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第二章-3

 3


 葉山七奈は走っていた。

 友人を一人学校に残し、がむしゃらに駆けていた

 長く続く下り坂を何度もつんのめりそうになりながらも、必死に下っていた。

 降り注ぐ西日から逃れるように、或いは前を走る自らの影の追いつくために。

 その甲斐あってか、普段の半分の時間もかけず山を下りきり、南北に流れる小川に架かる橋を越えた所で脚を止めた。

 額から滴り落ちる汗、呼吸と共に上下する肩、激しく唸る心臓。

 息が切れたからここで止まったわけではない。

 この場所が目的地だからこそ、停止した。

 掌に握りしめたままの携帯電話、それを操作し、先ほど驚かされた文章を確認する。


『山の麓の橋』


 短い文章で指定されここ。

 こんな内容だったら驚きはしない、なんで驚いたかと言うと、メッセージを送ってきた相手が裕美だったからだ。

 わずかな希望を込めて今朝、飛ばしたLINE。そこに返事が届いていたからこそ、驚愕した。

 もしかしたら、裕美は生きていて、学校で起きた事は全て質の悪い悪戯だったんじゃないか、と思ったが、同時に、第三者による悪質な悪戯なのではないか、とも疑問を抱いた。

 どちらの悪戯の方が可能性が高いか、と訊かれたら認めたくは無いが、後者の方が可能性がある。

 一介の高校生が、学校ならまだどうにかなるかもしれないが、警察まで巻き込んでこんな事ができるとは思えない。

 そうなると消去方で必然的に第三者による悪戯と判断せざるを得ない。

 一縷の希望に縋りつきたい思いは消え去ってはいないが、自分の目で見てしまったモノが、それを許してくれない。

 血溜まりの中に寝そべっていた裕美の姿。

 思い出したくない事が脳内から溢れ出、目の前にその時の場景が蘇る。

 駄目だ、思い出すんじゃない。

 七奈は自分に言い聞かせ、その思考を無理矢理頭の中から追い払う。

 それよりも今は、この悪質な悪戯を仕掛けた輩をどうにかすることが先決だ。

 そして、それが絵里を置いてきた理由でもあった。

 絵里はどう仕様もなく人のいい奴だから、もしこの悪戯の犯人を捕まえる事に成功したとしても「もうしないでね」と優しく諭して、許してしまうかもしれない。

 だが、七奈にはそのつもりは毛頭なかった。

 冗談で済むレベルを遥かに超過した悪戯なのだから、犯人に見合うだけの代償を負わせるつもりだった。

 何をさせるか、そう責任を取らせるか、そんなことは今は思いつかないが、最低限でもこのむかっ腹を収める為の行動は起こさせえて貰うつもりでいた。

 肩でしていた息もようやく落ち着き、辺りを見回してみる。

 小川の下流側、そこには川の流れに沿って道路と民家の塀が続くだけで、他には何もなかった。

 上流側、そこも同じように、川の流れに沿って道路と塀が並ぶだけで、何もない、そう思いここから過ぎ去ろうとした時、視界の隅に人の影が見え、脚が止まった。

 上流側の方、電柱と塀の間に誰かの姿が見える。

 躰の後ろ側しか見えていなかったが、その姿を捉えた瞬間から脈拍がドッと跳ね上がった。

 同じ高校の女子の制服、短く切られている襟脚。

 それは何処かで見た事のある人物だった。

 そして、思い当たる人物の名を口にする。

「…………裕美」

 七奈の口から零れたその名前。

 それは、通り魔なんかではない、あの噂の幽霊によって殺された裕美の名前だった。

 七奈の肩から鞄がするりと滑り落ち、ドンっと小川のせせらぎくらいしか聞こえない仲では大きく響いた。

 動く脚。

 最初はゆっくりと、次第に早歩き、小走り、そしていつの間にか駆け足になっていた。

 音もなく、すぅ、と裕美らしき姿が角の向こうへと消えた。

「待ってっ!!」

 必死な叫び声。

 だが、帰ってくる声は無く、七奈の足音だけが黄昏の世界に響く。

 勢い良く駆け、裕美が姿を消した曲がり角へと脚を踏み入れた瞬間、


 ――ぴしゃ、


 そんな異様な音が聞こえ、脚を止めてしまった。

 ……水溜まり?

