第九話:γ4
アカネのその最後の言葉は、重く、冷たい石のように、埃っぽい資料室の暗闇へと、ゆっくりと沈んでいった。
『……そんな、たった一つの『結果』に、過ぎないとしたら?』
俺は、その問いに、何も答えることができなかった。
思考が、麻痺している。
この現実が、無数の『可能性』の死骸の上に成り立つ、一つの『残骸』に過ぎない。
彼女が提示したその仮説は、俺がこれまで立っていた、足元の地面そのものを、根こそぎ奪い去っていくような、途方もない破壊力を持っていた。
西日は、もう、完全に、その存在感を消し去っていた。窓の外は、濃い群青色と、まだ、かろうじて地平のあたりに残っているであろう赤色の最後の名残とがせめぎ合う、深い薄暮に沈んでいる。その、もはや光とは呼べないような、弱々しい間接光だけが、この資料室の、絶対的な闇への陥落を、かろうじて食い止めていた。
だが、そのせいで、この空間は、より一層、現実味のない場所へと変貌していた。
書架の列は、まるで古代遺跡の巨石のように、黒々とした巨大なシルエットとなって、俺たちの周囲を取り囲んでいる。天井も、床も、その境界が曖昧になり、俺たちは、まるで、紙と埃でできた、巨大な墓所の中に、二人きりで閉じ込められているかのようだった。
そして、その墓所の中心に、アカネが立っていた。
彼女の姿もまた、その黒々としたシルエットの一つと化していた。表情など、もう、まったく読み取れない。ただ、そこに、俺の知っている『アカネ』という名前のクラスメイトと同じ形をした『何か』が、立っている。それだけしか、分からなかった。
いや、違う。
俺の目は、暗闇に慣れ始めていた。
シルエットの奥。その『顔』があるべき場所で、二つの小さな光点が、俺を真っ直ぐに捉えているのを俺は、確かに認識していた。
彼女の、瞳だ。
その瞳だけが、この希薄な光を執拗に集めて、暗闇の中で、鈍く知性的に光っている。
俺は、その光から逃れることができなかった。
「……」
俺は、この重苦しい沈黙と、彼女の視線と、そして、俺の頭の中で渦を巻き始めた、あの途方もない仮説とが、同時に俺を圧迫してくるのに、耐えられなくなっていた。
何かを言わなければ。
このまま、彼女の論理に、彼女の世界観に飲み込まれてしまうわけにはいかない。
俺は、必死で、言葉を探した。あの仮説の、どこかに、穴があるはずだ。俺の『常識』が、まだ、抵抗できる場所が。
「……結局、それも」
俺の喉から、乾いたかすれた声が漏れた。
「……それも、結局は『観測』なんだろ……?」
「……どういうこと?」
彼女の声は、静かだった。俺の反論を促すように。
「……『環境』と、相互作用した、結果、だって……君は、そう言った」
俺は、自分の頭の中にある、まだ、まとまりきっていない思考の断片を、一つ一つ、必死で、言葉に変換していく。
「『環境』……。空気の分子だとか、光だとか、熱だとか……。そういう無数のものが、『観測者』の代わりになって、『可能性の波』を、一つの『現実』に、固定してしまう、って……。そういう話じゃないか、それは」
「……ええ。デコヒーレンスの理論は、大まかに言えば、そういう解釈よ」
「……だとしたら!」
俺は、思わず、声を荒らげていた。
「だとしたら、結局、何も、変わってないじゃないか!」
彼女のシルエットが、わずかに、動いたように見えた。
「……変わってない、とは?」
「あの、最初の、コペンハーゲン解釈だとかいう、あの話と、だ! ……あの時は、『観測者』っていう、得体の知れない『人間』が、世界を『見て』、勝手に、その在り方を『決めて』しまう、っていう……。そういう、気持ちの悪い話だった」
「……」
「今度のは、その『観測者』が、『人間』から、『環境』っていう、もっと、巨大で、わけの分からない何かに、代わっただけじゃないか! ……結局、俺たちの『現実』は、俺たちの意志とは、まったく関係ない、どこか『外側』にある、巨大な何かの『観測』によって、一方的に、決められてしまっている……。そう言っていることと、同じだ!」
俺は、そこまで一息にまくし立てて、荒い息をついた。
そうだ。
俺が感じていた、この仮説に対する、言いようのない不気味さ、不快感の正体は、それだ。
俺が、あの『面倒』な人間関係から逃れるために、自ら『傍観者』であると、そう決めていたはずなのに。
彼女の理論は、俺を、傍観者どころか、この世界という『劇場』で、誰か『外側』の観客の視線によって、その存在を、かろうじて『確定』させられている、哀れな『演者』の一人に、引きずり下ろす。
そんな、屈辱的な世界観。
俺は、それを、到底、受け入れることはできなかった。
