第八話:γ3
観測されるまでは、可能性。
観測された瞬間に、確定する。
アカネのその言葉は、まるでどこか遠い場所から響いてくる音のように、俺の耳を通過していく。いや、俺の頭が、その言葉の持つ本当の意味を理解することを、拒否しているのかもしれない。
資料室の空気は、彼女がその議論を始めてから、明らかにその質を変えていた。ただでさえ埃っぽく、古い紙の匂いが満ちていたこの空間に、さらに別の、重く、張り詰めた何かが加わったようだった。唯一の光源である窓から差し込む西日は、もう光というよりは、濃い赤色のインクをぶちまけたかのように、床と書架の一部を染めている。それ以外の場所は、急速に暗がりへと飲み込まれつつあった。俺とアカネの姿も、その赤と黒の境界線上で、ぼんやりとしたシルエットになっている。
俺は、目の前に立つ、そのシルエットと化した彼女から、目が離せないでいた。
これは、本当に、俺の知っているアカネなのだろうか。
クラス委員。快活。社交的。クラスの中心。
俺が彼女に対して貼り付けていたイメージは、今、目の前で起きている事態の前で、何の役にも立たなかった。それどころか、彼女は、俺が彼女を『アカネ』と認識するために使っていた、その貧弱な枠組みそのものを、内側から破壊しようとしているようにさえ思えた。
俺が知っていたはずのクラスメイトは、今や、この薄暗い倉庫の中で、高校生としての領域をはるかに超えた物理学の理論を、当たり前のことのように語っている。
俺は、何かを言わなければならない、という漠然とした焦りを感じていた。この異常な空気を、どうにかして、俺の知っている『日常』の側へ引き戻さなければならない。
だが、俺の喉は、まるで埃の塊でも詰まったかのように、乾ききっていた。言葉が出てこない。
俺のそんな内心での混乱など、彼女にはまったく関係ないようだった。あるいは、それこそが、彼女が望んだ反応だったとでもいうのだろうか。
アカネは、俺の沈黙を、議論の続きを促す『合意』と受け取ったかのようだった。
「……今の話、どう思う?」
彼女は、静かにそう問いかけてきた。
その声は、もう完全に、俺の知っているクラス委員のものではなかった。理知的で、落ち着き払っているが、その底には、抑えきれない情熱のようなものが、暗い炎のように揺らめいている。
「……どう、って言われても」
俺は、やっとの思いで、それだけの言葉を絞り出した。
「意味が、分からない。電子が粒だとか、波だとか……。それに、『観測』したら結果が変わるなんて、そんな馬鹿な話があるわけないだろ。何かの間違いじゃないのか、それ」
俺の反論は、我ながら、ひどく陳腐で、感情的なものだった。
だが、アカネは、俺のその幼稚な抵抗を、予測していたかのように、静かに首を振った。
「馬鹿な話でも、間違いでもないわ。これは、もう百年近くも前に確立された、現代物理学の根幹なのよ。私たちが毎日使っている、そのスマートフォンだって、この量子力学がなければ存在し得なかった。……これは、紛れもない『事実』」
彼女は、俺の持つスマートフォンを、暗がりの中で、その存在を示した。
「でも、どうして『観測』すると、波としての性質が消えるのか。……その『解釈』については、今でも、物理学者たちの間で見解が分かれているのよ」
解釈、と彼女は言った。
「一番、古くからあって、そして、今でも主流とされている解釈があるわ。『コペンハーゲン解釈』っていうのだけれど」
彼女は、まるで授業の続きをする教師のように、淡々と、しかし熱を込めて説明を続けた。俺がまだ作業の途中だったファイルの山を背にして、無造作に腰掛けながら。俺は、その数歩手前で、立ったまま、彼女の言葉を聞くしかなかった。
「その解釈によればね。ミクロの世界――電子とか――は、『観測』されるまで、明確な『状態』を持っていないのよ。さっき言ったように、それは『可能性の波』として、ぼんやりと広がっているに過ぎない。右にいる可能性も、左にいる可能性も、すべてが『重ね合わさって』存在している」
「……」
「でも、私たちが『観測』という行為をした瞬間。人間の意識とでも言うべきものが、そのミクロの世界に『介入』した、その瞬間に。その『可能性の波』は、一つの場所へと『収縮』する。そして、私たち『観測者』の前に、一つの『粒子』としての『現実』を、初めて見せるのよ」
観測者が世界に介入する。
その言葉の持つ、途方もない傲慢さに、俺は、ぞっとするような感覚を覚えた。
「……待てよ。それじゃあ、まるで」
「そうよ」
俺の言葉を、アカネが引き取った。
「『観測者』が、世界を『確定』させている、ということになる。……私たちが『見る』という行為そのものが、世界の在り方を決定している。……それが、コペンハーゲン解釈、一つの帰結よ」
俺が『見る』だけで、世界が変わる?
