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第三章-2

 2


 我に返った時、そこは森の中だった。

 あの恐怖の出来事から逃げ去ることだけを考えていたからか、走っていた最中の記憶が頭の中から抜け落ち、どこに居るのかわからなかった。

 恐らく山の中。

 漠然と、茫然と、その事だけがわかった。

 肌に纏わり付く夏の湿った重たい空気、脂汗のような気持ち悪い汗が流れる。

 薄っすらと地を照らしてくれる月明かりも、鬱蒼と生い茂る木々によって足元まで照らしてくれず、足元ですら見渡す事ができない。

 早く帰りたい。

 そう思った絵里が脚を動かし、何処かへ向かおうとした時、爪先に何か固いモノが触れた。

 その瞬間、からからから、と幾つもの何か崩れ、ぶつかり合う音が聞こえた。

 鞄の中から携帯電話を取り出し、恐る恐る足元を照らしてみた。

 そして、そこに在るものをみて息を飲んだ。

 それは、幾つもの石だった。

 幾重にも重ね、積まれていたであろう石が、絵里によって崩されたのだった。

 これは一体何なんだろう、と訝しながら携帯の明かりを辺りへと移していく。

 すると、そこにあったのは幾つもの積み石だった。

 絵里の周りを覆うようにして、自然にはあり得ない形に積み重ねられた石が何組もそこには存在していた。

 携帯電話の明かりによって虚ろに照らし出された森の中、更に奥の方に光を向けてみると、そこには大きなシルエットが浮かびあがっていた。

 目を凝らしそれに注視してみて、何かわかった。

 それは、石碑だった。

 何を祀っているのかわからない謎の石碑が森の中で、大量の積み石と共に存在していた。

 変な所に迷い込んでしまった、と背筋に冷たさを感じる。

 歪な形をした石が、絶妙なバランスで起立しているのを今一度見て、足元に在るこの石くれが自分の崩してしまった、積み石だと絵里は気が付いた。

 不吉な印象を与える積み石、それを壊してしまったのだとわかり、額から汗一滴、汗が流れた。

 思わず、後ずさる。


 ――からからから、


 踵に何か固いモノが触れた、と思った瞬間、石同士がぶつかり合う音が木霊した。

 携帯電話の明かりを脚元に戻すと、そこには新たに崩された石くれが寝ころんでいた。

 足元を再び照らしだし、この光景を見直して、絵里は汗と共に息を一つ飲んだ。

 先程までそこに存在していなかった積み石が、いつの間にか背後に現れた事を理解して。

 そして、最初に自分で崩してしまった積み石の残骸が、何処かへ消失した事を理解して。


 何かが居る。


 漠然とそのことを悟った。

 瞬間、背後から寒気を感じた。

 振り返り、携帯の明かりを向ける。

 そこに在るのは静かな森、虚ろに広がる静謐。

 なにも居ない、気のせいだったんだ。

 気を抜き、安堵しようとした瞬間。


 ――かつ、


 森の奥の方から足音が聞こえてきた。


 ――かつ、かつ、


 土の上では響かないはずのローファーの様な足音を鳴らしながら。


 ――かつ、かつ、かつ、


 背筋の凍るような寒さが足元に降りてくる。


 ――かつ、かつ、かつ、かつ、


 虚ろな森の中から一人のシルエットが薄っすらと浮かび上がった。


 ――かつ、かつ、かつ、かつ、かつ、


 吊るされたように手をだらりと垂らしながら、絵里の方へと近寄って行く。


 ――、


 そして、急に足音が止んだ。

 姿がわからない程遠くに在った筈のシルエットはいつの間にか、絵里の目の前に在った。

 驚きに息を飲み、後ずさろうとしたが、できなかった。

 脚が何かに縫い付けられているかのように重く、動かせない。

 躰の自由が利かない中、絵里は目の前に現れたモノに向け、呟いた。

「……七奈」

 絵里の目の前に現れたシルエットの正体は七奈だった。

 だが、明らかに様子がおかしい。

 前身は血にまみれたかのように赤黒く染め上げられ、肌の色も不自然な程に白く、そして何より異常なのが、目がない事だ。

 眼窩から眼球をごっそりと刳り抜いたかのように、瞳が在るべき場所には深い闇色が存在しているだけだった。

 そして、その闇色の中から、どろり、と赤黒い液体が溢れだし、ぴちゃ、と不吉な音を立てながら、土に落ちた。

「……七奈……だよね」

 自分で口にしておきながら、友人のあまりに変わり果てた姿に、本当にそれが七奈なのか信じられないでいた。

