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ΨΩ  作者: 速水静香


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第四話:α3


 スマホのアラーム。その電子音が、眠っていた俺の意識を現実へと無理やり引きずり出していた。

 反射的に手を伸ばしてそれを止める。鳴り響いていた音が途切れると、部屋の中は、明け方特有の、まだ眠っているかのような静けさに戻った。

 俺は、ベッドの上で、仰向けになったまま、動けずにいた。

 全身が、ひどく重い。空気がうまく肺に入ってこない。


 まるで、一晩中、本当に何かから必死に逃げ続けていたかのように、筋肉の節々が鈍い疲労を訴えていた。額にはじっとりと汗が滲んでおり、寝間着が肌に張り付いて不快だった。


 夢だ。

 俺は、自分にそう言い聞かせた。あれは、ただの悪夢だ。

 だが、その言葉は、何の慰めにもならなかった。

 あの感覚が、まだ全身の皮膚にこびりついている。


 旧校舎の、カビと埃の匂い。

 アカネの、恐怖に引きつった甲高い声。

 彼女の手を引いて走った時の、あの必死さ。


 そして、何よりも、あの『顔のない』存在。


 首から上が、ごっそりと抜け落ちていた、不気味な存在。

 あれに捕まる寸前の絶望的な感触。『赤』。


 俺は、ゆっくりと自分の右腕を持ち上げた。そこには、もちろん、アカネが掴んだ跡など残っていない。当たり前だ。あれは夢だったのだから。

 けれど、夢の中のアカネは、あまりにも自然に、俺の隣にいた。彼女は俺を『君』などとは呼ばず、まるで長年連れ添った相手に対するように、気安く、親しげに話しかけてきた。あれは、俺が現実のクラス委員としてのアカネに抱いている印象とは、あまりにもかけ離れていた。


 あの『幼馴染』としてのアカネ。あの関係性こそが『本当』で、今、俺が思い出している教室でのアカネ――『クラス委員』として事務的に俺に接してきた彼女――の方が、むしろ、どこか不自然な、作られたものではないのか。

 そんな馬鹿げた考えすら、頭をもたげた。


 いや、本当に今の俺はどうかしている。

 そうだ、アカネは単なるクラスメイトであり、幼馴染などではない。

 俺は、重い身体を無理やり起こした。ベッドの端に腰掛け、しばらくの間、床の一点をぼんやりと見つめる。


 けれど、腑に落ちない感覚が全てを支配する。

 分からない。分からない。

 あの『顔のない女』は、『顔がない』という言葉でさえ、あれを正確に表してはいない。あれは、認識不能なものだった。

 だが、俺は、確かに、あれに『遭遇』した。では『あれ』はなんなんだ?

