その婚約破棄、根拠が三箇所おかしゅうございます
「イーディス・アシュフォード! 貴様の所業、もはや看過できぬ!」
大広間に、王太子ラウレンツ殿下の声が響き渡る。
わたくしは壁際で、干しぶどうの入った焼き菓子を口に運ぼうとしていた。運ぼうとして、止まった。
「先月十二日、貴様は侍女のマルタを扇で打ち据えた! 頬に痣が残るほどにな! 侯爵令嬢が使用人に手を上げるなど、王太子妃たる者の風上にも置けぬ!」
正面に立たされているのは、アシュフォード侯爵令嬢イーディス様。18歳。銀髪を高く結い上げ、背筋を伸ばし、まばたきひとつしない。
彼女は、何も言わなかった。
弁明もせず、涙も見せず、ただ殿下を見ている。周囲の貴族たちが、ひそひそと囁き交わす。
――さっさと謝ればよろしいのに。
――やはり氷の令嬢と呼ばれるだけのことは。
わたくしは焼き菓子を皿に戻した。
戻して、口が勝手に動いた。
「恐れながら、殿下」
大広間の視線が、いっせいにこちらへ向く。
「その告発、根拠が三箇所おかしゅうございます」
◇
わたくしはロゼリア・ヴァレンティ。ヴァレンティ伯爵家の次女で、17歳。
そして、前世の記憶がある。
前世のわたくしは、都心から電車で一時間の会社で働く、ごく普通の会社員だった。所属は苦情処理課。要するに、怒っているお客様の電話を延々と受ける部署にいた。
三年目からは、社内の稟議書の事前確認も任されるようになった。数字の合わない申請書、根拠資料のない見積り、辻褄の合わない経緯報告。そういうものを、一日に十数件ずつ潰していく。それがわたくしの仕事だった。
苦情処理課の三年で身についたものが、ひとつある。人の話には必ず穴があり、穴は感情ではなく事実の側にある、という感覚。声を荒らげる相手ほど、日付と伝聞の出どころが曖昧になる。そこを静かに埋めていけば、たいていの怒りは形を失う。憎まれ役ではあったけれど、嫌いな仕事ではなかった。
死んだ理由は覚えていない。気がついたら、この世界の赤ん坊になっていた。
転生と気づいたのは五歳の頃。それからの十二年で、わたくしは自分についてひとつ確信を得ている。
――前世の癖は、抜けない。
つじつまの合わない話を聞くと、頭が勝手に動きはじめる。日付を照合し、証言の出どころを追い、「それは誰がいつ確認したのか」を数え上げる。止まらない。止められない。息を吸うのと同じくらい自動的に、わたくしの頭は穴を探してしまう。
だから、殿下の告発を聞いた瞬間、わたくしはもう終わっていた。
「三箇所、と申したか」
殿下が、こちらを見据える。
19歳。金の髪と青い目。姿は絵から抜け出たようで、実際、この国の令嬢の半分は殿下に憧れている。
残り半分は、殿下の話を一度でも最後まで聞いた者たちだ。
「はい。まず一点目。先月十二日と仰いましたが、その日、イーディス様は王都におられません」
「なんだと」
「十二日はアシュフォード侯爵家の領地祭でございます。侯爵家のご令嬢は、毎年必ず出席なさいます。王都から馬車で二日。往復を含めれば五日は空きます。殿下は、十二日に王都のどこでイーディス様が扇を振るったと仰るのですか」
殿下の口が、半分開いたまま止まった。
「二点目。侍女マルタの痣でございますが、わたくしは先週、そのマルタと厨房で顔を合わせております。痣は左頬にございました」
「ならば――」
「イーディス様は左利きでいらっしゃいます」
大広間が、ざわめく。
「左の手で正面から打てば、当たるのは相手の右頬でございます。左頬に痣をつけるには、手の甲で逆に振り抜くか、背後へ回り込む必要がございます。侯爵令嬢がそのような曲芸をなさいますかしら」
わたくしの口は、まだ止まらない。
「三点目。これが一番の問題でございます」
一歩前に出た。