「…………くせに」

 問いかけに答えたのか、それともただ漠然と音を発しただけなのか判別を付ける事は出来なかった。

 今まで何度も聞いてきた七奈の聲、それが本当に七奈のモノとは思えない程、底冷えのする恐怖を感じていた。

 本当にこれが七奈なのか見極めようと、暗い眼窩を見つめ続ける。

「……いたくせに」

 先ほどよりもはっきりと発せられた聲、だが絵里は何を言いたいのか理解できず、見つめ続ける。

 すると止まったままの七奈が動き始め、絵里へと近寄り始める。

 無意識の内に後ずさろうとしたが、躰が思うように動いてくれない。

 それでも七奈は動く事を止めず、絵里の元へと更に近寄って行く。

 手を伸ばせば届く程近くに居た七奈、それが一歩一歩確実に歩いてく。

 異常なほど白い肌をした貌には眼窩から流れた血液によって付けられた赤黒い跡が残っていた。

 そして、その貌が絵里の目と鼻の先にまで近寄った。

 息のかかる程、すぐ目の前に七奈の貌がある。

 恐怖から、脚は竦み、腰が砕けそうなのに、立ち尽くす。

 まるで見えない力によって空中に磔にされているように、躰が動かせない。

 そして、文字通り目の前に居る七奈が今一度口を開いた。

「見えていたくせに」

 ようやく、言葉の全容が絵里に伝わった。

 だが、絵里はそれが何の事を示しているのか理解できなかった。

 いや、理解するだけの心の余裕がもうすでに無くなっていた。

 躰の自由が利かない事でパニックに陥り、目の前の異常に怯えており、絵里が許容できるだけの出来事の範疇からはみ出していた。

 辺りを包む空気は、強烈な腐臭を帯びていた。

 ドブの臭いに、血を混ぜたような、耐えがたい不快さを持った臭いが鼻孔を通り抜け肺の中を侵し続ける。

 七奈が口を開き、その臭いをより強力なモノにする。

「目が奪われる瞬間を、見ていたくせに」

 その言葉に背筋が凍った。

 全身から一気に血の気が引いた。

 そして、脳内で七奈の目が、裕美によって抉り出される瞬間が蘇った。

「何もしなかった貴方を、許さない」

 猛烈な恨みを込めて発せられたその言葉に絵里は何も言い返す事ができなかった。

 垂れ流される七奈の言葉を聞きながら、脳内ではぷちぷち、と引き裂かれていた時の音が無限に繰り返されていた。

「見えていたのに、何もできなかった」

 七奈の目を抉り出した後の裕美の醜悪な微笑みが、網膜にこびり付いて離れてくれない。

 もう、自分の躰の感覚すらわからなくなっていた。

 方向感覚がわからない、息をしているのかも定かではない。

「だから、そんな目は、いらないよね」

 吊るされていた七奈の腕が、ゆらり、と揺らめき、絵里の貌目掛け持ち上がり始めた。

 血の滴っている指先が持ち上がり、その水滴が腕を撫でながら下へと滑り、肘から雫を垂らす。


 ――ぽつん、ぽつん、


 死んだように静かな森の中、絵里のローファーの上へと雫が落ちる。

 そして、持ち上げられていた手が、絵里の貌へと到着した。

 血濡れた掌が、いとおしむように絵里の両頬を覆う。

 生ぬるい液体が触れているのもどうかわからない、意識が更に遠のいて行く。

 瞳のない、七奈の貌。

 表情がわかりにくくなっている筈のその貌は、欲しいモノがすぐ手に入る程近くにある時のように、悦びに満ちているようだった。

 綻び始める七奈の口元、徐々に徐々に釣り上がり、歪な形へと変わっていく。

 そして、掌でゆっくりと貌を撫で、絵里を赤黒く染めながら、目的地へ行く。

 なめくじのように通った後を湿らせながら、這い上がる。

 音も立てず、すぅ、と消え入るように、撫で上がり、目的地へと辿り着く。

 意識のほとんどなくなっていた絵里の視界が七奈に覆われ、真っ暗なモノになった。

「だから、私が貰って、あげる」

 息をしているのかもわからない、感覚ももう殆ど残っていないのに、自分がこれから何をされるのかわかってしまった。

 先程、目の当たりにしたあのできがとが、今度は自分に降り注ぐのだと。

 もう、動かすことのできない躰、力など、とうの昔から込めていないと言うのに、崩れ去る事もなく磔られたままだった。

 もう、逃げられない。

 目を、刳り抜かれる。

 そう、心構えが定まった瞬間。


 ――からからから、


 どこからともなく音が溢れてきた。

 前にも何処かで訊いたような、何かが崩れ去る音。

 何の音だったんだろうと、漠然と思ってみるが、何もわからない。