 俺は、自分の認識の足場が、どこか不安定な場所にあるような、不快な感覚に襲われた。


 ともかく、学校へ行かなければならない。


 俺は、いつものように、感情のない動作で制服に着替え始めた。



 その日の授業が、どのように進み、どのように終わったのか、俺にはほとんど記憶がなかった。

 先生の声も、教科書に印刷された文字も、すべてが、俺の意識からすり抜けていく。


 昨日の衝撃的な夢は、この現実を侵食していた。


 あのアカネと幼馴染である、という夢。いや、問題はそこじゃない。あの追いかけられた存在。

 不気味で、この世の終わりのような雰囲気と強く死を連想させる、夢の終わり方。

 本当に後味が悪い。

 忘れようとしても、忘れることができない。

 いや、忘れようと努力をすればするほど、それを思い出してしまう。

 そんなもどかしさ。

 いつものように、窓の外を見ていても、気が付くと、昨晩の夢の内容を思い出してしまう。


 ああ、とんでもない悪夢だった。


 気がつくと、最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。


 教室は、昨日と同じように、放課後の喧騒に包まれる。

 俺は、その騒がしさが過ぎ去っていくのを、ただじっと待っていた。

 アカネも、クラス委員としての仕事があるのか、早々に教室を出て行ったようだった。その姿を、俺は目で追わなかった。

 やがて、教室に残る生徒の数も、まばらになっていく。


 俺は、おもむろに、教室の反対側、右前方の席に視線を送った。


 ヒナギクが、いた。

 昨日と、まったく同じだった。

 彼女は、周囲の喧騒など一切意に介さず、机の上の文庫本――あの『論理哲学論考』――に、静かに視線を落としていた。その姿は、時間が停止しているかのようだった。

 俺は、立ち上がるべきかどうか、数秒間、逡巡した。


 あの悪夢のことを、他人に話すべきだろうか。

 もしかしたら、昨日、あの屋上で、『言語の限界』について語った彼女になら、あの夢についても何かを言えるかもしれない。

 いや、実際のところ、俺は、彼女に、あの体験を『言語化』してもらいたいのかもしれない。

 あれは、こういうことなのだと、彼女のあの冷徹な論理で、俺にも理解できる物語にしてもらいかった。そうすれば、俺は、あの得体の知れない恐怖から、少しは解放されるのではないか。


 俺は、椅子を引く音を立てて、立ち上がった。

 教室にわずかに残っていた生徒たちが、昨日と同じように、訝しげな視線をこちらに向けた。

 俺は、それを無視して、ヒナギクの机へと、まっすぐに歩いて行った。


 昨日と、同じだ。

 俺が机の横に立っても、彼女はすぐには顔を上げなかった。

 俺は、乾いた喉で、言葉を絞り出した。


「……話がある」


 いつもより、さらにぶっきらぼうな言い方になったかもしれない。


 ヒナギクは、昨日とまったく同じ緩慢な動作で本から顔を上げた。

 その感情の読めない黒い瞳が、俺を捉える。


 彼女は、何も言わなかった。

 ただ俺の言葉を待っている。

 俺は、周囲を一度見回した。まだ、数人の生徒が残っている。


「……ここでは、話せない」


 俺がそう言うと、ヒナギクは、小さく、ほとんど分からない程度に頷いた。

 そして、昨日と寸分違わぬ動作で、読んでいたページに栞を挟み、音もなく文庫本を閉じる。

 彼女は、無言で立ち上がり、教室の出口へと向かった。

 俺は、その後ろ姿を、昨日と同じように、数歩離れて追った。


 すべてが、昨日の再現のようだった。


 廊下に出て、階段を上る。

 最上階の、あのアルミ製のドア。

 ヒナギクが、当たり前のようにドアノブを回す。

 ガチャン、という金属音と共に、ドアが開いた。

 昨日と同じ、ごう、という強い風の音が、階段の吹き抜けに流れ込んできた。


 俺たちは、吸い込まれるように、屋上へと足を踏み入れた。



 屋上は、昨日と同じく、誰もいなかった。

 灰色のコンクリート。金網のフェンス。そして、どこまでも広がる空。

 地上の喧騒は、風の音に遮られて、遠く、現実味のないものになっていた。

 ヒナギクは、昨日とまったく同じ場所、フェンスの手前で立ち止まり、遠くの建物が連なる風景に目を向けた。その横顔は、やはり何の感情も示していなかった。

 俺は、彼女の数歩後ろで立ち止まり、どう切り出すべきか、言葉を探した。


 あの『夢』のことを、どう説明すればいい?


