第五話:α4
証明は、不可能。
俺は、屋上にいた。
そこにある金網のフェンスに、ほとんどすがるようにして手を伸ばした。ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わる。指先に力を込めて、網目を握りしめる。だが、この確かな手触りすら、俺の疑念を晴らす役には立たなかった。
昨夜の『夢』の中で、アカネの手を掴んだ時の、あの生々しいまでの感触。旧校舎の冷たい空気。そして、『顔のない女』を前にした時の、あの圧倒的な恐怖。それらもまた、このフェンスの金属と同じくらい、あるいはこれ以上に強烈な『現実』として、俺の身体に刻み込まれている。
どっちが、本物だ?
ヒナギクの言葉が蘇った。『問いが、違う』。
彼女の話によれば、そもそも『本物』と『偽物』に分けようとすること自体が、間違いだというのだ。どちらも『体験』した。ただ、それだけ。
だが、そんな割り切り方が、簡単にできるはずもなかった。
俺が『俺』であるという、その最後の砦。自分の意志で考え、自分の意志で行動しているという、その自明のはずの感覚。それすらも、確かなものではないのかもしれない。
俺は、どれだけそこに突っ立っていたのだろう。
いつの間にか、ヒナギクはいなくなっていた。俺がグルグルと同じような思考の沼に陥っていたとき、彼女は何の感慨もなく、あのアルミのドアの向こうへ消えてしまったのだろう。
空の色が、さっきよりも一層、濃い青色に沈んでいた。地上のビル群の向こう、空と大地が接するあたりが、わずかに赤みを帯びている。世界の終わりが、ゆっくりと近づいてきているかのようだ。
俺は、重い足取りで、ひとり、屋上を後にした。
◇
教室に戻ると、そこにはもう誰もいなかった。
放課後の喧騒が完全に過ぎ去った後の、静まり返った教室。持ち主を失った机と椅子が並んでいるだけだ。
俺は、自分の席、あの窓際の最後方へと戻った。
鞄に教科書を詰め込もうとして、手が止まった。
ヒナギクの『証明不能』という言葉が、この静寂の中で、より一層重く俺の思考にのしかかってくる。
荘子の夢も、シミュレーション仮説も、結局は同じことだ。俺たちがいるこの場所が『すべて』であり、その『外側』を観測する手段を、俺たちは持っていない。だから、この『内側』が本物か偽物かを問うこと自体が無意味だ、と。
だが、それでいいのか?
「証明できない」と言われたら、そこで思考は終わりなのか?
それは、ただの思考停止じゃないのか。
やはり、何かが間違っている気がする。科学的な理論というものは、それが間違っている可能性を常に含んでいるはずだ。けれど、ヒナギクが提示した仮説は、どうやったら反証できる?
「この世界はシミュレーションだ」という仮説は、どうやったら「間違っている」と証明できる?
「この世界はシミュレーションではない」と、どうやったら証明できる?
ヒナギクの論理に従えば、どちらも不可能だ。
これでは、どんな馬鹿げた話でも「証明不可能だから否定もできない」で通ってしまうじゃないか。
俺が昨夜見た、あの『顔のない女』。あの言語化できない、理不尽な恐怖。それと、今俺が座っているこの机の、指先で感じるざらついた木の感触。これが、同じ『現実』の候補だなんて、俺は認めたくない。
あの夢は、明らかに違うものだった。この現実とは、何かが決定的に違う。
だが、その『違い』を、どう論理的に説明すればいい?
『生々しかったから』? あの夢も、この現実と同じくらい生々しかった。
『あの夢にいたような幽霊がいないから』?いや、まだ、現実で見ていないだけかもしれない。
どう考えても、堂々巡りだ。八方塞がりだ。
……いや、待て。
俺は、知らないだけじゃないのか?
ヒナギクが、あの『論理哲学論考』という一冊の本に固執しているように、俺もまた、自分の狭い知識の中で足掻いているだけじゃないのか。
本当に証明不可能なのか?
誰か、別の考え方をしている人間はいないのか? この仮説の『矛盾』を指摘している人はいないのか?
そうだ、調べるんだ。
このまま、ヒナギクの言葉を鵜呑みにして、自分の『現実』を見失うわけにはいかない。
俺は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
冷たいガラスの板。
これが、今の俺を『現実』に繋ぎ止めている、唯一の道具のように思えた。
俺は、震える指で、ロックを解除した。
がらんとした教室の中で、俺は決意して、検索窓にヒナギクが口にした言葉をそのまま打ち込んだ。
『シミュレーション仮説』。
検索をする。
瞬時に、おびただしい数の検索結果が表示された。
有名大学の教授による解説記事。難解な物理学の論文。SF愛好家たちの考察。
俺は、その一つ一つを表示していく。
けれど、俺が分かる範囲で、その内容は、どれも、ヒナギクが言ったことの焼き直しに過ぎなかった。
『我々の宇宙は、高度な文明によって作られたコンピュータ・シミュレーションである可能性があるとしても、それを証明することは不能』
『シミュレーションの内部にいる我々が、その事実を証明する実験を行うことは、原理的に不可能である』
読めば読むほど、鬱々しい気分になっていく。
ダメだ。
こんなもの、いくら読んでも答えは出ない。
やはり、八方塞がりだ。
俺が求めているのは、こんな堂々巡りの話じゃない。
いろいろと単語を変えて、検索をしていた、その時、ふと、一つのタイトルが目に留まった。
それは、他の学術的なタイトルや、扇情的な見出しとは、まったく毛色の違う、そっけないものだった。
『断章:資料室にて』
個人のブログか、あるいは、創作小説の投稿サイトか何かだろうか。
『シミュレーション仮説』の検索結果に、なぜこんなものが紛れ込んでいるのか、まったく分からなかった。
俺は、ついそのリンクをタップした。
表示されたページは、真っ白な背景に、黒い文字が並んでいるシンプルなサイトだった。
広告も、画像も、何もない。今時、珍しい個人サイトなのだろうか?