 最初はそう思ったが、ならなんで脚を止めてしまったのか、と七奈は思う。

 どこからともなく込み上げてくる臭い。

 鼻の奥を突き刺して来るような鉄錆の臭いに七奈は表情を歪める。

 ふと、この臭いの正体と足元の液体が関係しているように思えて、視線を下へと移していく。

 恐る恐る、ゆっくりと首を動かす。

 そこに広がっていたのは、紅く黒ずんだ液体。

 最初はそれが何なのかわからなかったが、頭の中でこの色と液体が符合した。

「……ひっ」

 奇声と共に躰が竦み、一歩後ずさった。


 ――ぴしゃ、


 足の裏に追いやられて跳ね跳ぶ赤黒い血液がローファーに飛び、ソックスに付着する。

 尋常ではない量の血で集まって生み出されている血溜まり。

 息を吸う度に、錆臭さが肺を侵し、胃の腑が込み上げてきそうになるのを耐える為に、躰をくの字に折り、両手で口を塞ぐ。

 逃げ帰りたい不快さ、気持ち悪さ。

 けれど、あの影の正体を突き止めなくてはいけない、と使命じみた執念で折れた躰を元に戻す。

 血溜まりから前へ、前へと伸びて行く一対の血の足跡。

 視線だけで、奥へ、奥へと追い、やがて足跡が消えた。

 代わりにそこにあったのは、一対のローファーだった。

 黒いローファーは元の色がどれなのか区別が付かない程に赤黒く変色し、上へと伸びるソックスも斑に血が付着しており、スカートの中から伸びる脚は病的な程白くなっていた。制服のスカートも例外なく血にまみれ、白いワイシャツも赤黒くなっていた。