 ――からからから、からからから、


 何なのか思い出せないその音が、更に周りから溢れる。

 すると、絵里の目を覆っていた七奈の手が震え始めた。

「……嫌だ……戻されたくない」

 畏れに震えるような聲だった。

 そして、血でべっとりと濡らした七奈の掌が絵里の貌から外され、光を取り戻した。

 月明かりで薄らぼんやりと照らしだされる夜の森。

 死んだように静かだったそこが、いつの間にか妙な姦しさに包まれていた。

 森中至ることろから零れてくる、底冷えするような威圧的な狂気。

 すると、気付けをされたかのように絵里の意識が戻り始め、躰に掛っていた戒めまでもが緩んでいた。

 動かせるようになった首を回し、辺りを眺め、絵里は絶句した。

 周りに幾つも立てられていた積み石が全て崩れ去っていた。

 だが、それだけではない。

 その崩れた積み石から、白い靄のようなモノが立ち込めていた。

 その靄からは、氷とは比較にならない程の冷たい冷気と、全てのモノを戦慄させる狂気が溢れだしていた。

「……来る……鬼が……いや……いやだ」

 七奈が恐怖に震えながら、浮言を零す。

 積み石かバラバラに浮かび上がっていた靄達は次第に繋がり、一つの大きな塊となって、夜空を霞ませる。

 見えない拘束から解き放たれた絵里は、その靄を眺めながらヘ垂れこむことしかできなかった。

 立ち込めている狂気があまりにも禍々しく、脚に力を込め続ける事ができなかった。

「……そうだ……その前に獲ればいいんだ」

 何かに脅えていた七奈はその言葉を呟いた瞬間、歪な笑顔を浮かべ空洞の眼窩で絵里を見つめた。

 どろり、とした血液を零しながら、絵里へと近寄って行く。

 ゆっくりとした足取り、それが次第に早くなり、絵里へと駆けよった。

 両腕を絵里へと突き出したまま、追い詰められたモノの狂気を背った七奈の指先が、絵里の目蓋に触れた。

 両目を奪おうと、指先が更に奥へと進む。

 両目蓋がひん剥かれ、丸い眼球の形が露わとなる。

 今にも飛び出しそうな程に剥かれた眼球。

 だが、そのままで均衡が保たれた。

 奥へ、奥へと這い入る筈の指先が動けないでいた。

 夜空を覆っていた白い靄が、七奈の両腕を掴んで、それを阻止していた。

 その二筋の靄は、まるで筋骨隆々とした怪物の腕のように太く、逞しかった。

「離せっ!! これは私のだっ!!」

 狂気に身を任せた七奈が暴れるが、靄の腕だそれを阻止する。

 そして、靄の腕が移動し、七奈の首元を覆う。

 前後から首を絞めるように伸ばされた靄の腕が、七奈を何処かへ連れ去ろうとするが、執念と執着で粘り続ける。

 絵里の目蓋に触れていた指先、それがじりじりと離されていくのを感じる。

 助かる。

 心のどこかにそんな安堵が浮かび上がっていた。

 釣り上げられていく七奈の首、執念によって醜く変えた表情で絵里の両目を見つめ続け、必死に腕を伸ばし続ける。

 だが、靄の腕が七奈の引き上げ、遂に目蓋から指先が外れた。

 助かった。

 漠然と思っていたそれが、確信へと変わった。

 その瞬間だった。

 目の奥に、今まで感じた事のない違和感が流れた。

「……え?」

 その違和感に対して絵里は聲を漏らすことしかできなかった。

 遅ればせ、それが痛みだと気が付いた時には、貌の中から、ぷちぷちぷち、という何かの引き離される音がなり、そして。


 ――ぷちん、


 最後の糸が引き離された。

「ああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ――――――!!」

 口腔を壊さんばかりの音が森の静寂を貫いた。

 七奈の両手の中には紅い糸を引く白い物が二つあった。

 無理矢理関節を外して、だらんと垂れた両腕の先に、絵里の眼球が収まっていた。

「目だ……私の目だ……」

 歓喜に声を震わせながら、靄の腕に持ち上げられる。

 そして、靄が消え去ると同時に、七奈の姿も雲散した。

 絵里の両目と、共に。

 悲鳴の後に訪れた静寂。

 死んだように淋しい静寂。

 その中で絵里は倒れていた。

 眼窩から、紅い液体を流して。

 石と同じように、冷たく崩れた。

 死んだ静謐の中で、ただ独りきり。

 紅い命を流しながら、眠りの安寧へ。

 ひっそりと、静かに、落ちるのだった。

 …………


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