第六話:γ1
放課後の資料室は、埃っぽく、紙の古い匂いがした。俺は、クラス委員のアカネに頼まれて、山積みになった古いファイル整理を手伝うことになった。
西日の差し込む窓は一つだけで、その光線が、空気中を舞う無数の塵を金色に照らし出している。棚に並んだ背表紙はどれも色褪せ、この部屋だけが、学校の喧騒から切り離されて、時間を止めているかのようだった。
俺は、床に乱雑に積み上げられた、古いバインダーの分厚い束を、うんざりした気分で持ち上げた。見た目以上にずしりとした重みが腕にかかる。何十年分もの紙が蓄積した、物理的な質量。その束を抱え直すと、積年の埃が一斉に舞い上がり、西日の光条の中で、まるで意志を持っているかのように渦を巻いた。古い紙とインク、それから、わずかにカビの混じった、乾いた匂いが、俺の動作に合わせてむわりと立ち上り、鼻腔の奥を強く刺激する。思わず、制服の袖口で雑に口元を覆ったが、不快な感覚は消えない。
資料室、などという、それらしい名称がついているが、実態は単なる物置、あるいは、学校という場所が時間をかけて排出し続けた、記憶の残骸を溜め込むための、巨大なゴミ捨て場だ。使われなくなった長机や、脚の歪んだパイプ椅子が部屋の隅に寄せられ、その上にも無造作に書類の山が築かれている。中央には、天井に届きそうなほどの高さを持つスチール製の書架が、まるで迷路のように、無秩序に林立していた。そのどれもに、何世代も前の卒業生が残したであろう文集やら、会計報告やら、あるいは、もう誰もその存在理由を思い出せないような、黄ばんだ書類の束やらが、これでもかとばかりに詰め込まれている。
窓は、俺の背後にある、その一つだけ。そこから差し込む、傾きかけた太陽の光が、この部屋の唯一の光源だった。だが、その光も、目の前にそびえ立つ書架の群れが落とす、深く、重い陰りによって遮られ、部屋の奥までは届いていない。俺たちが今作業しているのは、その薄暗がりの手前、かろうじて光が届き、書架の背表紙に貼られた、色褪せたラベルの文字が判読できる、ぎりぎりの場所だった。
アカネは、俺の数歩先で、同じようにファイルの束と格闘していた。彼女は「あ」とか「うーん、これはどこだろ」とか、時折小さな声を漏らしながら、背伸びをして、棚の奥へと手を伸ばしている。その背中は、普段、教室で見る、あのクラス委員としての、どこか張り詰めたような、他人を意識した雰囲気とは違い、いくらか無防備に見えた。作業に没頭しているせいか、明るく染められた髪が数本、頬に張り付いているのに、気づく様子もない。
「ごめんね、いきなり。こんなこと頼んじゃって」
アカネが、申し訳なさそうに笑いながら、ファイルの束を棚に戻していく。彼女は、クラス委員としての、あの事務的な笑顔ではなく、どこかくだけた、親しげな表情をしていた。
「別に」
俺は、そっけなく答える。本当は、死ぬほど面倒くさい、と思っていた。なぜ俺が、こんな場所で、クラス委員の雑用を手伝わなければならないんだ。
この感情は、今に始まったことじゃない。俺は、基本的に、こういう他人との共同作業というものが、心の底から苦手だった。いや、正確に言えば、面倒なだけか。自分のペースで完結しない物事は、常に、相手の都合という、予測不可能な変数を計算に入れなければならない。相手が何を考え、何を求めているのかを推測し、それに対して、自分の行動を調整し、最適化する。そのプロセス全体が、俺にとっては、ひどく消耗的な行為に思えた。
他人の顔色をうかがい、当たり障りのない相槌を打ち、時には、思ってもいないことに共感してみせる。そんなことを繰り返しているうちに、自分が、今、本当に何を感じているのかさえ、曖昧になっていく。その感覚が、俺は何よりも嫌だった。
だから、俺はいつも教室の隅で、時間が過ぎるのを待っている。誰にも話しかけられず、誰にも何も要求されない、あの窓際の、一番後ろの定位置で。そこが、俺の領域だった。そこから、教室という空間で起こる、他愛のないやり取りを、ただ、眺めている。教師が教科書を読み上げ、クラスメイトが時折、小さな笑い声を漏らす。そのすべてが、俺には、どこか遠い場所で起こっている出来事のようにしか感じられない。それが、俺にとっての、最も負荷の低い、世界のあり方だった。
だが、今日は、その領域が、担任という、外部からの、まったく予期せぬ、そして、抗いがたい力によって、いとも容易く侵された。俺は、自分の聖域から引きずり出され、今、この埃まみれの倉庫で、アカネという、俺の世界観とは、おそらく、対極に位置するであろう人間と、二人きりで、この不毛な作業に従事させられている。
