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「―――で、どうするんだ結局」
警邏に出る前の友人の物問いたげな視線を思い出し、フィレイは目線を下げた。
彼が言いたいことはわかっていたが、これ以上どうしたらいいのかフィレイにもわからなかった。
あの後我に返ったフィレイは気にしていないことをリネットに告げたが、咽び泣くリネットは首を振るだけだった。純粋で潔癖なところがある彼女だから、自分で自分のことが許せないのだとフィレイにもわかった。それは元はフィレイのせいだが、今やフィレイとは遠い彼女自身の問題となり、フィレイには手が出せない場所まで離れてしまった。おそらく彼女は彼女自身が納得しない限り、フィレイの手をとることはないのだろう。フィレイがどれほど言葉を重ねたとしても、閉じてしまったリネットの心には届かない。届いたところでリネットを更に追いつめる。何の役にも立たない己が不甲斐なく、フィレイもまた自身に失望していた。
「どっちも真面目すぎだろう……」
憂鬱を滲ませたデイリオの言葉にフィレイは苦い笑みを零す。
―――いつか時間が経ったなら、お互いに己を許せる日がくるだろうか。
その時は別の誰かが彼女の隣にいるのかもしれないけれど。
胸に走る痛みに息が乱れる。強く握りしめた拳でひとつ、フィレイは己の胸を叩いた。
「副隊長、何か気になることがありました?」
「…いや、なんでもない」
欲しいと願う今では届かない、いつかに想いを馳せて一歩を踏み出す。
どれほど悔しく思っても、伝わらない想いならば意味がない。
先ずは今ある一歩からと意識を切り替え、フィレイは日常の風景に戻っていった。
□
「いい加減にしなさいよリネット!」
「ニーナこそ、いい加減で自分の仕事に戻ったらどうですか?」
「私は黒猫マスコットの納品に来たの!リネットが間に合わないって言った分を手伝ってあげたんでしょう?!」
「それなら仕事の一環ですね。ありがとうございました。お礼は後日。今日はもうすぐ焼きあがり時間になりますのでお引き取りください」
「可愛くなーい!!」
がなるニーナを置き捨てて、リネットは棚を整理する。時間になれば靴下猫の形のパンが並べられる棚は今は予告を書いた紙が乗るだけだ。新しいパンの焼きあがりまでもう少し。あがればパンを並べて呼び込みをする、リネットの日常がまた始まる。
「何でそんなに頑固なの!どうせ正直になったなら、それでも好きだって素直になったらいいじゃない!
向こうは受け止めるって言ってるのに、開き直って何が悪いの?!」
「仕事に差し支える話をするならでていってもらいますよニーナ!」
実に率直で我儘な意見が胸に突き刺さり、リネットは思わず声をあげた。
そんなこと、簡単にできれば苦労していない。
リネットにとって彼が許してくれるからといってほいほい戻れるようなものではないのだ。
あまり騒いで両親に聞かれるようなことがあれば出入り禁止にするとリネットが睨むと、憤慨したニーナは「あの男も最後の最後で押しが弱いのよ!」と最後には年上に対するものとは思えない言葉で彼をも一緒に貶めた。
ニーナはリネットの1つ年上にも関わらず、色々と自由すぎて困ってしまう。
自分を大事に思ってくれていることは有難いが、リネットの譲れない部分を無理やり壊してでも押し通そうとするところは手に余る。
目を伏せると思った以上に視界が狭まり、リネットは改めて瞼の重さに気がついた。朝は驚くほど腫れていて人前にでられる状態ではなかったものを、必死で冷やしてここまで回復させた。普通と呼べる範囲になったと思っていたが、単なる相対比較だったのかもしれない。
内心の溜息を押し殺したところで、カラン、と小さくカウベルが鳴った。
見れば近所に住む少年が仏頂面で顔を覗かせていた。店の中の2人に気づき、主にカウンター前に立つニーナを見つけて、げっと小さく呟いた。
「ライド、焼き立てパンの時間はまだですよ」
目線を合わせるためにしゃがみ込んだリネットが教えると、ライドは唇を尖らせ首肯した。リネットに合図し耳元に唇を近付ける。
「わかってる。…そうじゃなくて、その、靴下猫のマスコット、なんだけど」
「何よライド、あんたもう学校行き始めたのにまだマスコットが欲しいの?この間、こんな子供だまし喜ぶかよ、なんて生意気言ってなかったっけ?」
「ニーナ」