「殿下は今、『頬に痣が残るほどに』と仰いました。痣が残るほど、と。――殿下は、マルタの痣を直接ご覧になりましたか」
「……いや」
「では、どなたからお聞きに」
殿下は答えない。答えないというより、答えを持っていない顔をしている。
「誰から聞いたかも定かでない話を、200人の前で告発なさったのですか」
沈黙が、大広間に降りた。
そこで、ようやく我に返る。
200人が、わたくしを見ている。壇上の王太子も、断罪されていたご令嬢も、給仕の少年まで、全員がこちらを向いている。
――しまった。
また、やってしまった。
◇
帰りの馬車で、わたくしは両手に顔を埋めていた。車輪が石畳を叩く音が、頭の芯に響く。
「なぜ、わたくしは黙っていられないのかしら」
御者に聞こえないよう、小声で呻く。
理由はわかっている。前世の癖だ。そして、わたくしは今、自分の性分のせいで、自分の人生を壊しかけている。
事情を説明する。
わたくしには、婚約を望んでいる相手がいる。
セオドア・アシュフォード。アシュフォード侯爵家の長男で、22歳。王城で文官をしている。
背は高くない。顔立ちは地味。社交界では「アシュフォードの兄君は影が薄い」と言われている。舞踏会では壁際にいて、誰かと話すときは必ず一度うなずいてから口を開く。
わたくしは、あの人が好きだ。
好きになった日のことも覚えている。二年前の夜会で、わたくしは酔った子爵に絡まれていた。助けてくれる人は誰もいなかった。そこへセオドア様が来て、こう言った。
「子爵。今夜の招待状の同伴者欄に、ヴァレンティ嬢のお名前はございません。あなたが彼女を同伴と主張なさるなら、書式上の不備になります。主催者に確認いたしましょうか」
子爵は、逃げた。
わたくしは、恋に落ちた。
書類で人を救う男に、前世が苦情処理課の女が惚れないわけがない。
◇
問題は、両家の縁談の条件にある。
ヴァレンティ家は伯爵家。アシュフォード家は侯爵家。本来なら釣り合わない。この縁談が成立しかけているのは、ひとえに「アシュフォード家が王家と縁づくから」に尽きる。
イーディス様が王太子妃になる。アシュフォード家は王家の外戚となる。外戚となれば、次男以下や傍系の縁組で家の格を広げる必要が出てくる。そこに、財はあるが格の足りないヴァレンティ家が滑り込む。
父はそう説明した。冷たい話に聞こえるかもしれないが、貴族の縁組とはそういうものだ。
つまり。
イーディス様の婚約が破棄されれば、アシュフォード家は王家の外戚になり損ね、下手をすれば失脚する。その瞬間、わたくしとセオドア様の縁談は消えてなくなる。
わたくしがイーディス様を守らねばならない理由は、そこにある。
利他的な話ではない。徹頭徹尾、自分のためだ。
「……とはいえ」
馬車の窓に額を押しつけて、わたくしは呟いた。
「あんな形で守るつもりは、なかったのですけれど」
◇
三日後、セオドア様から茶会の誘いが届いた。
アシュフォード邸の東屋。向かい合って座り、彼は一度うなずいてから口を開いた。
「ヴァレンティ嬢。先日は、妹を助けていただき、ありがとうございました」
「いえ。差し出がましい真似を」
「差し出がましくはありません。左利きの件、私も気づいておりませんでした」
セオドア様は茶を一口飲んだ。飲んでから、また一度うなずく。
「あなたは、あの場で三点を挙げた。日付、利き手、伝聞。どれも確認可能な事実だけです。感情論を一切使っていない」
「……お恥ずかしい限りです」
「なぜ」
「淑女が200人の前で、王太子殿下に反論するなど」
「妹は、反論しません」
セオドア様の目が、庭のほうを向いた。
「あれは、王家の婚約者が公の場で殿下に言い返すのは礼を失すると考えています。父もそう教えました。……正しいのだと思います。ですが」
