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第三章-1

 第三章 三人目


 1



 平原絵里は下り坂を駆けていた。

 擦りむいた膝はまだ血液で赤黒く膿んでおり、地に膝をついた時に付いた砂粒すら払われていない状態で坂道を駆けていた。

 唐突に聞かされた裕美の死をまだ受け入れきれておらず、不安定だった精神は七奈が自分の下から離れて行くことにより、一度バランスが崩れたが、独りきりの静寂に包まれた恐怖に駆られ、先に行った七奈を求める為に脚を動かしていた。

 夜の闇が濃くなってきた黄昏時、薄っすらと残る夕日が作る影を追いかけるように坂道を下る。

 すれ違う人の誰も居ない、通り過ぎていく自動車すらない。

 本当に世界に独りきりなのではないか、と錯覚を抱いてしまいそうな程の静けさ。

 遠くから聞こえる蜩の鳴き声すら、静か過ぎる世界の中では大きく聞こえる。

 無我夢中に走り抜け、坂道が終わり、小川に架かる小さな橋を渡りきった瞬間、


 ――どか、


 何か重みのあるものに躓き、前のめりに転んだ。

 そこにあったのは通学鞄。

 高校指定色の地味な紺色をした一つの通学鞄。

 その鞄を見つめ、絵里が悲鳴を上げそうになった。

 白い貌、黒い髪、大きな瞳、白と黒のコントラストにレースをふんだんにあしらったゴシックロリータの服を纏ったミニマペット。

 普段なら何とも思わず可愛らしいとも思えた筈の人形に驚き、呼吸が乱れていた。

 早鐘を打つ心臓、じとっと嫌な汗が全身に伝い、転んだ時に着いた掌からは血が滲む。

「……これって」

 多少冷静さを取り戻した絵里が呟きながら、その鞄の下に近寄る。

「うん、やっぱり。七奈のだ。でも、なんでこんな所に?」

 辺りを見回してみるが誰の姿もなかった。

 小川のせせらぎくらいしか聞こえない、異様に静かな住宅街。

 そして、何よりも異様なのがこの温度だった。

 夏だと言うのにやたらと寒かった。

 それも、急に寒さを感じ始めた。

 空気に乗って冷気の塊が降りてくるのを感じる。

 小川の上流側。

 何もない筈のそこから異様な程の冷気が流れ込んできていた。

 肌が粟立つ、何か嫌なモノを予感して。

 身の毛がよだつ、七奈に何か起きた気がして。

 引かれるように脚が動く。


 ――かつ、かつ、かつ、


 静かな中ではよく響く足音を立てながら、ゆっくりと歩く。


 ――かつ、かつ、かつ、


 汗ばんだ掌を強く握りながら、やたらと五月蠅い心音を聞きながら、進んでいたその時。


『あああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!』


 悲鳴が空を切り裂いた。

「七奈!」

 鼓膜が引き裂かれそうな悲鳴だったと言うのに、絵里は七奈だとわかり駆けだした。

 そして、角を曲がった瞬間目を見張るモノが映り込んだ。

 大きな水溜りのように広がっている血液。そしてその中に横たわる一人の少女。

 肩にかかる程度に切り揃えられた焦げ茶色の髪、真っ白なワイシャツは吸い上げた血により半分を紅く染めていた。茶色かった筈のローファーも元の色が何色なのかわからない程に赤黒く色を変えていた。