そして、そこには、信じられない内容が『記述』されていた。
『断章:資料室にて』
個人のブログか、あるいは、創作小説の投稿サイトか何かだろうか。
『シミュレーション仮説』の検索結果に、なぜこんなものが紛れ込んでいるのか、まったく分からなかった。
だが、俺は、そのタイトルから、目が離せなくなった。
まるで、その文字列自体が、俺に『読め』と命じているかのようだ。
俺は、何かに導かれるように、そのリンクをタップした。
表示されたページは、真っ白な背景に、黒い文字が並んでいるだけだった。
広告も、画像も、何もない。
そして、そこには、信じられない内容が『記述』されていた。
『放課後の資料室は、埃っぽく、紙の古い匂いがした。俺は、クラス委員のアカネに頼まれて、山積みになった古いファイル整理を手伝うことになった。
西日の差し込む窓は一つだけで、その光線が、空気中を舞う無数の塵を金色に照らし出している。棚に並んだ背表紙はどれも色褪せ、この部屋だけが、学校の喧騒から切り離されて、時間を止めているかのようだった』
……なんだ、これは。
俺は、息を飲んだ。
『アカネ』。
『資料室』。
まるで、どこかの小説の一節のようだ。
俺は、読み進めた。
『「ごめんね、いきなり。こんなこと頼んじゃって」
アカネが、申し訳なさそうに笑いながら、ファイルの束を棚に戻していく。彼女は、クラス委員としての、あの事務的な笑顔ではなく、どこかくだけた、親しげな表情をしていた。
「別に」
俺は、そっけなく答える。本当は、死ぬほど面倒くさい、と思っていた。なぜ俺が、こんな場所で、クラス委員の雑用を手伝わなければならないんだ』
俺は、スマートフォンを握りしめる手に、力が入りすぎていることに気づいた。
おかしい。
これは、おかしい。
なんだ、この文章は。
一瞬、たまたま、アカネという名前が被っただけだと理解していたが、だが、すぐにその考えは打ち砕かれた。
『死ぬほど面倒くさい』。
俺自身ですら、ついさっきまで明確に言語化できていなかった、俺自分がいかにも感じそうな曖昧な心の動き。
それが、一字一句違わずに、克明に『記述』されている。
これは小説なんかじゃない。
これは俺だ。
とても、これは他人が想像で書ける内容じゃない。
なぜなら、これは俺の『思考』そのものなのだから。
いや、しかし、ちょっと待てよ。
俺は、アカネと一緒に資料室に入っていない。
こんな会話はしていないはずだ。
少なくも、今、俺の記憶にある限りは。
俺は、恐怖に抗いながら、ページをさらにスクロールさせた。
そこには、俺が懸念していた、まさに俺らしい思考が続いていた。
『……なぜ俺が、こんな場所で、クラス委員の雑用を手伝わなければならないんだ。そもそも、これは担任の教師が、放課後残っていた俺とアカネを捕まえて「ついでに資料室の整理をしておいてくれ」と一方的に押し付けた仕事だった。アカネはクラス委員だから仕方ないにしても、なぜ俺まで巻き込まれなければならない。ただ教室で静かに時間が過ぎるのを待っていただけだというのに。断るのも面倒で、結局こうして付き合わされている。俺の内心の不満など知る由もなく、アカネは作業を続けている』
間違いない。
俺だ。
あの担任なら、絶対にやりそうだ。面倒な雑用を、たまたま近くにいた生徒に押し付ける。そして俺は、それに反論するエネルギーすら惜しいと感じ、「……はい」とか何とか言って、結局引き受けてしまうだろう。その後の思考のパターン、その諦念は、紛れもなく俺自身のものだ。
いかにもありそうなことだ。
俺は、指先の冷たさが増していくのを感じながら、さらに続きを読んだ。
『不意に、アカネが手を止めた。そして、彼女は埃っぽい棚に手を伸ばし、一冊の本を抜き取った。背表紙の文字は色褪せている。
――量子力学入門。
資料室の雑多なファイルの中にある本としては、どこか場違いな一冊だった。
「君、こういうの興味あるかなって思って」
アカネは、そう言って、その本を俺に差し出した。
「なんで、俺が」
「なんとなく。いつも窓の外見て、何か考えてそうだから」
アカネは屈託なく笑う。』
そこで、テキストは唐突に途切れていた。
『断章』というタイトルの通り、それは、ある場面の切り抜きでしかなかった。
だが、俺にとっては、それで十分すぎた。
全身の血が、急速に冷えていくような感覚。
これは、なんだ。
これは、一体、なんなんだ。
昨夜の『夢』は、まだ『夢』として、現実とは別のものとして処理することができたかもしれない。
だが、これは?
もし。
もし、明日、担任が俺を捕まえて。
あるいは、アカネが、俺のところにやって来て。
『資料室の整理を手伝ってほしい』
と、あの記事に書かれていた通りの状況になったら。
俺は、その時、どうすればいいのだろう?