一度、うなずく。
「正しさは、あれを守ってくれない」
わたくしは、何も言えなかった。
「ヴァレンティ嬢。ひとつうかがいます」
「はい」
「あなたは、また同じことをしますか」
わたくしは、正直に答えた。
「たぶん、いたします」
「なぜ」
「口が勝手に動きますので」
セオドア様が、一瞬、目を見開いた。
それから、笑う。
目尻に皺が寄って、口の端だけが上がる、控えめな笑い方。わたくしは、この顔を見るために生きていてもいいと思っている。
◇
二度目は、その月の終わりにやってきた。
王城の中庭。40人ほどの茶会の席で、殿下が立ち上がった。
「イーディス。貴様、私の手紙を破り捨てたそうだな」
イーディス様は、いつものように黙っている。
殿下は懐から、破れた紙片を取り出した。
「これだ。私が先週送った手紙。庭の池に浮いていたのを、侍女が拾った。――貴様は、私の言葉をこの程度のものと思っているのだな」
ざわめきが起きる。
わたくしは紅茶のカップを置いた。置く音が、思ったより大きく鳴った。
「殿下。恐れながら」
「……またそなたか」
「その紙片、拝見してもよろしゅうございますか」
殿下は渋々といった様子で、紙片を差し出した。わたくしは光にかざす。
「殿下。この紙は、二つに引き裂かれております」
「見ればわかる」
「裂け目をご覧ください。まっすぐでございます。繊維が一直線に切れている」
「だから何だ」
「紙を手で裂けば、裂け目は必ず波打ちます。これは刃物でございます。鋏か、あるいは紙切り小刀」
殿下の眉が、寄った。
「怒りにまかせて破り捨てた者が、わざわざ鋏を取りに行きますかしら」
「……偶然、手元にあったのかもしれん」
「では二点目。この紙は水に濡れております」
「池に浮いていたのだから当然だ」
「濡れておりますのに、インクが滲んでおりません」
わたくしは紙片を裏返した。
「殿下の手紙のインクは、王室御用達の鉄胆インクでございますね。あれは水に弱い。池に一晩浮いていれば、文字は溶けて読めなくなります。この紙片は、くっきり読めます」
「……つまり」
「池に入れられたのは、ごく最近。おそらく拾われる直前でございます。誰かが濡らして、浮かべた」
大庭園が、静まりかえった。
「三点目。この紙の縁に、金箔の押し跡がございます」
わたくしは紙片を指で示した。
「王室の便箋は、縁に金箔を押します。ですがこの跡は、便箋の縁ではなく、紙の真ん中にございます」
「どういうことだ」
「大きな紙から、切り出されているということです。つまり――この紙片は、殿下の手紙そのものではございません。殿下の手紙と同じ便箋を、別に用意した何者かが、切って、濡らして、池に浮かべたのでございます」
殿下は、紙片を凝視していた。
そして、顔を上げた。
「――そなた」
来る、とわたくしは思った。不敬だと言われる。処罰される。それでも仕方がない。口が勝手に動くのだから。
殿下は、目を輝かせていた。
「そなた、名は」
「……ロゼリア・ヴァレンティにございます」
「ロゼリア」
殿下は、わたくしの手を取った。
「見事だ! 実に見事だ! 私はこれまで、これほど聡明な令嬢に会ったことがない!」
わたくしは、自分の血の気が引いていくのを感じた。
まずい。
これは、非常にまずい。
◇
イーディス様と初めて言葉を交わしたのは、その茶会の帰りだった。
回廊で追いつかれた。振り返ると、彼女が立っている。
「ヴァレンティ嬢」
近くで見ると、思ったより小柄な方だった。氷の令嬢と呼ばれる顔立ちは、単に表情の動かし方を知らないだけのように見える。
「お礼を申し上げるべきなのでしょうね」
「……いえ」
「けれど、申し上げません」
わたくしは、面食らった。
