、切り立った崖の上にでも造ったように山頂の更に高い場所に、学校のが在った。
そして、学校の校門に至るまでの最後の難関のである急な坂を登り終え、校門を潜る。
予玲の鳴る少し手前と言う、一番人の多い時間帯と言う事だけはあり、周りには多くの生徒たちが大粒の汗を流しながら歩いていた。
昇降口でローファーから上履きへと履き替え、一年生の教室がある四階へと登り、予玲の音を聞きながら絵里のクラスである四組へと入った。
教室内に入った瞬間、誰かが勝手に点けたクーラーのお陰で全身に涼しさが周り、少しばかり身震いをした。
そして、熱が和らいでいくのを感じながら自分の座背へと座るなり、前の席の人に話しかける。
「おはよう、ナナ」
「ん? あぁ、おはよう絵里」
その前の席の人とは、絵里と同じ部活動に所属する葉山七奈だった。
「どうしたの? なんか顔色悪いけど大丈夫?」
「ああ、大丈夫だから気にしなくていいよ」
七奈自身は大丈夫だと言うが、絵里の目からはとても大丈夫そうになかった。
化粧で誤魔化しているようだが、目の下には隈が浮かびあがっており、顔色も赤みが足りず、少し白かった。
「いや、大丈夫そうには見えないよ。保健室行く?」
「本当にだいじょうぶだからさ、気にしないで」
「そう、ならいいんだけど」
これ以上何かを言ったところで聞いてくれそうになかったので、やむなく絵里が食い下がった。
元気がないのなら、どうにか元気を出してあげようと、適当な話題を提供してみる。
「そういえば、今日はユミ遅いね」
「……うん、そうだね」
いつも通りならば、二人よりも先に教室に来ているのだが、今日に限って珍しくその姿は見当たらなかった。
「トイレにでも行っているのかな?」
「それは違うと思うよ。ほら、まだ鞄も置かれていないしさ」
そう言いながら裕美の席を指さす。
「本当だ。でも、偶にはこういうこともあるよね」
「……だね、遅刻だったらいいね」
何か違和感を感じるモノ言い、それに付いて言及しようとした瞬間、本玲が鳴り響き、同時に担任が入ってきた。
この時間になってもまだ裕美が来ていない事に、絵里は心配し始めた。
「どうしたのかな? もしかして風邪、ひいちゃったかな?」
「……どうだろう、ちょっとLINE飛ばしてみるね」
そう言ってからスマホを鞄の中から取り出したのだが、スマホが七奈の掌から零れ落ちた。
カタン、と軽い音を立てて床の上を滑った携帯、それが絵里の爪先にぶつかり動きが止まった。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって、絵里は心配し過ぎだって」
無理に作って明るくふるまっているように見えて仕方がなかった。
爪先にぶつかった携帯を拾い上げ七奈へと渡す。
絵里から携帯を受け取り、七奈が何かを打ち始めた。
「どうした? 体調でも崩したか? って訊いておいた」
「ただの遅刻だったらいいんだけどね」
「……本当にね」
何気なく言った言葉に、何か大きな思いのこもった言葉で返され絵里は口が開けなかった。
賑わいの消えない教室の中で、二人の周りだけに静寂が生まれた。
この学校の近くには電車の路線が二種類通っており、裕美は二人と異なる路線の電車を使っているので、もしかしたら遅延をしているだけなんだ。
そんな事だろうと絵里は思っていた。
だが、その思いは、この後に告げられる言葉により砕かれる。
「お前ら全員席に着いたな」
いつも明るく、軽い物腰の担任が、妙に重く暗いモノだったせいで、クラス内が一気に静まりかえり、担任の方へと視線が集まった。
「落ち着いて聞いて貰いたい」
どうしたのだろう?
いつになく真剣な様子の担任に、絵里の心の中にも疑問が生まれ、自然と視線を担任の方に向けていた。
そして、教室内は三十数名いるとは思えない程の静けさに包まれた。
耳に伝う音はクーラーが立てる静かな駆動音だけだった。
そして、担任がゆっくりと口を開く。
「昨晩、堀裕美が亡くなった」
「えっ?」
教室内のどこからともなくそんな声が上がっていた。
静かだった教室が更に静まり返る。
冷房の涼しさが不快に背筋を撫でて行く。
堀裕美ってユミのことだよね。それが亡くなったってどういう事?
担任から告げられたその一言に頭の中が混乱で溢れかえっていた。
「その関係でこの後、会議があるから、一時間目は自習だ。わかったな」
普段ならば喜びで、教室内が盛り上がるだけだが、そんなことをする者は誰一人としておらず、ただ、無音が広がるだけだった。
「待って!! どういう事なの!」
普段声を荒らげる事をしない絵里が立ち上がり、耳をつんさぐような声で訊いた。
「詳しい事はまだ訊かされていないんだ。今は教室で待っていてくれ」
何も答えられない無力さに歯噛みをしながら、担任の淋しげな背中が廊下へと消えて行った。
嫌な静けさ、誰もが耐えきれないような静謐。
その告げられた言葉の重さを和らげる事のできる術がわからず、誰一人として静謐を突き破ろうとする者は現れなかった。
身近にあるモノなのに、誰もが目を逸らし続けてきたその現実。
その現実を突き付けられた衝撃は生半可なものではなく、絵里はそのまま力なく机の上に倒れ込んだ。
そして、訪れるモノは静寂だけ。
無限に引き延ばされたかのように、長く長くなった時間。
静寂を切り裂くチャイムが鳴るその時まで、誰一人として口を開けなかった。
…………