……なぜ俺が、こんな場所で、クラス委員の雑用を手伝わなければならないんだ。そもそも、これは担任の教師が、放課後残っていた俺とアカネを捕まえて「ついでに資料室の整理をしておいてくれ」と一方的に押し付けた仕事だった。アカネはクラス委員だから仕方ないにしても、なぜ俺まで巻き込まれなければならない。ただ教室で静かに時間が過ぎるのを待っていただけだというのに。断るのも面倒で、結局こうして付き合わされている。俺の内心の不満など知る由もなく、アカネは作業を続けている。
そう、あの時だ。
最後の授業が終わりを告げるチャイムが鳴り響き、その音が、教室の空気に染み込んでいた緊張を解き放った、あの瞬間。教室は、一瞬にして、解放感に満ちた、独特の騒がしさに包まれた。椅子を引く音、教科書を乱暴に鞄に詰め込む音、そして、抑えられていた話し声が一気に膨れ上がる音。俺は、いつものように、その喧騒に加わるでもなく、すぐに席を立つでもなく、ただ、窓の外を眺めていた。この、一時的な熱狂が過ぎ去り、教室が本来の、がらんどうの静けさを取り戻すまでを、じっと待っていた。
その時、教室の後方ドアが、がらり、と音を立てて開いた。そこに立っていたのは、担任だった。中年の、可もなく不可もない、特徴の薄い男。その目が、獲物を探す猛禽類のように、教室の中を素早く見回し、そして、まだ席に残っていた俺と、クラス委員として日誌か何かをまとめていたアカネの姿を、的確に捉えた。
俺は、その視線が、自分に固定された瞬間に、すべてを察した。これから起こるであろう事態を、その後の展開のすべてを、ほぼ正確に予測した。
「お、二人とも、まだ残ってたか。ちょうどいい。ちょっと頼みたいことがあるんだが」
その、耳障りの良い、わざとらしく親しげな、軽い調子。これこそが、面倒事が始まる合図だった。こういう時、教師というのは、決まって、こういう口調になる。
「資料室の古いファイルが場所を取って困っていてな。悪いが、少し整理しておいてくれないか」
ほら、来た。
アカネは、一瞬「え、今からですか?」と、素直な戸惑いを顔に出した。その声には、これから友人とでも会う約束があったかのような、微かな失望の色が滲んでいた。だが、彼女は、すぐに、その個人的な感情を、クラス委員としての役割意識の奥へと押し込めたようだった。その表情を、そつなく、にこやかなものに取り繕い、「……わかりました。やれるだけやってみます」と、教師が期待する、模範的な解答を返した。
問題は、俺だ。
担任の視線が、次に、俺に向けられた。その目には、何の疑問も、ためらいもなかった。ただ、そこに、使えそうなリソースが、残っていた。それだけだ。
「君も、特に急ぐ用事がないなら、アカネを手伝ってやってくれ。一人じゃ大変だろう」
ここで「嫌です」と、はっきり断言できれば、どれだけ楽だっただろうか。「俺には関係ありません」と、冷たく突き放すことができれば。
だが、俺には、それができなかった。断る、という行為は、その後に、ほぼ確実に続くであろう、担任の「なぜだ」とか「少しくらいクラスのために協力しろ」とか「内申書に響くぞ」とかいった、さらなる面倒なやり取りを発生させる。それを想像しただけで、俺は、すべての意欲を失った。反論し、交渉し、自分の立場を説明する。そのプロセス全体が、この資料室での、数時間の、無意味な肉体労働よりも、はるかに大きな、精神的なエネルギーを消耗するように思えた。
結局、俺は「……はい」と、消え入りそうな、諦観に満ちた声で、答えるしかなかった。
その結果が、これだ。
俺は、重いため息を、埃っぽい空気の中へと、もう何度目か分からないほど、深く吐き出した。目の前には、まだ、床面積の半分近くを占拠している、ファイルの山が残っている。
作業は、遅々として進まなかった。
整理、とは名ばかりで、実際は、床に山積みになっている、年代も、分類も、バラバラなファイルを、ただ、書架の空いているスペースに、年代順らしきものに従って詰め込んでいるだけだ。こんなことをして、一体、誰が、後で、これを活用するというのだろうか。俺たちがいま押し込んでいる、この『昭和六十三年度 生徒会決算報告』と書かれた、カビ臭いバインダーを、未来の誰かが、必要とする日が、本当に来るというのだろうか。
不毛だ。
西日は、さらにその角度を深め、窓から差し込む光は、もう、金色ではなく、くすんだ赤銅色へと、その色合いを変えつつあった。血の色に似ている、と一瞬思った。室内の気温も、心なしか下がってきたように感じる。制服のブレザー越しにも、ひんやりとした空気が、肌に触れるのが分かった。
