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篝(かがり)  作者: 涼玉兎
二 烽火(のろし)
11/29

帰還

 襖の向こうから、とたた、と駆けてくる、軽い足音が聞こえる。そのように廊下を走られては・・・と女性がたしなめる声は効果もなく、急いた足音は、こちらへ近づいてくる。そして、この部屋の前で止まった。

「八雲兄さま!」

 作法の存在など意に介さず、襖を開け放ち、小柄な体が、部屋に飛び込んでくる。衣の裾は幾分か乱れ、長い髪も、梳かす間を惜しんだのだろうと思われる。その黒とは対照的に、白い肌は日焼けを知らない。目鼻立ちのはっきりとした少女で、顎の線が、八雲とよく似ていた。

 立ち上がった八雲は、見上げてくる妹姫に向かって、微笑んだ。

優月(ゆづき)

 途端、優月は八雲に駆け寄り、そのまま抱きついた。優月の後を追ってきた侍女が、部屋に滑り込み、そっと襖を閉めた。

「兄さま・・・! お帰りなさい」

「ただいま。心配をかけたな、悪かった」

 衣にしがみつき、顔をうずめる少女の頭を、八雲は詫びを込めて撫でた。

 この妹が、兄にてらいなく甘える姿を見せられる人間は、限られている。今、この部屋にいるのは、八雲の側近である慧四郎と、彼女の侍女、穂波(ほなみ)。それから、部屋の隅に控えている、二十代半ばと見える男女である。彼らは姉弟で、姉を螢火(ほたるび)、弟を鬼灯(ほおずき)といった。

 しばらくすると、優月は抱きついたまま、ぱっと顔だけを上げて、口を開いた。

「兄さま、想い人に逢いに行かれるのは、構いません」

「は?」

「でも、それならそうと、義姉(あね)さまや優月には、言い置いてくださっても、良いではありませんか。何日もお帰りにならないから、本当に、本当に心配して―――」

 不意打ちだった。非難の言葉に身構えてはいたが、まさか、そう来るとは思わなかった。もちろん、まくしたてる妹の言葉は、耳を素通りしていく。

 慧四郎をちらりと見ると、微妙に目を逸らしている。

 ・・・なんとなく、呑み込めた。

「私、ちゃんと、誰にも言っておりません。ですからこれからは、私にも言い置いてくださいね?」

「・・・ああ」

「いつか、優月にも会わせてくださいますか?」

 八雲はやんわりと言った。

「さあ、その格好では、どうだろうな。髪を梳いてもらわないのか?」

「申し訳ございません。若様がお戻りになったとお伝えしたら、御髪は後で良いと、飛び出してしまわれて」

「穂波」

 優月は少し赤くなって、侍女を振り返った。

「戻ります」

「かしこまりました」

 穂波はおっとりと微笑み、八雲に向かって退室の礼をとる。

 優月の足音が遠ざかると、八雲は、おもむろに口を開いた。

「慧、何を吹き込んだんだ」

「姫が、あまり心配しなさるので。・・・不憫に思いまして、つい」

 つい、ここだけの話、兄君は、想い人に逢いにいらっしゃったのです、と言ってみたそうだ。

「・・・もっとほかに、言いようがあるだろうに」

「申し訳ありませぬ」

「でも、姫の食い付きは良かったですよ」

 鬼灯が、にやにやと笑いながら言う。

「まあ、泣かれるよりはましか・・・?」

 八雲は、小さく息をついた。




「お怪我は、深いですか?」

「気付いていたのか」

「先ほど姫が抱きつかれた時、一瞬、顔をしかめられましたので」

 優月には、見られていないよな、と思い返してみる。顔をうずめていたから、大丈夫だろう。

「深いものもあったが、随分癒えている」

「なぜ、そのような傷を・・・」

「俺は、賞金首になったらしい」

 軽い口調で言ってみたが、それを聞いた三人は、一瞬にして険しい表情になってしまった。

「追っていたのは、ごろつきの集団ですね?」

 元々鋭い目を、さらにきつくして、螢火が言った。自分が行方不明の間、必死に手掛かりを追ってくれたのだろう。

「調べたのか」

「根城までは、突き止めましたけどね。全滅でした」

「なに?」

 淡々とした鬼灯の報告に、今度は八雲が眉根を寄せる。

「金で雇われていたってことは、失敗して用無しになったから、口封じ、でしょうね」

「口封じ・・・」

「ま、あちらさんがやらなかったら、どのみち、うちの姉貴が、全滅させていましたよ」

 八雲の表情が重くなるのを見て、鬼灯が冗談めかしてそう言った。

 生真面目で、頑ななきらいのある姉とは、対照的に(だからこそか)、弟は、茶化したり、軽口を叩いたりするのが常だ。鬼灯の右頬には、うっすらと古い傷跡がある。その傷跡のせいもあり、黙っていれば、いささか強面に見えるのだが、今のように、口の端を上げてにっと笑うと、途端に童顔になってしまう。

「鬼灯、それは冗談には聞こえぬぞ。螢火なら、全滅にはせずとも、半殺し程度にはしそうだ」

 螢火が不機嫌そうに、弟と、真顔で返した慧四郎を、順に睨んだ。彼女は、せっかく美人と言える顔立ちなのに、眼光の鋭さばかりが印象に残ってしまい、周りの者はいつも、もったいないと思っている。

「せっかく手加減したのに、残念でしたね、若・・・どうせ、一人も殺さないから、傷なんか付けられたんでしょう」

「・・・俺の腕が、未熟なだけだ」

 鬼灯が、やっぱり、と言いたげに肩をすくめる。慧四郎が剣呑な顔をして、口を開きかけた時、部屋の前で足音が止まった。

「・・・八雲殿、入っても、よろしいでしょうか」

 遠慮がちに、声がかけられる。

「義姉上!?」

 螢火が、さっと襖を開ける。八雲は慌てて居ずまいを正し、入ってきた義姉、小春(こはる)に頭を下げた。

「申し訳ありません。こちらから、出向くべきところを」

「いいえ、わたくしが、押しかけたのです」

 小春は、頭を上げた八雲の顔を見て、ほうっと息をつき、微笑んだ。

 甥がまだ起き出した頃かと思い、もうしばらくしたら、顔を出すつもりでいた。間違えた―――と八雲は思った。

 義姉の目は、少し潤んでいた。夫を亡くし、もしや、義弟(おとうと)まで・・・と心を痛めていたであろうことは、想像に難くない。早々に、顔を見せるべきだった。

「戻りました。義姉上にも、ご心配をおかけ致しました」

「お帰りなさいませ。ご無事で、ようございました」

 安堵の表情で、小春は優しく続けた。

「後で、竜樹(たつき)にも、顔を見せてやってくださいね」

「はい」


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