「あなたは、わたくしのために動いたのではないでしょう」
「……はい」
正直に答えた。この方に嘘は通じない気がしたので。
「わたくしは、兄との縁談のために動いております」
「知っております」
イーディス様は、まばたきをした。
「だから、礼は申しません。取引にお礼は不要です。――ですが、ひとつだけうかがいたいことがございます」
「なんでしょう」
「あなたは、なぜ弁明なさらないのかと、思っていらっしゃるでしょう」
図星だったので、黙った。
「王家の婚約者が、公の場で王太子に言い返す。その姿を、貴族たちが見る。すると何が起こると思われますか」
「……殿下の権威が、傷つきます」
「そうです」
イーディス様は、窓の外を見た。
「あの方は、まだ19です。頭は、よくありません。人の話を鵜呑みになさいます。詰めが甘く、思い込みが強い。それはそのとおりです」
「……はい」
「けれど、あの方はいずれ王になります」
彼女の声は、平坦なままだった。
「婚約者に公衆の面前で恥をかかされる王太子。その評判は、一生消えません。わたくしが一度反論すれば、わたくしは救われます。代わりに、あの方は10年分の信を失います」
わたくしは、言葉を失っていた。
この人は、弁明できないのではない。
しないことを選んでいる。
「ですから、ヴァレンティ嬢」
イーディス様が、こちらを向いた。
「あなたが代わりに言ってくださるのは、正直、助かっております」
「……あの、それはつまり」
「あなたは他家の令嬢ですから、いくら論破なさっても、それは『賢い娘が出しゃばった』で済みます。わたくしがやれば、『王太子は妻に言い負かされる男』になります」
イーディス様は、軽く礼をした。
「都合よく使わせていただいております。お互い様ということで」
そう言って、去っていった。
わたくしは回廊に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
――この方、氷の令嬢などではない。
とんでもない食わせ者だ。
それにしても、と回廊の窓に手をかけながら考える。あの方は三年、自分が損をする側に立ち続けている。誰にも言わず、誰にも褒められず、王太子の体面という一点だけを守って。
わたくしなら、できない。三日で誰かに愚痴をこぼす。
――だから、あの方が妃になるべきなのだわ。
自分の縁談のために動いているつもりが、いつの間にか別の理屈が混ざりはじめている。それに気づいて、わたくしは少し慌てた。
◇
三度目は、二ヶ月後に来た。
しかも、今度は本物だった。
殿下が倒れたのだ。晩餐の席で、茶を飲んだ直後に。医師の見立ては、毒。量は致死量に届かず、三日で回復なさったものの、王城は上を下への騒ぎになる。
そして、その茶を殿下に手渡したのが、イーディス様だった。
大広間に集められたのは、300人。
今度は国王陛下も臨席しておられる。壇上の殿下は、まだ顔色が悪い。
「イーディス・アシュフォード」
殿下の声は、これまでのどれより低かった。
「私はそなたを疑いたくない。だが、証言が揃っている。侍女頭ベアトリスの証言によれば、そなたはあの夜、厨房に立ち入っている。給仕の少年も、そなたが茶器に触れるのを見ている」
イーディス様は、立っていた。
いつも通り、何も言わずに。
わたくしは、大広間の後方にいた。
隣にセオドア様が立っている。彼の手が、拳を握って白くなっているのが見えた。
――言うべきか。
今回は、これまでと違う。毒殺未遂だ。ここで論破すれば、殿下はまた「見事だ」と叫ぶだろう。そして、たぶん次に何を言うかも、わたくしにはもう見当がついている。
黙っていれば。
イーディス様は廃され、アシュフォード家は失脚する。セオドア様との縁談も消える。
言えば。