「……昨夜、夢を見た」


 俺は、そう切り出した。我ながら、ひどく陳腐な始まり方だと思った。

 ヒナギクは、こちらを振り向かない。ただ、聞いている、という気配だけが、その背中から伝わってきた。

 俺は言葉を続けた。


「夢の、はずなんだが……。ひどく、生々しい感覚だった」

「……」

「その……夢の中では、俺は、アカネと……クラス委員のあいつと幼馴染だった」


 その言葉を口にした途端、俺は、自分がひどく場違いな告白をしているような、妙な居心地の悪さを感じた。だが、もう止まれなかった。


「二人で、放課後の旧校舎を探検してたんだ。立ち入り禁止の古い校舎だ。もちろん、この学校に旧校舎なんてないけど……その夢の中にはあったんだ」


 俺は、あの薄暗い廊下の感触、カビと埃の匂いを思い出しながら、できるだけ客観的に、状況を説明しようと努めた。


「そしたら、そこに、何かが出た」

「……何か?」


 ヒナギクが、初めて、短い言葉を返した。


「ああ。……赤い服を着た女だった。だが……」


 俺は、そこで言葉を切った。

 最も重要な部分。なんというか、その言語化できない感覚。


「……そいつには、顔がなかった」

「顔がない」

「ああ。……いや、違うな。影になってるとか、そういうんじゃない。そこにあるはずの、『顔』っていう情報そのものが、抜け落ちてた。そこだけ、何もなかったんだ。黒く塗りつぶされてるのとも違う。……『無』、としか言いようがない」


 俺は、自分の語彙の貧弱さを呪った。だが、それ以外に、あの状態を表現する言葉が見つからなかった。


「俺の目は、確かにそイツを捉えてるのに、首から上の部分だけ、俺の認識では追いつかないもので、いやまったく表現ができないんだが……。その、分かるか?」

「……」

「そいつに追いかけられて、最後は……捕まった。その瞬間に、目が覚めた」


 俺は、そこまで一気に話し終えると、荒くなった息を整えた。

 風の音が、やけに大きく聞こえる。

 俺は、ヒナギクの答えを待った。


 彼女は、どうせ『それはただの夢だ』とか『疲れているだけだ』とか、そういうありきたりの答えを返すのだろうか。あるいは、彼女の哲学に従って『言語化できないものは存在しないのだから、あなたの夢という世界では、完全に表現できなかった』とか、そんな感じの解釈をするのだろうか。


 数秒間の沈黙の後、ヒナギクは、ゆっくりとこちらに振り向いた。


 その黒い瞳が、真っ直ぐに俺を見据えている。

 彼女の唇が、わずかに開いた。


「……荘子」

「え?」

「荘子は、夢で蝶になった」

「……胡蝶の夢、か」


 俺は、その言葉にかろうじて反応した。古典の授業か何かで、聞きかじった程度の知識だ。


「……それが、どうしたんだ。俺の夢と、何か関係が?」


 俺の問いに、ヒナギクは、こちらを振り向かないまま、その故事の核心を、ただ事実を『記述』するかのように淡々と口にした。


「荘周は、夢で蝶になった。目が覚めた時、彼には分からなかった」

「……分からなかったって、何がだ?」

「自分が蝶になった夢を見ていたのか。それとも、蝶が、今、自分になっている夢を見ているのか」


 ヒナギクによって提示された、その純粋な問い。その言葉が、俺の頭の中で、昨夜の体験と結びついた。俺が荘周で、アカネとのあの体験が『蝶』だというのか。


「……つまり、あなたの昨夜の体験も、それと同じだと言いたいのか? あの『夢』と、この『現実』。どっちが本当か分からない、って……そういう話か?」


 俺がようやくたどり着いたその問いを、ヒナギクは、静かに、しかし、きっぱりと否定した。


「問いが、違う」

「……どういうことだ。意味がないって、どういう……」

「あなたは、二つの体験をした。それだけ」


 彼女の言葉は、あまりにも簡潔で、俺の混乱を、まるで切り捨てるかのようだった。


「一つは、この教室と屋上が存在する世界。あなたは、それを『現実』と呼んでいる。もう一つは、アカネが『幼馴染』で、『顔のない女』が出現する世界。あなたは、それを『夢』と呼んでいる」

「待て。待ってくれ。それはおかしいだろ」


 俺は、彼女の論理に、必死で食い下がろうとした。

「あれは『現実』じゃない。ただの夢だ。だって、朝になったら目が覚めたし、旧校舎なんてここにはない。それに、あんな『顔のない』やつ、なんて……」

「なぜ、断言できる?」


 ヒナギクの言葉が、俺の反論に鋭く割り込んだ。


「……え?」

「あなたが、今、ここに立っている、この世界。これが『本体』であり、絶対的な『現実』であると。なぜ、そう言い切れる? 昨夜の体験こそが『本体』で、今この瞬間が、その『本体』が見ている、束の間の『夢』である可能性は?」


