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5話くらいで終わります。
国境の村の諍いに端を発した戦はやがて終わりを向かえ、彼の騎士は戦場から戻ってきた。
街では騎士の無事を知り、一人の娘が涙した。
帰還し少女の涙を目にした騎士に、瞳潤ませ娘は告げる。
生きて戻ってきてくれて、本当に良かった。
「それだけで私は幸せです」
ありがとう。
ほろりと頬を伝った雫に騎士は感極まり、突き上げる衝動を必死で堪えた。
幸せだと告げる少女の想いに満たされ、言葉にならない想いを噛み締めた。
―――それが至上最悪に厄介な代物だったと気づいたのは、不穏だった空気が収まり日々の落ち着きを取り戻し始めた頃だった。
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「いらっしゃいませー!焼き立て工房プレジール、只今靴下猫キャンペーン中でーす!」
3時の鐘が鳴り響く中、焼き立てパンの香ばしい匂いに乗って明るい声が通りに響く。朝に続く2回目の焼き立て時間を見計らっていた周囲を見渡し、人懐っこい笑顔を全開に少女は高く手をあげて弾むような声音で呼び込みの声をあげた。
「リネット、もう焼きたて時間?」
「はい!本日の第二弾は靴下猫のパンからですよ!ミルフィにひとつどうですか?」
「そうねーこの間のはくじに外れてあの子が拗ねて大変だったんだけど…今度は当たるかしらね」
「当たりますよきっと!なんたって増量キャンペーン中ですから!」
「あはは、増量中なの?」
「勿論!世界中にパンという名の幸せを配るのがプレジールの野望です!」
元気な受け答えに笑いを誘われ、1人2人と客が店へと入っていく。早速店の中で嬉しい悲鳴を上げる母親の様子を確認しつつ、リネットは小柄な体にいっぱいの元気を湛え更に呼び込みを重ねる。大きな呼びかけついでに、ぴょん、と飛び跳ねた姿を目に留めて、通りかかった警邏の騎士がリネットへと足をむけた。一瞬の間の後に、ぺこりとリネットは彼に向って頭を下げた。茶目ッ気をたっぷり含んだ仕草で「いらっしゃいませ!」と声をあげると、後ろでひとつに結んだ彼女の髪が追いかけた。
「どうも。訊いてもいいかな、靴下猫って童話の?キャンペーンって何してるんだ?」
常連以外の疑問を代表したかのような問いかけにリネットはにっこり笑った。
「はい!この時間だけ、幸せを運ぶ靴下猫のお話に準えて限定パン出しているんです。当たりが出るとこのマスコットがついてきます!」
「へぇ、おみくじパンってこと?」
「そうなんです。本当の幸せはすぐ傍に、って意味で。……戦が身近になってから、皆改めて家族とか友達とか、大切だって実感したと思うのです。忘れちゃいけないものをもう一度大切にするためのきっかけになったらいいなと思いまして」
靴下猫とは、誰もが幼い頃に絵本で読んだ覚えがあるだろう子供向けの童話のひとつ。両親を亡くした子供が、昔母親が編んでくれた靴下を失くし、母と靴下を求めて飼い猫と旅をする話だ。
猫と一緒に様々な冒険を重ねた少年は、靴下は見つけることができるが亡くなった母に会うことはできない。そしてやっとの思いで見つけた靴下も成長した彼にはもう履くことはできなくなってしまっていた。
けれど少年は、最後に出会った魔法使いに教えられたもうひとつの靴下、―――少年と旅をした黒猫の、まるで靴下を履いてるかのような白い足を見つけて気付くのだ。
大切なものはずっと自分の傍らにあったこと。いつも隣に変わらずそこにあったこと。時を重ね、様々な試練を乗り越えて、自分が強く大きくなれたのは、両親の他にもいた大切な存在があったからなのだということに。
このところ続いていた不安定な世情に童話を重ね、改めて前を向こうと呼びかける。
リネットの前向きな発言と眼差しに、騎士も表情を改めた。
「ああ、……うん、なるほど、だから黒猫のマスコットなんだな。お、しかも足元が白い。芸が細かいなー」
「あは、ありがとうございま…」
しみじみとした空気を柔らかく受け止められ、褒められたことに気を良くし上機嫌で応えようとしたリネットだったが、上から覗きこむようにしていた彼の頭を後ろからがっと掴む手に気付いて言葉を止めた。
続いて見知った顔が妙に迫力あるオーラを纏って低い声を響かせる。
「……騎士が一般市民に上から威圧感を与えるような真似したらいかんだろう?」
「えっ?!そんなつもりは……ふ、副隊長…いたっちょ、力つよっ」
「いいからほらさっさと離れろ」
距離が近い、とは最早呟きに近い音量で周囲に拾われることなく喧騒に紛れる。