イーディス様は救われる。アシュフォード家は残る。そして、殿下はわたくしを妃にと言い出す。
どちらに転んでも、わたくしはセオドア様と結婚できない。
「ヴァレンティ嬢」
隣で、セオドア様が小声で言った。
「言わなくていい」
「え」
「あなたが何を天秤にかけているか、わかります」
彼は、正面を見たまま続けた。
「妹は、自分で選んでそこに立っています。あなたが背負うことではない」
わたくしは、自分の手を見る。
震えている。
前世で、わたくしは何千件の苦情を処理しただろう。何百枚の稟議書を突き返しただろう。そのどれも、わたくし自身の人生とは関係のない紙切れだった。
今、目の前にあるのは、自分の人生だ。
黙っていれば、誰にも責められない。わたくしは他家の娘で、証拠を集める義務もなく、そもそも今日ここへは母に連れられて来ただけ。一言も発さずに帰っても、明日からの暮らしは何ひとつ変わらない。
変わらないまま、あの銀髪の人が廃される。
「――申し訳ございません、セオドア様」
「?」
「たぶん、口が勝手に動きます」
わたくしは、一歩前に出た。
◇
「恐れながら、陛下。殿下。発言をお許しください」
300人の視線が集まる。
「ヴァレンティ伯爵家次女、ロゼリアと申します。証言について、三点、確認させていただきたく存じます」
国王陛下が、片手を上げた。
「許す」
「ありがとうございます」
わたくしは息を吸った。
「まず一点目。侍女頭ベアトリス様の証言について。イーディス様が厨房に立ち入られたのは、何刻のことでございましょう」
壇の脇に控えていた侍女頭が、進み出る。50がらみの、姿勢のいい女性。
「晩餐の半刻前にございます」
「その際、イーディス様はお一人でしたか」
「はい。お一人で」
「では二点目」
わたくしは、懐から一枚の紙を取り出した。
「こちらは、王城厨房の入退室記録でございます。写しを、昨日いただいてまいりました」
ざわめきが起きる。
「王城の厨房は、毒物混入を防ぐため、出入りが記録されます。晩餐の半刻前、厨房に入った者は四名。料理長、下働き二名、そして――侍女頭ベアトリス様」
侍女頭の顔色が、変わった。
「イーディス様のお名前は、記録にございません」
「記録漏れでしょう」
「三点目」
わたくしは、二枚目の紙を出した。
「イーディス様が茶器に触れられたのは事実でございます。給仕の少年の証言どおり。ですが、それは殿下に手渡すためでございます。給仕は茶器を厨房から運び、控えの間で一度、卓に置いておりますわね」
「……それが何か」
「控えの間に、その時間、誰がいたか」
わたくしは顔を上げた。
「侍女頭ベアトリス様。あなたです」
大広間が、爆発したようにざわめいた。
「お待ちなさい! わたくしは――」
「ベアトリス様。ひとつうかがいます」
わたくしは、声を張った。
「最初の告発を覚えていらっしゃいますか。侍女マルタの痣の件。あの話を殿下に伝えたのは、どなたでございましたか」
侍女頭が、言葉に詰まる。
「二度目の、破れた手紙。あれを池から拾い、殿下に届けたのは」
「……」
「三度とも、あなたでございますね」
殿下が、壇上でゆっくりと立ち上がった。
「ベアトリス」
「殿下、これは何かの誤解で」
「そなたは、私の乳母だった」
殿下の声は、震えていた。
「私は、そなたの言うことを、疑ったことがない」
侍女頭は、その場に膝をついた。
言い訳は、ひとつも出てこない。取り調べで明らかになったのは、彼女が第二王子派の貴族から金を受け取っていたという、ごくありふれた筋書きだった。乳母として育てた王太子より、老後の蓄えのほうが重かったということらしい。
◇
問題は、そのあとに起きる。
侍女頭が連行され、大広間の混乱がようやく収まったころ、殿下が壇を降りてきた。