 俺は、その問いに、言葉を失った。

 そんな馬鹿な。

 この風の感触も、コンクリートの硬さも、目の前にいるヒナギクの存在も、すべてが、俺の『現実』を構成している。

 だが、昨夜のあの『夢』もまた、アカネの手の感触や、旧校舎の空気、そして、あの圧倒的な恐怖が、現実と同じくらいの、あるいは、それ以上の生々しさで、俺の身体に刻み込まれていた。


「……そんなのは、ただの言葉遊びだ。屁理屈だろ」


 俺は、やっとの思いで、そう反論した。


「そう思うなら、証明すればいい」

「証明?」

「今、あなたが体験している、この世界。これが、何かの『夢』や『虚構』ではなく、唯一絶対の『本物の現実』であるという、完全な証明。あなたに、それができるか?」


 ヒナギクの体温のない声が、屋上の風に乗って、俺の耳に届く。

 完全な証明か。

 現実には、感覚がある。

 俺が、これは現実だ、と感じている。その『感覚』そのもの。いやこれは、証明にはならない。なぜなら、昨夜の『夢』もまた、俺に強烈な『現実』の感覚を与えていたのだから。


 いや、他に――何かないだろうか?


 俺が、ヒナギクの問いに答えられずにいると、彼女は、さらに言葉を続けた。


 その口調は、淡々としたまま、変わらない。


「シミュレーション仮説」

「……シミュレーション? ああ……」


 俺は、その言葉にも聞き覚えがあった。ネットの解説動画かなんかで知った、付け焼き刃の知識だ。

「それも聞いたことあるぞ。この世界が全部、コンピュータの中のプログラムみたいなもので、俺たちはその中の登場人物にすぎない、みたいな……?SFっぽいやつか」

「SF、ではない。哲学、物理学の問い」


 ヒナギクは、俺の浅い理解を静かに訂正した。


「仮に、そうだとして。それが、今の話と何の関係があるんだ?」

「証明不能」

「……え?」

「もし、私たちが『シミュレーション』の内部にいるとしたら」


 ヒナギクは、俺がぼんやりとしか理解していなかった概念を、正確な言葉で『記述』していく。

「私たちは、その『シミュレーション』の内部にいる。私たちは、この世界の物理法則や、ルールに従って、思考し、行動しているに過ぎない。その内部から、その世界が『作られたもの』であることを、この世界の内部の論理だけを使って、証明することも、あるいは、否定することも、原理的には不可能」


 ヒナギクの言葉は、ゆっくりと、しかし、確実に、俺の思考を侵食していった。

 『胡蝶の夢』と『シミュレーション仮説』。

 彼女が提示した二つの話が、俺の中で、一つの、恐ろしい結論へと結びついていく。


「……つまり」


 俺は、自分の理解を、確かめるように口にした。


「つまり、俺の見たあの『夢』と、今俺が立っているこの『現実』。そのどっちが本物で、どっちが偽物かなんて、そもそも……比べようがないし、証明もできないって、そういうことか?」

「……」


 ヒナギクは、答えなかった。

 だが、その沈黙は、何よりも雄弁な肯定だった。


 彼女の言っていることは、つまり、こういうことだ。


 俺が体験した、あの『顔のない女』のいる世界。

 そして、今、俺が立っている、この屋上の世界。

 その問い自体が、無意味だ。

 なぜなら、俺が『本物』だと信じている、この世界そのものが、『偽物』である可能性を否定も肯定も、俺は、決してできないからだ。


「……じゃあ」


 俺は、かすれた声で言った。


「じゃあ、どうすればいいんだ。俺は、何を信じればいい? あの『夢』も、この『現実』も、どっちも同じくらい、不確かなものだっていうのか」

「私は、信じろとは言っていない」


 ヒナギクは、静かに首を振った。


「ただ、事実を述べただけ。あなたが『現実』と呼ぶものの、絶対性を証明することは、不可能。……それだけ」


 彼女は、それ以上、何も言わなかった。


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