そんな馬鹿なことがあるか。
俺が教室の隅で、あの窓際の定位置で、目を閉じていたって、世界は勝手にそこにあるはずだ。俺が認識していようがいまいが、先生は授業を進め、クラスメイトは退屈そうに欠伸をし、窓の外では雲が流れていく。
それこそが『現実』というものではなかったのか。
俺という存在は、その『現実』に対して、何の力も持たない、ちっぽけな傍観者に過ぎない。俺は、ずっと、そう思って生きてきた。それが、俺を『面倒』な人間関係から守ってくれる、唯一の思想だった。
だが、彼女の言葉は、その俺の根幹を、否定している。
俺が『見ている』から、世界は『そう』なる?
それは、傲慢さを通り越して、もはや、狂気じみた自己中心的な世界観ではないのか。
「……そんな考え方、俺は、受け入れられないな」
俺は、自分でも驚くほど、はっきりとした口調で、そう言っていた。
「俺が見ていなくても、世界は、そこにある。……青空は、俺が空を見ていない時でも、ずっと、そこにあるだろ。それが、当たり前のことだ」
俺のその反論に、アカネは、初めて楽しそうな、しかし、どこか憐れむような、複雑な笑みを浮かべた。
「……そう。そういった話。似たような言葉があるわ。それは、この解釈に生涯をかけて反論し続けた、ある有名な物理学者の言葉よ。……『あなたが見ていない時、月はそこには無いとでも言うのか』ってね」
「……」
「あなたのその感覚は、とても正しいわ。物理学者だって、そう感じたんだから。……『観測』なんていう、人間の意識が関わるような曖昧なもので、この宇宙の根本法則が左右されるなんて、気持ち悪い。……そう思うのも、当然よ」
彼女は、まるで俺の思考を先回りして、そのすべてを理解しているかのように、頷いた。
そして、彼女は、淡々と話を進めていく。
「だから、その『気持ち悪さ』を解消するために、まったく別の、とんでもない解釈を考え出した人たちもいるわ」
「……とんでもない解釈?」
「ええ。……『多世界解釈』って、呼ばれているものよ」
多世界解釈。
その言葉の響きだけで、俺は、これが、さらに厄介な話になることを予感した。
「コペンハーゲン解釈では、『観測』によって、無数の『可能性の波』が、たった一つの『現実』に『収縮』する、と言ったわよね」
「……ああ」
「でも、この多世界解釈は、まったく逆なのよ。……『収縮』なんて、しない。……それどころか」
アカネは、そこで一度、言葉を切った。
彼女は、ゆっくりと立ち上がり、唯一の窓辺へと歩いて行った。彼女の身体が、赤黒い光を背に受けて、完全な影絵のように見えた。
「『観測』のたびに、世界そのものが『分岐』するのよ」
俺は、彼女が何を言っているのか、今度こそ、まったく理解できなかった。
「……分岐? 世界が?」
「そう。あの二重スリット実験で言えばね。観測者が『電子は右を通ったか、左を通ったか』を観測しようとした、その瞬間」
彼女は、窓の外の、暗くなり始めた空を眺めながら、静かに続けた。
「世界は、二つに分かれるのよ。……『電子が右のスリットを通った世界』と、そして、『電子が左のスリットを通った世界』に」
「……」
「どちらか一方が『現実』になって、もう一方が消える、んじゃないわ。……両方よ。両方ともが、『現実』として、その瞬間に、新しく誕生する。そして、その二つの世界は、もう二度と、お互いに干渉することができなくなる」
その仮説の、途方もないスケールに、俺は、眩暈すら覚えた。
なんだ、それは。
世界が、この瞬間にも、俺が何かを見るたびに、選択をするたびに、ネズミ算式に増え続けているとでもいうのか。
俺が、今朝、ベッドから右足で降りた世界と、左足で降りた世界。
俺が、アカネの誘いを断った世界と、こうして資料室に来てしまった、この世界。
それらすべてが、平等に『実在』している?