わたくしの前に立つ。
そして、片膝をついた。
300人が、息を呑む。
「ロゼリア・ヴァレンティ」
「……殿下」
「私は、間違っていた。三度も、同じ誤ちを犯した。私はそのたびに、そなたに救われた」
殿下の目は、真剣だった。
真剣なのが、一番まずい。
「私には、そなたが必要だ。そなたのような聡明な女性が隣にいれば、私は二度と過たずに済む」
やめてください、と思った。
「イーディスとの婚約を破棄し、そなたを妃に迎えたい」
大広間が、揺れた。
わたくしは、目の前が暗くなるのを感じた。
来てしまった。一番来てほしくない場所に、一番来てほしくない形で。
ここで断れば、不敬。受ければ、人生が終わる。
そして。
イーディス様の婚約破棄が成立すれば、アシュフォード家は外戚になり損ねる。セオドア様との縁談も、消える。
視界の端に、セオドア様が見えた。
彼は、わたくしを見ていた。何も言わず、ただ、こちらを見ている。
わたくしは、口を開いた。
そして――
閉じた。
「……殿下」
わたくしは、深く礼をした。
「わたくしは、何も申しません」
◇
「なんだと」
「わたくしは、もう何も申し上げません」
殿下が、立ち上がる。
「なぜだ。そなたなら、この場でも何か言えるはずだ。私が間違っているなら、いつものように三点挙げて――」
「三点でも、五点でも、挙げられますとも」
わたくしは、顔を上げた。
「ですが、殿下。そうやって、わたくしが挙げてまいりました結果が、今のこの状況でございます」
「……何が言いたい」
「殿下は三度、告発をなさいました。三度とも、根拠は他人からの伝聞でございました。そして三度とも、それを崩したのは、殿下ご自身ではございません」
大広間は、静まりかえっている。
「わたくしが崩しました。その前は、ベアトリス様が組み立てました。殿下は、一度も、ご自分の頭でお考えになっていない」
「私は――」
「今もでございます」
わたくしは、まっすぐに殿下を見た。
「殿下は今、『ロゼリアが隣にいれば二度と過たずに済む』と仰いました。それは、ベアトリス様を信じきっていらしたのと、まったく同じことでございます。人が変わっただけで、ご自身は何も変わっていらっしゃらない」
殿下の顔が、赤くなり、それから白くなった。
「わたくしを妃にお迎えになれば、殿下は一生、わたくしの指した方角へ歩かれます。それは、国にとって最悪でございます」
「では、どうしろというのだ」
「ご自分でお考えくださいませ」
わたくしは、それだけ言った。
そして、口を閉じた。
◇
沈黙が、どれくらい続いただろう。
体感では十分ほど。実際には、たぶん三分かそこらだと思う。
殿下は、立ち尽くしている。
300人が、王太子の黙り込む姿を見ている。誰も咳ひとつしない。窓の外で、鳥が二度鳴いた。
やがて、殿下が口を開く。
「……ロゼリア」
「はい」
「そなたは今、私が一度も自分で考えていないと言った」
「はい」
「では、考える」
殿下は、目を閉じた。
それから、ゆっくりと開ける。
「一つ。ベアトリスは、三度とも私に告発の材料を持ってきた。私はそれを疑っていない。……なぜ、疑わなかったのか」
殿下の視線が、床をさまよう。
「それは、私が、イーディスを疑いたかったからだ」
大広間が、ざわついた。
「あれは、私に何も言わない。笑いもしない。何を考えているかわからない。私は、それが不安でならなかった。だから――あれが悪い女だという話を、信じたかったのだ」
殿下は、拳を握った。
「二つ。私がそなたを妃に望んだのは、そなたが聡明だからだと思っていた。だが、違う」
「……」
「私は、また、誰かに決めてもらいたかっただけだ」
殿下は、顔を上げた。
「三つ」
そして、イーディス様のほうを向いた。