リネットのすぐそばまで顔を近づけていた騎士の頭をぺい、と捨てた相手が、やや不機嫌そうな表情でリネットへと視線を遣った。無造作に放られた彼と同じ型の騎士の制服。胸の脇にワンポイントで緑色のピンがつけられているのが副隊長の印。
彼は一旦何かを伝えようとしてぱっと一瞬開いた口を、迷った様子ですぐ閉じた。ぱちくりと瞬く少女に、若干の不機嫌さを滲ませたぶっきらぼうな声音で呼びかける。
「…久しぶり、リネット」
「こんにちはフィレイさん。このところ忙しそうでしたけどお体大丈夫ですか?」
こほん、とひとつ咳払いしたフィレイにすぐさまリネットが笑顔を作る。邪気のないそれに、フィレイは少しほっとした様子で固かった表情を和らげた。ほんのりと頬を赤く染めフィレイはリネットに向き直る。
「……ああ、元々これといった怪我もなかったからな。事後処理に手間取ってなかなか顔を出せなかっただけだ。その、すぐに連絡できなくて悪かった」
「いいえ、良かったです。体が資本ですから、お体大切にしてくださいね」
「ああ、ありがとう。ところでその……今日の夜は忙しいか?話したいことがあるんだが」
フィレイの声が軽く緊張を孕むものへと変わったが、気付かぬ様子でリネットは簡単に首を捻る。
「そうですね、有難いことに靴下猫キャンペーンがなかなか好評なので、夜はマスコットを作っています」
「そ、そうか…、それは喜ばしいな。じゃあその、明日はどうだ?」
「うーん、明日もキャンペーンがあるので難しいです。最近、配達なんかも始めようかと計画しているので準備に追われているのです」
「そうなのか?……もしかして何かあったのか?」
「あ、変な理由じゃないですよ、大丈夫。配達はご近所のお年寄りの方とか中心に考えているのです。体がなかなか自由にならない場合、店まで足を運ぶのが大変ですから」
「……リネットらしいな」
ふっと表情を和らげたフィレイにリネットは苦笑する。
「まだ実現できるかわかりませんよ。問題はいっぱいです」
「いっぱいか」
「いっぱいです」
配達時間とか、人件費とか、値段だとか、まだまだ検討段階で実現には程遠い。
具体例を色々とあげるリネットにフィレイはひとつひとつ相槌をうって応える。
「それでもリネットならばなんとかしてしまうような気がするが」
「……それは買い被りというものです」
そうかな、と呟いたフィレイにリネットが小さく笑った。
そうですよ、と続けたリネットが大きく息を吸って吐く。継いで改めてリネットから真っ直ぐな眼差しを向けられて、フィレイは言葉を詰まらせながら再度願い出た。
「…わかった。けれどリネット、近いうちに、少しでいいから私にも時間をくれないか?」
「フィレイさん」
「話さねばならないだろう、これからのことを、色々と」
フィレイがリネットを真っ直ぐに見つめる眼差しは真剣で、知らず居合わせた人間の緊張を齎した。
ある種の色が見え隠れする言動が深読みを誘い、周囲にどこかしらそわそわとした空気を漂わせる。
言葉をさし挟むことが難しい空気は、通りの喧騒がここだけ止んでしまったような錯覚を起こさせる。
時間ならば都合をつける、と加えるフィレイに、リネットは「うーん」と曖昧に首を傾げる。
執着心と呼べる何かが見える彼に対して、妙にさっぱりしている彼女。
向き合う2人を間近で観察していた人々は、見守る2人の温度差に内心で首を傾げた。
「あの、フィレイさん」
「ああ」
「今私凄く幸せなのです」
「え……、ああ、そ、そうか」
発したリネットの言葉は唐突だったが何を思ってかフィレイは途端に赤くなる。
誤魔化すよう口元を覆ったフィレイにリネットは満面の笑みを浮かべて頷いた。
微笑ましいはずのやりとりに何故か違和感を拭えぬ周囲の前で、リネットが高らかに宣言する。
「はい。だから私は大丈夫です」
「……うん?」
「今がとっても幸せですので」
「ええと?」
「はい。なので、私のことは気にせずに」
「リネ……」
「フィレイさんもお幸せに!」
「…………」
「フィレイさんは絶対幸せになりますよ!私が保証しますから!」
「……………………」
大丈夫です!と胸を張って駄目押しして、リネットは胸に拳をあてる。
騎士の令を真似て頭を下げ、「失礼します」と告げて店へと戻った後ろ姿は非常に颯爽としていた。
ただし取り残された周囲と彼に降りたのは初夏の風ではなく真冬のような凍てつく沈黙。
置いて行かれた騎士の顔から眼を逸らし、1人2人と囲っていた人々がそっと彼の傍を離れる。
取り残された1人の騎士を、言葉もない仲間が遠巻きに眺めていた。