アカネは、相変わらず黙々と手を動かしていた。時折、鼻歌のようなものが聞こえてくる気もするが、気のせいかもしれない。彼女は、俺と違って、この作業そのものに、何か、意味を見出しているのだろうか。あるいは、彼女もまた、俺と同じように、思考を停止させて、この不毛な時間を耐え忍んでいるだけなのだろうか。その、快活そうな横顔からは、何も読み取れない。
俺は、ただ無心で、床のファイルと棚の間を往復する。思考を停止させる。これが、こういう退屈で不毛な作業を乗り切る、俺なりの、唯一の方法だった。
何も考えない。ただ、腕を動かし、足を動かす。
俺は、この作業をこなすための一時的な機械だ。この資料室という空間で、指定された動作を繰り返すためだけの、自動装置だ。そう思うことにした。
どれくらいの時間が、そうして過ぎていっただろうか。
床に積み上げられていたファイルの山も、ようやく、半分ほどに減ってきた。俺の腕は、もう、重い紙の束を持ち上げ続けたせいで、鈍い疲労を感じ始めていた。
不意に、アカネが手を止めた。そして、彼女は埃っぽい棚に手を伸ばし、一冊の本を抜き取った。背表紙の文字は色褪せている。
――量子力学入門。
資料室の雑多なファイルの中にある本としては、どこか場違いな一冊だった。
「君、こういうの興味あるかなって思って」
アカネは、そう言って、その本を俺に差し出した。
「なんで、俺が」
「なんとなく。いつも窓の外見て、何か考えてそうだから」
アカネは屈託なく笑う。
俺は、差し出された『量子力学入門』という古びた本と、アカネの顔を、もう一度、見比べた。
彼女の笑顔は、まだそこにあった。だが、それはもはや、クラス委員として、あるいは、ただのクラスメイトとして浮かべる、あの表面的な、誰にでも向けられる種類の笑顔ではなかった。西日の、赤みを帯びた光が、彼女の明るい髪を透かして、その表情に濃い陰影をつけている。そのせいか、彼女の瞳の奥が、俺の知らない、何か、別のものを見ているかのように、深く光っているように見えた。
いつも窓の外を見ている。それは事実だ。
何か考えてそうだから。それは、どうだろう。俺は、大抵の場合、何も考えていない。正確には、考えることを、放棄している。教室の喧騒や、人間関係の面倒さから意識を引き離し、ただ、空の色や、雲の動き、風に揺れる木々の葉を、眺めているだけだ。その、中身のない時間が、俺にとっては、唯一、安らげる瞬間だった。
だが、彼女には、その、無為な時間が、『何かを考えている』ように見えていたらしい。
そして、その『何か』が、この『量子力学入門』という、おそろしく難解そうな書物と結びつく、と。
彼女の思考の飛躍に、俺はまったくついていけなかった。
「……いや。俺は、こういうのは……」
興味がない、と続けようとした。
俺は、その本を、彼女の申し出を、どうやって受け流すべきか、頭の中で必死に言葉を探していた。これを受け取ってしまえば、また何か、面倒な会話が始まってしまう。そんな、明確な予感がしたからだ。この、ただでさえ面倒な状況に、さらに、難解な物理学の話など、追加されたくはなかった。
俺が本を受け取ろうとも、拒絶しようともせず、中途半端に手をさまよわせていると、アカネは、ふと、その差し出していた本を、ゆっくりと自分の方へ引き戻した。
そして、彼女は、その本の埃を払った表紙を、まるで、古い知人にでも再会したかのように、あるいは、愛おしいものでも眺めるかのように、自分の指先で、そっと、たどった。
その瞬間、彼女の顔から、あの「くだけた」笑顔が、すうっ、と消えた。
いや、消えた、というのとは違う。水面が凪ぐように、表情という要素が、その表面から引き、あとに残されたのは、俺のまったく知らない、静かで、どこか冷徹ささえ感じさせる、真剣な眼差しだった。
「……そう。興味、ないかもしれないわね」
その声の調子も、変わっていた。
さっきまでの、親しみやすさを感じさせる、わずかに語尾が上がるような女子高生特有の話し方ではない。低く、落ち着いた、それでいて、不思議な熱量を内包した、分析的な響き。
「でもね」と、彼女は続けた。その目は、俺ではなく、手の中の本に注がれている。
「これは、ただの物理学の本じゃないのよ」
彼女は、まるで熟練した手つきで、その古い本のページをぱらぱらとめくった。そして、あるページで、その指の動きをぴたりと止めた。
「ねえ、君は『観測問題』って聞いたこと、ある?」
観測問題。
聞いたこともない言葉が、埃っぽい資料室の空気の中に、静かに置かれた。