「……馬鹿げてる。それこそ、SFの話だ。そんな、無限に増えていく世界なんて、あるわけが」
「これは、SFじゃないわ」
俺の反論を、アカネは、窓に背を向けたまま、静かに、しかし、きっぱりとした口調で遮った。
「これは、量子力学の数式を、何の小細工もせずに、そのまま素直に解釈した結果、導き出される、一つの論理的な帰結なのよ。……私たちの『常識』に合わないからといって、それを『SF』と呼んで、切り捨てることこそ、非論理的だとは思わない?」
「……」
俺は、何も言い返せなかった。
彼女の言う通りかもしれない。俺は、ただ、自分の理解の範囲、自分の『常識』という名の狭い檻の中から、叫んでいるだけだ。
だが、それでも納得はできない。
「……じゃあ、もし、その『多世界』とやらが、本当にあるとして」
俺は、必死で、その理論の穴を探そうとした。
「なんで、俺たちは、その『分岐』した世界とやらを実感できないんだ? なんで、俺の『現実』は、いつも、たった一つにしか見えないんだ? 右を通った俺と、左を通った俺が、同時に存在するなんて、そんな感覚、俺にはないぞ」
それこそが、この突拍子もない理論の、最大の弱点であるはずだ。
俺は、そう思った。
だが、アカネは、ゆっくりと、窓辺からこちらに振り向いた。
彼女の顔は、もう、西日の赤光さえ届かない、完全な暗がりの中に沈んでいた。その表情を、俺は、もう読み取ることはできない。
しかし、彼女の声だけが、資料室の静寂の中で、明瞭に響いた。
「……それを説明するのが、『量子デコヒーレンス』なのよ」
「……デコヒーレンス?」
また、聞いたこともない単語が出てきた。
俺の頭痛は、もう限界に近づいていた。
この面倒なファイル整理をさっさと終わらせて、一刻も早く、ここから立ち去りたかった。俺の知っている、あの退屈で、しかし、平和な『日常』へ。
だが、アカネは、俺を解放するつもりなど、まったくないようだった。
彼女は、俺たちを囲む、この薄暗い空間そのものを、指し示すかのように、ゆっくりと両手を広げた。
「私たちは、決して、一人では生きていないわ」
唐突に、彼女は、そんなことを言い出した。
「この資料室だって、そう。私と、あなた。二人きりだと思っているかもしれないけれど、本当は、違う。……ここには、無数の目に見えない『環境』が、満ちている」
「……環境?」
「そう。この空気を作っている、膨大な数の窒素や酸素の分子。床や壁から、絶えず放たれている、熱。空気中を舞っている、この無数の埃。窓から差し込んでくる、わずかな光の粒子。……そして、この校舎の外の喧騒。……そのすべてが『環境』よ」
彼女は、暗闇の中で、一歩、俺に近づいた。
「ミクロの世界では、『波』としての性質――つまり、『重ね合わせ』の状態――を保つことができる。二つのスリットを同時に通る、なんていう、奇妙な芸当も可能よ。……でも、それは、そのミクロな系が完全に『孤立』している場合の話」
彼女の声が、一段と、低くなった。
「もし、そのミクロな電子の『波』が、たった一つでも、この『環境』――例えば、空気の分子たった一つ――と、ぶつかったら、どうなると思う?」
「……」
「その瞬間、おしまいよ」
彼女の言葉は、冷たく、断定的だった。
「電子が持っていた、『右にも左にもいる』っていう、その量子的な、曖昧な『可能性』の情報は、一瞬で、そのぶつかった空気の分子を通じて、周囲の膨大な数の『環境』全体へと、拡散してしまうの。……もう、取り戻すことはできないわ。……これが、『量子デコヒーレンス』。……『波』としての干渉する能力が、環境との相互作用によって『壊れる』ことよ」
俺は、彼女が、一体、何を、どこへ向かって、話しているのか、その全体像が、まったく掴めないでいた。