「……傲慢さが、薄まっただけだ」
俺は、吐き捨てるように、言った。
「『人間』が世界を決める、っていう傲慢さが、『環境』っていう、よく分からないものに、分散されただけだ。……でも、俺たちが、その『観測』によって、一方的に、決められる側であることには、何の変わりもない。……俺は、そんな気持ちの悪い世界観は、ごめんだ」
俺の必死の抵抗。
俺の常識と、尊厳を守るための、最後の反論。
それを暗闇の中で、じっと聞いていたアカネは。
やがて、ゆっくりと、息を吐き出した。
それは、溜息のようでもあり、あるいは、感嘆の声のようでもあった。
そして。
「……そうよ」
彼女の口から出たのは、俺の反論に対する、まさかの全面的な『肯定』だった。
「……え?」
「あなたの、その『気持ち悪さ』。……あなたの、その直感的な抵抗感。……それこそが、今、私たちが話してきた、これまでの議論のすべてに共通する、一番、根本的な『問題点』なのよ」
アカネのシルエットが、再び、一歩、俺に近づいた。
もう、お互いの呼吸が、聞こえるほどの距離だ。
暗闇の中で、彼女の、あの、理知的な光を放つ瞳だけが、間近にあった。
「……核心を突いているわ。……あなた、やっぱり、ただ、窓の外を、ぼんやりと眺めていただけじゃないのね」
その言葉は、もはや、皮肉や、からかいの響きを、一切、含んでいなかった。
純粋な知的な『評価』。
俺は、彼女のその、予期せぬ反応に、戸惑い、次の言葉を失っていた。
アカネは、俺のそんな混乱を、見透かすかのように、議論を、さらに恐ろしい速度で加速させた。
「コペンハーゲン解釈も、デコヒーレンスを導入した多世界解釈も、……結局は、あなたが感じた通り、一つの根本的な不自然な『前提』の上に成り立っているわ」
「……不自然な前提?」
「そう。……それはね」
彼女は、まるで、禁断の真実を告発するかのように、その声を低く潜ませた。
「『観測者(あるいは環境)』と、『観測される系(この世界)』を、……無意識のうちに、まったく別のものとして、『分けて』考えてしまっていることよ」
「……」
「コペンハーゲン解釈では、『観測者』は、まるで、この物理法則の外側にいる、神様みたいな特権的な存在だった。……その『観測者』だけが、『波の収縮』を起こさず、安全な場所から世界を『確定』させることができる」
「……」
「デコヒーレンスの理論は、それを、もう少し、マシなものにしたわ。『観測者』を『環境』という、物理的なものに置き換えたんだから。……でも、結局は同じことよ。……『環境』と、それによって『観測』される『系』。……その二つの間に、どうしようもない、絶対的な『境界』を引いてしまっている」
アカネの言葉は、俺の頭を殴りつける。
彼女は、さっきまで、俺に、あれほど情熱的に説明していた理論を、今度は、自らの手で容赦なく、批判し始めた。
「……なぜ、そんな不自然な『境界』が、必要なの?」
彼女の問いは、俺に向けられているようで、実際は、この世界そのものに向けられているようだった。
「なぜ、『観測者』だけが、特別なの? ……『観測者』自身もまた、この世界を構成している、膨大な数の原子でできた、ただの『物理系』の一つに過ぎないはずじゃない?」
「……」
「『観測者』が『系』を観測するとき、その『観測者』自身は、いったい、誰が『観測』しているの? ……その『観測者』を、さらに『観測』する、別の『観測者』が必要なの? ……そんなことを、いつまで、無限に繰り返すつもり?」
それは、哲学的な、問い遊びのようにも聞こえた。
だが、彼女の口調は、それが遊びなどでは、断じてないことを示していた。
彼女は、今、人類が、この『現実』を理解するために、百年間、積み上げてきた、物理学という、巨大な建造物の『土台』そのものに、疑問を突きつけている。
俺は、もう恐怖すら感じていなかった。
ただ、この暗闇の中で、とんでもない瞬間に立ち会ってしまっている、という、圧倒的な感覚だけが、そこにあった。
「……じゃあ」
俺は、かろうじて声を出した。
「……じゃあ、どうすればいいんだ。……『観測者』なんていう、特別なものを考えなければ……。どうやって、この世界を……」
「そうよ」
俺の迷い込んだような問いに、アカネが力強く、被せた。
まるで、その言葉を待っていたとでも、言うかのように。
「……もし、『観測者』なんていう特別な存在は、……最初からいなかったとしたら?」
彼女は、そこで、あの『量子力学入門』の、古い表紙を暗闇の中で、指先で叩いた。
乾いた小さな音が、資料室の静寂に響いた。
「あなたが抱いた『気持ち悪さ』。……その不自然な『境界』を、最初から完全に取り払ってしまおう、っていう、……そういう考え方もあるわ」
