稲荷
「少し、村を歩いても、良いだろうか」
小雨の上がったある日、八雲はそう尋ねてみた。
「もう動いて大丈夫なの?」
「ああ、傷はふさがってきている」
「それなら、稲荷様のところへ、参られてはいかがです?」
大人びた口調だが、声音は、愛らしい子どものものだ。控え目に口を挟んできたのは、衵姿の優しげな童女だった。ただし、彼女の両の眼は、閉じられている。
「今日は、お天気も良いですし」
にこにこと笑う、盲目の少女の名は、鈴という。二つに振り分けた蘇芳の髪を、耳の下で結い、そこに名のとおり、小さな鈴を付けている。
「そうね、挨拶に行かないと。たぶん、出てきてくれると思うけれど・・・」
「ええ。稲荷様も、お話ししてみたいと、思っていらっしゃるはずです」
「・・・俺と?」
「はい。気まぐれな方ですが、貴方には、興味がおありのようですし、待っていらっしゃるのではないかと」
小さな村なので、祠はそれほど遠くなかった。しかし、歩くのが遅いせいで、少し時間がかかってしまった。ふさがりかけた傷を、庇いながら動くので、まだ元のようにはいかない。森を抜けて城下に入り、屋敷へ帰り着けるまでに回復するには、今しばらく、時がかかりそうだった。
祠は、立派な椚の木の、根元に立っていた。屋根が八雲の肩の高さほどで、村の家々と同じく、かなり古い。少しかがむと、格子になった木の扉の奥に、ご神体と思われる、小さな像が見えた。中が暗いせいもあり、細部まで見えないが、獣をかたどったものらしい。そういえば、何も供える物を持っていない―――とちらりと思った時、唐突に、真上から声が降ってきた。
「これか。銀が拾って来た二人目は」
驚いて顔を上げると、金色の瞳が、八雲を見下ろしていた。
「稲荷様! やっぱり、出てきてくれた」
隣で、篝が嬉しそうに言った。この、祠の上に胡坐をかいている男が、「稲荷様」らしい。
目を引く金糸の髪が、真昼の木漏れ日を受けて、きらきらと輝いている。だが、伸びるに任せたように、長さはばらばらで、方向もまとまりがない。薄墨の衣の上に、白い狩衣を重ねている。気だるげに頬杖をついた、色白の顔は、どことなく獣を―――それも、狐を思わせた。尖った顎や鼻、吊り上がり気味の、切れ長の目のせいだろうか。耳も、若干尖っているように見える。両の頬には、化粧が施されており、朱い筋が数本、走っていた。
「名は?」
突然すぎる、というより、簡単すぎる神との対面に驚いたが、不思議な出来事に、少し耐性が付いてきたのかもしれない。
「八雲、と申します」
比較的、落ち着いた声が出た。
稲荷は、すうっと目を細めた。が、あっさりと八雲から視線を外し、篝に向かって話しかける。
「しばらくだな。付きっきりだったのか」
「ごめんなさい」
「まあ、お前が人に興味を持つのは、良いことだ」
篝との会話を聞いているうちに、強張っていた体から、力が抜けていくのを感じた。同時に、力が入っていたことに気付く。威圧的な気配は全くないのだが、何を考えているのか分からない、金の瞳に見据えられると、背筋がひやりとする思いだった。
「用は?」
「八雲が歩けるようになったから、挨拶に来たの。稲荷様も、八雲に会いたがっているかと思って」
「銀の拾い物と聞けば、興味も湧く」
再び、切れ長の目が、八雲を品定めするように、じっと見た。
「お前、刀は好きか?」
「は?」
なぜ、突然そういう話になるのだろう。面食らう八雲を、稲荷は、うっすらと唇に笑みを浮かべて、見下ろしている。
篝と鈴も、八雲が返答するのを、待っているようだった。二人とも、話題の脈絡のなさを、悩む様子はない。ぽんぽんと話が飛ぶのは、この神の常なのだろう。気まぐれな方ですが、と、鈴が言っていたのを思い出す。
「好きかと問われると、わかりません。・・・刀を振るわねば、守れないものもありますが、俺はなるべくなら、人を傷付けたくないので」
相手は神だ。戸惑いつつも、真面目に答える。それを聞くと稲荷は、にいっと笑みを深くした。鋭い犬歯が覗いた。
彼は頬杖を解き、前かがみになっていた上体を起こした。金の色彩が急に遠のき、頭がくらくらする。
「あいつはまた、面白いのを拾って来たな」
「面白い?」
「迷っている人間を見るのは、面白い」
歌うように言う。
戸惑う八雲を残して、稲荷はあっけなく、会話を終わらせた。
「気が向いたら、出てきてやる。お前も、気が向いたら、また来い。―――八雲」
瞬き一つの後、祠の上に、狩衣姿の青年の影は無かった。
「気に入ったみたい」
篝が言った。
「あれで、気に入られたのか?」
「出てきてやる、とおっしゃっていたではありませんか。名前も、呼んでおられましたよ」
鈴が、ころころと笑う。
「八雲は、何か迷っているの?」
「・・・そうだな」
八雲は苦笑した。
―――八雲。北斗が逝って、じき二年になる。お前、朝桐家を継ぐ気はあるか。
篝と出会った、その前日の夕べ。父の言葉が、頭をよぎる。
―――お前にその気があるならば、私も、そう腹を決めよう。いずれ、相応の善き娘を、娶らせてやりたいとも思うておる。考えなさい。
「俺は、迷っていることばかりだよ」