 そして、その貌。

 男子と見間違えるほどに短く切り揃えられた髪形、様子こそおかしいが、昨日も向かい合った裕美の貌がそこにあった。

 だが、その貌の中には無くてはならないものが亡失されていた。

 その無くなっているモノとは、目だった。

 裕美の眼窩には、そこに収まっている筈の眼球がすっかり消え失せており、代わりに在るのは、中を見通す事も出来ない深い、闇だった。

「…………裕美」

 七奈の口からか細い声が零れる。

「ほら、もうこんな悪戯止めようよ……」

 歯の根が噛み合わない、いつの間にか周囲の温度が下がり寒さと恐怖で脚が震えていた。

「ドッキリだったんでしょ? だったら、ほら、もう十分に驚かされたからネタばらししてよ」

 一縷の希望を掴みたくて、幾ら手を伸ばして届かないとわかっていても、震える腕を差し伸ばす。

「…………」

 だが、答えは返ってこないまま時間が流れた。

「黙っていないで答えてよっ!!」

 静寂に耐えかねた七奈は遂に絶叫していた。

 次の瞬間、今まで無言で佇んでいた裕美が七奈の問いかけに答えるように、ゆらり、と揺れながら躰を動かした。

 瞬間、周りの空気が一気に冷え込んだ気がした。

 異様に鳥肌が立ち、冷や汗が頬を伝う。

 来ないで、これ以上近寄らないで。

 本能が警鐘を鳴らし、逃げろと訴え掛けてくるが、竦んでしまった脚が動いてくれない。

「……いや」

 上ずった声で必死に訴える。

「いや……来ないで……」

 裕美の上半身がゆっくりと動き始めた。

「……お願い……だから」

 涙声と悲鳴を混ぜたような声で懇願するが、状況が転じる気配がない。

「……いや……やだ」

 浮言のように言葉を繰り返す七奈。

 その目の前で裕美の躰が更に傾いていき、眼窩の中から一筋の液体が流れ始めた。

 透明ではない紅い液体。

 それが裕美の頬を伝いながら紅く染め、アスファルトの上に落ちる。


 ――ぽと、ぽと、


 小さな音が断続的に鳴り続ける。


 ――ぽと、ぽと、


 紅い涙がアスファルトに吸われていく。

 幾粒も落ちる雫、それが一気に嵩を増した。


 ――ぴちゃ、


 音と同時に眼窩の中から大量の血液が流れ、貌を裕美の貌を赤黒く変え、新たな血溜まりを生み出した。

 そのあまりにも現実離れした出来事に七奈の脚から力が抜け落ち、その場にへたり込んだ。


 ――ぴしゃ、


 血が飛び散った。

 制服越しに血液が沁み込んでくるのが伝わり、やがて、生ぬるい温度が肌を撫でた。

 崩れ落ちた時に地に着いた掌には、赤黒くどろりとした血液が、びっしりとこびり付いていた。


 ――かつ、かつ、


 前から足音がゆっくり聞こえてくる。


 ――かつ、かつ、


 制服をのスカートを血で汚した彼女が。


 ――かつ、かつ、


 白いシャツを赤黒く染めた彼女が。


 ――かつ、かつ、


 蒼白な貌を血で染めた彼女が。


 ――、


 歩みが止まった。

 見上げる先に在るのは、真っ黒い眼窩から、どろり、と血液を流す裕美だった。

 それが今、七奈の事を見降ろしていた。


 ――ぴちゃ、


 眼窩に溜まっていた血液が再び流れ落ち、血溜まりの嵩を増す。

 ふいに、裕美が唇を動かす。

「…………くせに」

 殆ど聞きとる事のできないその言葉。

「……そんなことはない、私には見えてなかった」

 だが、七奈にはその事が理解できていたようだった。

「それは、嘘」

 生気感じられない裕美の唇がまた動く。

「……嘘なんて……ついてない」

 空洞の眼窩に向けて告げる。

「貴方は〝誰かいたか〟と言った」

「……!」

 それは昨晩に裕美が訊いた〝さっきのアレ、見た?〟と言うモノへ七奈の答えだった。

 絵里は〝あれって何〟と答えたが、七奈は何かを見ていたらこそ〝誰〟と答えてしまった。

「貴方は…………くせに、助かる方法を知っていたのに、教えてくれなかった」

「……違う……教えようとしたの」

 七奈は絵里が都市伝説のような変な噂が嫌いな事を知っていたから、絵里に嘘をついて裕美に会い、伝えようとしていた。

 だが、その噂話を伝える前に七奈は殺されてしまっていた。

「だめ、許さない」

 裕美が再び動き始めた。


 ――ぴしゃ、


 遂に、裕美が、七奈が居る血溜まりを踏んだ。

 空洞の眼窩から血を流し続ける物が、だらりと垂らしていた腕を七奈に向けて持ち上げる。

 指先から赤黒い雫がぽたり、ぽたり、と垂らしていた。

 覇気も生気も感じ取れぬ死者の腕が、七奈の貌へと近づいて行く。

 ゆっくり、ゆっくり、動いているのがどうか、感覚が麻痺してしまう程にゆっくりと。

 じりじり、じりじり、それでも確かに近づき、血を垂らす腕が指先が貌へじりじりと。

 吸いつけられているかのようにその指を見つめる七奈。

 力の入らない脚で血溜まりを蹴り、躰を支える腕で後ずさろうと必死に足掻く。

 だが、脚は血液で滑り下がれず、腕は力を込めるごとに肘が折れ、まともに機能しない。

 ゆっくりと動き続ける死者の腕。

 それが遂に七奈の頬に触れた。

 死者の冷え切った冷たい指先、それなのに滴る血液は生温かい。

 冷たい指先は七奈の貌に血の軌跡を描きながら、上へ、上へと動き始める。

 表皮を撫でながら頬、下目蓋と触れ、上目蓋と触れた瞬間。

 指が目蓋の下へと滑りこんだ。

 あまりにも唐突な事に七奈は何も音を発せなかった。

 そんな七奈に変わるようにして、裕美だった物が言葉を発する。

「…………いらないよね」

 親指が下目蓋から、残り四指上目蓋側から眼窩へと入りこむ。

 紅く染まった視界、走る鋭い痛み。

「――――――――――――――――っ!!」

 七奈の躰がピックと痙攣し、声にならぬ悲鳴が鳴った。

 意識が飛びそうになるが、目から伝わってくる痛みが無理矢理覚醒させ、気絶すら許されない。

 更に奥へと流れ込む指、紅く染まっていた視界が真っ黒く覆われた。

 そして、


 ――プチプチプチ、


 どこからか奇妙な音が聞こえた。

 それは決して切れてはいけない、大切な何かが無理矢理引きちぎられたかのような、破滅的な音だった。


 ――プチプチ、


 何処か遠くから聞こえてくる音。

 しかし、それは七奈の躰の中から鳴っている事に本人は気が付いていない。


 ――プチン、


 そして、最後の糸が切れた。

 七奈の眼窩から紅い雫が零れる。

「あああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 あまりにも長く痛みが続きすぎて、何が痛みだったかわからなくなっていた躰に今、目が奪われた激痛が走った。

 ぴくぴくと七奈の躰が震え、躰が崩れ血溜まりの中に横たわる。

 空洞になった左の眼窩からは鼓動に合わせて血液が流れ、血溜まりの中へと混ざっていく。

 そして、抜き取られた目は裕美の指によって摘ままれていた。

 細く紅い繊維の断片を白の中に残し、血濡れた眼球が風に晒される。

 それを薄っすらとした意識の中、残された右目で見上げる。

 あれは、なんなんだろう?

 その白い球体が自分自身の目だとは思えないでいた

 そういえば、もう痛くない。

 血に浸かっていない左手を自分の貌へと近づけ、左目のあった場所で何かに触れようとするが、そこにはもう、何もなく、指先が奥深くまで入りこんだ。

 あぁ、そうか、あれが私の目なのか。

 消えかかりそうな意識の中で、それがわかった。

 消えかけの蝋燭のように心許ない意識、そんな中でただ、ぼっーと自分の目を見上げ続ける。

 浸かっている血溜まりの温度ですら温かく、気持ちよくなっている七奈。

 もう、指先一つとして動かすこともできそうになかった。

 薄暗く閉ざされていく世界。

 今日まで暮らしてきた世界。

 その幕が下ろされようした刹那、一人の声が七奈の耳に届いた気がした。

 もはや七奈には何と言っているのか判別が付かなかったが、七奈の後ろに立っている人物が誰なのかわかった。

 そして、最後に胸中で呟く。


 見ていたくせに。


 そして、七奈の世界に幕が下ろされた。

 もう、二度と開く事のない終幕が。

 …………


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