コペンハーゲン解釈。多世界解釈。そして、デコヒーレンス。
これら、バラバラに提示された難解なパズルのピースが、俺の頭の中で、何の形も結ばないまま、散らばっている。
「……それが、どうしたんだ。それが、俺たちが『分岐』を実感できないことと、何の関係がある?」
「大ありよ」
アカネは、俺の苛立ちを含んだ問いを、即座に肯定した。
「私たち『人間』という存在は、どう?」
「……え?」
「私たちは、ミクロな電子なんかとは、比べ物にならないくらい、巨大で複雑な『マクロ』な存在よ。……無数の原子でできている。そして、この『環境』と、一瞬たりとも、関わらずにいることはできない。……呼吸をし、熱を放ち、光を浴び、音を聞いている」
彼女は、俺の、目と鼻の先まで、近づいていた。
暗闇に慣れた目で、ようやく、彼女のシルエットの奥にある、瞳の光が、かすかに見える。
「私たち自身が、この『環境』そのものなのよ。……だから、私たち『マクロ』な存在のレベルでは、『重ね合わせ』なんていう、奇妙な状態は、それが生じた瞬間に、一瞬で、このデコヒーレンスによって、破壊されてしまう。……私たちが『分岐』した世界を実感できないのは、当たり前。だって、私たちは、その『分岐』が起きるよりも、はるかに速いスピードで、この『環境』と相互作用して、常に、たった一つの『状態』に、固定され続けているんだから」
それは、恐ろしく、冷徹な論理だった。
多世界解釈という、あの突拍子もない飛躍を、デコヒーレンスという、別の物理現象で補強する。
俺は、その論理の隙のなさ、というか、自己完結している様に、言いようのない不気味さを感じた。
「……でもね」
彼女の声は、今や、ほとんど、ささやき声に近いほど、静かになっていた。
しかし、その静けさとは裏腹に、彼女の言葉は、この資料室の重い空気を切り裂くように、俺の鼓膜を打った。
「もし、こう考えたら、どう?」
「……」
「『環境』と相互作用して、『可能性』が失われ、たった一つの状態に『固定』される……」
彼女は、ゆっくりと、言葉を区切った。
俺は、その言葉の既視感に気づいた。
「……それって」と、彼女は続けた。
「さっき、私が、一番最初に話した、『観測』っていう行為と……。その『構造』が、すごく、よく似ているとは、思わない?」
俺は、息を飲んだ。
観測。
コペンハーゲン解釈で出てきた、あの曖昧な、人間の意識が関わるという、あの言葉。
環境との相互作用。
デコヒーレンスで出てきた、あの物理的で、冷徹な無数の分子の衝突。
この二つが似ている?
「私たちが『現実』と呼んでいる、この世界」
彼女は、まるで、最後の審判を告げるかのように、言った。
その声は、もう何の感情も乗せていなかった。ただ、事実を『記述』するかのように、冷たく、空間に置かれていった。
「この、ただ一つの、当たり前のように、私たちの目の前に存在している、この世界も……」
「……」
「本当は、水面に浮かぶ、無数の『可能性の泡』……『パラレルワールド』の一つだったのかもしれないわ」
「……」
「それが、私たち自身を含む、この途方もなく巨大な『環境』という名の『観測者』と、……この宇宙が始まって以来、ずっと、相互作用をし続けた結果……」
彼女は、俺の胸を、指差すでもなく、ただ、その視線で、貫いた。
「他の、無数の『可能性』は、すべて、デコヒーレンスによって、その干渉する力を失って、消え去って……」
「……そして、たった一つだけが、この『現実』として、私たちの前に『確定』してしまった」
「……そんな、たった一つの『結果』に、過ぎないとしたら?」
アカネのその最後の言葉は、問いかけの形を取りながら、俺にとっては、完全な『宣告』だった。