 それが、七奈だと気が付くのに時間が掛った。

 辺りを包む重苦しいまでの血の臭い、全身を血に染め横たわる友人。

 無意識に後ずさる。


 ――ぴちゃ、


 その時、自分以外の者がたてる音を聴いて絵里は前を向く。

 横たわる七奈は一切動いておらず、音を立てていなかった。

 そして、今始めて気が付いた。

 七奈の目の前にもう一人立っていた、と言う事に。

 存在の希釈なモノがもう一人そこに居たと言う事に、内心で驚いた絵里。

 意を決して視線を七奈から移して行くと、それは何処かで見たことのあるように思えた。

 この黒かった筈のローファーも、同じ制服のスカートも、赤黒くなっていたワイシャツも。とても身近な何処かで見ていた気がする。

 そして、視線を貌へと移す。

「……裕美……なの?」

 蒼白な肌を血液で濡らした容貌は間違いなく裕美のモノだったが、絵里には確信ができなかった。

 死んだはずだと思い込んで、目の前のモノが信じられないからではなく、目の前のものに違和感があったからだ。

 その違和感とは、裕美の左目が七奈と同じに見えたからだ。

 眼窩が空洞の右目。

 眼球が収まる左目。

 右目がない事に驚くべき時のはずだが、その左目が怖かった。

 瞳孔の開いたままの焦点の定まらない瞳。

 嵌まらないパズルのピースを無理矢理嵌めた時の様な歪み。

 今にも零れ落ちそうな、虚ろな瞳に底冷えのする恐怖を抱いた。

 また、一歩後ずさる。


 ――ぴちゃ、


 どろりとした赤黒い血液の中を裕美が歩き始めた。


 ――ぴちゃ、


 そして、七奈の目の前に着いた所で歩みを止め、屈みこんだ。

 意識の感じ取れない虚ろな左目で見降ろす裕美。

 動いている、という認識ができない程に朧気な気配の裕美の左腕が持ち上がり、七奈へ向け動き出す。

 動いている腕が七奈の貌の方へ近寄り、血の滴る指先で額を撫で、髪を掴んだ。

 そして、掴んだままの手を放すことなく、その腕を上へ、上へと七奈の頭ごと持ち上げていく。

 裕美の異常なまでの剛力に躰を持ち上げられる七奈、全身から力が抜けているようで、手足がだらり、と吊るされているかのようにふらふらと揺れる。

「何してるの……裕美……」

 絵里が狭窄した喉から辛うじて声を絞り出した。

「………………」

 だが、その事が聞こえていなかったかのように、裕美は七奈を持ち上げ、今度は右腕を七奈の貌へ近づけていく。

 ゆっくり、ゆっくりと、右手が七奈の下へ寄って行く。

 紅い右手が七奈の貌にどんどん、近づいていく。

 そして、触れた。

 いとおしむように右頬を撫で、ゆっくりと上に滑り、閉ざされた目蓋に触れた。

「……止めて……」

 何かを感じ取った絵里がどうにか絞り出した声で訴える。

「………………」

 動き続ける指先が、両目蓋の境目に触れ、それを上下に裂き、内包されていた瞳を露わにさせた。

「……止めてよ……」

 蒼白な表情を浮かべながら、更にまた一歩下がる。

「………………」

 露わになった瞳、開かれた目蓋。

 そして、その右手が進み始めた。

 目蓋の裏に、指先を忍びこませ。

 奥へ、奥へ、と白い指先が滑る。

 そして、不吉な音が鳴り始める。


 ――ぷち、


 繋がっていた糸が引きちぎれるような音が。


 ――ぷち、ぷち、


 糸の束が引き離されているかのような音が。


 ――ぷち、ぷち、ぷち、


 そんな音が、七奈の中から鳴り渡っていた。


 ――ぷちん、


 そして、最後の音が鳴り終わった。

 蒼白な表情を一切変えなかった裕美の口元が動く。

 不吉に歪んだ微笑みの形へと変わっていた。

 虚ろな左目が見据える先、右掌に収まるモノ、それを見つめながら不気味に嗤っていた。

 右手の中にあるモノ、それは……


 眼球、


「…………ひっ」

 それを見た瞬間、絵里は頭の上から一気に冷たい物が下へ降りて行った気がした。

 無意識に躰が動く。

 ここから逃げろと警鐘を鳴らす。

 そして、躰の赴くままに走り始めた。

 再び血溜まりの中に放り出された、友を置いて。

 もう一つの眼球を手に入れて悦ぶ、友を置いて。

 この場から離れたい一心で、暗闇の中へ消えた。

 行き先も定めぬままに。

 …………


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