「イーディス。ひとつ聞きたい」
「はい、殿下」
「私の執務室の書類は、いつも、朝には整理されている。分類され、優先順に積まれ、要点に印がついている。私はずっと、側仕えの誰かがやっているのだと思っていた」
イーディス様の表情が、初めて、わずかに動く。
「あれは、そなたか」
沈黙。
「……はい」
イーディス様の声は、ひどく小さい。
「三年前から。夜のうちに」
「なぜ、言わなかった」
「申し上げれば、殿下は、わたくしに礼を仰るでしょう。礼を仰れば、次からは頼まれます。頼まれれば、わたくしがやるのが当然になります」
彼女は、まっすぐ前を見たまま続ける。
「そうなれば、殿下はいつまでも、書類を読めるようにはなりません」
殿下が、息を呑む。
「……そなたは」
「わたくしは、殿下が嫌いではございません」
イーディス様の声は、相変わらず平坦なまま。
けれど、わたくしには、それが震えているように聞こえた。
「ただ、伝え方を、存じませんでした」
◇
その日、婚約破棄は成立しなかった。
というより、殿下が撤回した。
「先ほどの求婚は、取り下げる。ロゼリア・ヴァレンティ、無礼を詫びる」
そして、イーディス様に向き直った。
「イーディス。私は、そなたと結婚したい。理由を三つ挙げる」
大広間が、静まる。
「一つ。そなたは三年、私に恩を売らずに私を助けた。二つ。そなたは公の場で私に恥をかかせない道を選び続けた。三つ」
殿下は、少し詰まった。
「三つ。今日、そなたの声が震えるのを、私は初めて聞いた」
イーディス様が、わずかに目を伏せる。
耳が、赤い。
三年、夜ごと人の書類を並べ替えていた女が、褒められ慣れていないのは当然かもしれない。わたくしはその光景を後方から眺めて、深く息を吐いた。
隣でセオドア様が、一度うなずいてから言う。
「三点、挙げましたね」
「……ええ」
「あなたの癖が、うつったのでは」
「そうかもしれません」
わたくしは笑う。笑いながら、少しだけ泣いた。
◇
半年後、わたくしはセオドア・アシュフォードと婚約する。
イーディス様の婚約は維持され、アシュフォード家は予定どおり王家の外戚となり、わたくしの家の格も予定どおり釣り合った。全部、最初の計算どおりに収まっている。
収まっているのだけれど、どうにも釈然としない。
わたくしは三度、命がけで論破した。そのすべてが、最後の「何も申しません」の一言に持っていかれた。
その話をしたら、セオドア様は一度うなずいてから言った。
「苦情処理というのは、そういうものでは」
「なぜご存じなのですか、そんな言葉を」
「あなたが寝言で言っていたと、妹が」
わたくしは頭を抱えた。イーディス様には一生勝てる気がしない。
◇
殿下は、変わった。
劇的にではない。相変わらず思い込みは激しいし、詰めも甘い。ただ、報告を受けると必ず「それは誰が確認した」と聞くようになった。
先日、わたくしは王城の回廊で殿下とすれ違った。
「ロゼリア」
「殿下」
「ひとつ、報告がある」
殿下は、やけに得意げだった。
「昨日、宰相が上げてきた予算案に、穴を三つ見つけた」
「……三つ」
「三つだ」
わたくしは礼をした。
「見事でございます」
「当然だ」
殿下は胸を張って、颯爽と歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、わたくしは思った。
――あの方、たぶん三つで揃えるのが癖になっただけね。
まあ、いい。
穴を三つ探す王の下でなら、稟議書も少しはまともになるだろう。
前世でわたくしが一番欲しかったのは、そういう上司だった。
(了)
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