餞別
夜明けにはまだ早い、暗闇の中、八雲は祠を目指していた。また来い、と言われていたこともあり、帰る時にも挨拶に行かねばと、思っていたのだ。
出てきてくれるのだろうか、という心配は無用で、祠に着くと、神はすでに、屋根の上で足を組んでいた。白い面と狩衣が、ぼんやりと浮かび上がって、恐ろしげに見える。煌く獣の瞳が、八雲をとらえるなり、稲荷は尋ねた。
「行くか」
「はい」
「我らが姫は、悲しむな」
我らが姫。付喪神たちも時折、篝を指して、そう呼んだ。
「・・・申し訳ありません」
謝罪には何も返さず、稲荷は軽く右手を掲げた。人差し指の尖った爪先に、ぽうっと青白い火が灯る。八雲は数回瞬いた。もう、少々のことでは驚かなくなっていた。稲荷が、羽虫でも払うかのように、軽く手を振る。仄かな神火は、生き物のごとく、ゆうらりと飛んで、八雲の傍らに漂う。
「足元が心許なかろう。森を出るまで、貸してやる」
「ありがとうございます」
稲荷が、笑みを浮かべるのがわかった。
(蒼い焔・・・)
ふわふわと浮かぶ火の玉を見ていると、腕輪を掲げる篝の横顔が、思い出された。
八雲は礼と出立の挨拶を込めて、稲荷に頭を下げる。再び顔を上げた時には、金色の神の姿はなかった。
祠に背を向け、川の音が聞こえる方向へ、歩き始める。川沿いに下って行けば、見知った場所へ出られるだろう。道なき道へと、足を踏み入れる直前、八雲は村を振り返った。
そして今度こそ、息を呑んだ。
ひと際太い、椚の大樹。その根本に、祠がない。木々に見え隠れしていた、何軒かの萱葺き屋根の影も、ない。それどころか、開けていたはずの場所には、前方と同じように、草木が生い茂っている。
村が、消えていた。
―――今は、存在しないことになってるしね。
「そういうことか・・・」
手当てされた傷跡と、傍らにたゆたう焔が、夢ではないぞと、告げている。
狐につままれるとは、このことだ。
焔が瞬く。稲荷の、にやりと笑う顔が、見えた気がした。