ライドの呟きは小さかったがニーナには聞こえていたらしい。揶揄する口調にライドは嫌な顔を隠さない。ほんのり赤くなっているのは子供のプライド故だろう。
「るっさいなぁ、この店はニーナの店じゃないだろ、俺が用があるのはリネットなんだから、とっとと出てけよ!」
「やっぱり生意気!女に優しくできない男はろくな男にならないわよ」
「そっちこそ、生意気な女は嫁の貰い手がないんだぞ!」
「誰の貰い手がないのよっ知らないだろうけどあたし程引く手数多な女はいないのよ?!」
同レベルで言い争いを始める2人にリネットは頭痛を堪える。激しいケンカに発展しそうな2人をどう宥めようか悩んだところで、香り高い焼き立てパンと共にリネットの母が顔を出した。
「あらいらっしゃい。2人とも鼻がいいのねぇ」
大福のような丸い顔でころころと笑う彼女に毒気を抜かれ、2人の口が停止する。
慌ててリネットがパンを受け取るのに首をふり、彼女はリネットに呼びかけた。
「リネット、この間頼んだ猫の修復終わってたかしら?」
「え?」
「ほら、白足の部分が汚れてしまったマスコット。直せるかしらって相談したでしょう?」
「ああ……そういえばまだでした」
思いだすのは数日前。キャンペーンであたりがでたらもらえるマスコットの特徴である白い足が汚れたものをリネットは母に渡された。汚れた水に落としでもしたのか、実は全体的に汚れていたのだが、あまり目立たなかった黒い部分よりグレイに染まった白い部分の汚れがより目立った。とりあえず白足部分だけでも直せないかと頼まれていたのだが、このところ頭の痛い問題が多くて手を付けることができないでいた。こうなったらむしろ新しいものを渡した方がいいのではとも思っていたのだが。
「そう。ライド、ごめんなさいね、もう少し待ってもらっていいかしら?」
リネットの答えを聞いて、母がライドに向き直る。それで漸くライドの言葉がリネットの中で繋がった。
「あの、どうせなら新しいもの用意しますよ?」
「あー、……ううん、それはいいや」
「何遠慮してんの?子どもなんだからここは素直にもらっておきなさいよ」
「ニーナはちょっと黙っててくださいね」
横から口を挟まずにはいられないらしいニーナをさくっと刺して、リネットはもう一度ライドに提案する。
再び首を振ったライドに、リネットは首を傾げる。ニーナがいるせいかと思って目配せするが、ライドは益々拗ねたような表情になる。
「そうじゃなくて…その、直さなくていいから、返してもらいにきたんだ」
「え、どうして?」
「遠慮した子供って可愛くなーい」
「いい加減叩き出しますよニーナ」
べーと舌を出しあう2人の幼い仕草にリネットが割って入る。
「……俺だって新しい方がいいんじゃないかと思うんだけど、それでいいってばーちゃんが言うから」
「……ライドのおばあちゃんが?」
「俺が当ててばーちゃんにあげたやつだから、それがいいんだって。汚れてたって洗えばいいし、直すならばーちゃんが直すから、もらってこいって」
「……そう」
「汚れてもほつれても構わないんだってさ。せっかくうちに幸せを運ぶ猫がきたんだからって……よくわかんないけどさ、だから返してもらいにきたんだよ」
別に俺、要らなかったからあげただけなんだけど、と。
赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いて続けるライドに3人の表情が緩んだ。
ライドの祖母の気持ちとライドの気持ちが暖かくて、嬉しくなって笑顔が零れる。
「……わかった。今持ってくるね」
自然と柔らかな口調になるのを止められない。
部屋から戻ったリネットがライドに渡した少し汚い黒猫が、優しく笑っているような気がした。
ぶっきらぼうに受け取って店を飛び出していったライドを見送りながら、ニーナが小さな声で呟く。
「……誰かさんも同じこと言いたいんじゃないかと思うよ」
汚れても、みすぼらしくても、必要なのは替えの利かないたったひとつ。
相応しいとかそうでないとか、そんなことより譲ることのできない想い。
ぽん、と頭を撫でた母の手に胸が詰まって、リネットは胸元を握りしめた。
「―――あれ、何かあった?」
急に騒がしさを増した通りの様子に気づき、ニーナが店の扉を開ける。
ばたばたと続く駆けていく足音と届いてくる誰かの声。焦りを滲ませた音がリネットの胸騒ぎを呼ぶ。
―――子供が。
ひったくりか?
刃物だって?
騎士が庇って…
漏れ聞こえた言葉に、知らずリネットは店を飛び出した。