「……」
「『関係性量子力学』……。あるいは、RQMと、呼ばれているモデルよ」
関係性量子力学。
また、新しい言葉だ。
「……関係性?」
「ええ。……この理論では、もう『観測者』と『観測される系』なんていう、区別はしないの。……どちらも、平等な『物理系』よ」
「……」
「そして、ここが、一番、重要なところだけれど」
アカネは、俺の混乱しきった思考を見定めるかのように、一瞬、間を置いた。
「いかなる『系』の状態も、……それが電子だろうと、私だろうと、あなただろうと、……それ『単独』で、絶対的に存在することはないのよ」
「……単独で存在しない?」
「そう。……その『状態』は、……常に、『別の系との関係性においてのみ』、……定義されるの」
関係性においてのみ、定義される。
俺は、その言葉を頭の中で繰り返した。
「……分からない。……どういう意味だ、それは」
俺の、その素直な疑問に。
アカネは、暗闇の中で、かすかに息を吸い込む気配をさせた。
「……例えば」
彼女は、静かに語り始めた。
「私が、あの二重スリット実験で、『電子が右のスリットを通った』と『観測』したとするわね」
「……ああ」
「でも、その『電子は右にあった』という『事実』は、……あくまで『私』と『電子』という、この二者間の『関係性』においてのみ、成立する『事実』なのよ」
「……」
「その、同じ瞬間。……この私と電子の『外側』にいる、別の観測者、……例えば、あなたから見たら」
暗闇の中、彼女の瞳が、俺を射抜いた。
「……『私』と『電子』は、まだ『観測する前』の、あのぼんやりとした、『可能性の波』の『重ね合わせ』の状態に、見えているかもしれない」
「……なっ」
「『私』にとっては、『電子は右』が、絶対の『現実』。……でも、『あなた』にとっては、『私と電子が、どうなっているかは、まだ、決まっていない』が、『現実』。……どっちも正しいのよ。……それぞれの『関係性』において、ね」
俺は、絶句した。
そんな、馬鹿な。
現実が、見る人によって、違う?
絶対的な、たった一つの『事実』というものが、この世には、存在しない?
「……そんな、……そんな、無茶苦茶な……」
「無茶苦茶かしら?」
アカネの声は、どこまでも、冷たく、澄んでいた。
「『絶対的な現実』なんていう、誰も証明したことのない、……それこそ、神様みたいなものを信じ込むことと、……今、目の前にある、『関係性』だけを信じること。……どっちが、本当に無茶苦茶なのかしらね?」
彼女は、俺に、反論の余地を与えなかった。
「……あるのは、無数の『系』と、『系』とが、……お互いに結び合う、……膨大な『関係性』、その網の目だけ」
アカネは、この埃っぽい、資料室の暗闇、そのものに溶け込んでしまいそうな声で、……そう断言した。
「だから、すべては『相対的』なのよ。……私たちが『実在』と呼んでいるものも、……私たち自身でさえも、……すべて、お互いの『認識』、……お互いの『相互作用』によってのみ、……その実在を保っているに過ぎないわ」
彼女は、暗闇の中で、俺という『系』に向かって、の顔を真っ直ぐに向けた。
「今、この瞬間もそうよ」
「……」
「私が、こうしてあなたを……。『私の前にいる、ツバキ』として、……『観測』するように」
「……」
「あなたもまた私を……。『君の前にいる、アカネ』として、……『観測』している」
その暗闇の中の瞳が、まるで、俺の存在そのものに、問いかけてくるかのように見えていた。
「お互いを『観測』し合う、……この相互の『関係性』。……それこそが、……今、この暗い資料室で、……『私』と『あなた』という、二つの存在を、……『実在』させている、……唯一の根拠なのよ」
俺は、息ができなかった。
彼女の言葉の重圧に。
その論理の美しさと、その恐ろしさに。
俺は、今、彼女に『観測』されている。
そして、俺もまた彼女を『観測』している。
この二つの視線の交錯だけが、俺たち、二人が、今、ここに『いる』ことの証なのだ。
アカネは、一瞬、永遠のようにも思える、一瞬、言葉を切った。
そして、まるで、この資料室の壁の向こう側、この学校の空の、さらに外側。それは、俺の知らない、どこか遥か遠い場所を見つめるかのように、その視線を俺からわずかにそらして、こう付け加えた。
その声は、もはや、俺に語りかけている声では、無かった。
「……そして、もしかしたら」
「……」
「この『私たち』という、……この閉じた『関係性』そのものを……」
「……」
「今、この瞬間、……同時に、『観測』している。別の『誰か』すらも……どこかに、いるのかもしれないわね」




