第三話:β1
「もう、早く行こうよ。誰もいなくなっちゃう」
快活な声が、俺の沈み込んでいた思考の表面を弾き、意識をその声の主へと引き戻した。
すぐ隣には、アカネが立っていた。
彼女は、俺の右腕を、まるでそれが息をするのと同じくらい当然の権利であるかのように、気安く掴んでいる。制服のブレザー越しに、彼女の体温がじわりと、確かな熱量を持って伝わってきていた。その感触は、心地よい重みとなって、俺の存在をこの場所に繋ぎ止めているようだった。
「ぼーっとしてないで。ほら、こっちだって」
アカネはそう言って、俺の腕を軽く引いた。
俺は、その力に、何の抵抗もなく従って歩き出す。彼女の歩調に合わせるように、俺の足が、ほとんど自動的に一歩を踏み出す。
放課後の、誰もいなくなった校舎。
それが、俺たち二人にとっての、いつもの『探検』の始まりだった。
なぜ俺たちがこんなことをしているのか、その明確な目的を、俺は言葉にできなかった。ただ、授業という名の退屈な時間が終わり、他の生徒たちが部活や帰路へと散っていく中、このがらんどうになった空間を、二人だけで歩き回ること。それが、俺と彼女の間で共有された、暗黙の、しかし何よりも優先されるべき習慣となっていた。
窓の外は、すでに強い西日もその勢いを失い、空は燃えるような赤から、深い群青色へとその表情を変えつつあった。世界全体が濃い青と赤の間の、何とも名状しがたい曖昧な色調に沈み始めている。教室の窓ガラスには、空のその色が鈍く反射し、廊下には俺たちの二つの足音だけが、不自然なほど大きく響き渡っていた。コツ、コツ、というアカネのローファーの音と、それよりわずかに重い俺のスニーカーの音。その二つのリズムが、揃ったり、ずれたりしながら、静寂をかき分けて進んでいく。
アカネは、俺の数歩先を行きながら、時折、楽しそうに振り返った。そのたびに、明るい色の髪がふわりと揺れる。
「あ、そういえば、さっきの小テスト、全然ダメだったかも。君はどうだった?」
「……さあな。覚えてない」
「もう、またそんな感じ。答案用紙に名前書くの忘れてたんじゃないでしょうね? ちゃんと勉強しないと、また二人して補習になっちゃうよ?」
彼女は、悪戯っぽく笑いながら、軽く舌を出した。
その仕草、その口調、その距離感。
俺と彼女の間には、それが許されるだけの、長い時間が積み重なっている。そういう、当たり前の関係。このアカネと二人きりでいる時の、この不思議な安心感。これが、俺にとっての『普通』だった。彼女の隣にいること、こうして放課後の校舎を歩くこと。それが、俺たちの日常であり、世界そのものだった。
俺は、このアカネとの関係を、『幼馴染』なのだと、何の疑問もなく受け入れていた。それが、この世界の揺るぎない事実であり、俺の存在理由であるかのように、深く根付いていた。それで、何も問題はなかったし、これからもないはずだった。
俺は、隣で笑うアカネの顔を盗み見た。彼女は、俺の視線に気づくと、不思議そうに小首をかしげる。彼女にとって、俺がここにいることは、空が青いのと同じくらい、自明のことなのだ。
「今日は、どこまで行く?」
アカネが、次の目的地を促すように、俺の顔を覗き込んできた。
「そうだな……。あそこは、どうだ」
俺が指差したのは、廊下の突き当たり、旧校舎へと続く渡り廊下だった。
そこへの鉄の扉は、いつも錆びついた南京錠で固く閉ざされ、生徒の立ち入りが固く禁じられている。少なくとも、表向きは。
アカネは、俺の提案に、一瞬だけ不安そうな表情を見せた。その瞳が、わずかに揺れる。「えー、あそこ、ちょっと……。幽霊が出るって噂、知らないの?」と口ごもる。
だが、それはすぐに、いつもの好奇心に満ちた強い光に取って代わられた。
「……賛成。もしかしたら、何か面白いものが見つかるかもね。でも、先生に見つかったら、今度こそ本気で怒られるかも」
「見つかる前に戻ればいい」
「それもそっか」
俺たちは、廊下の突き当たりにある、その古びた鉄の扉の前に立った。
予想通り、南京錠はかかっていなかった。それどころか、扉は、まるで俺たちが来るのを待っていたかのように、わずかに開いていた。
その隙間からは、新校舎とは明らかに異なる空気が、澱のように流れ出してきている。
俺たちは、どちらからともなく、顔を見合わせ、頷いた。そして、足音を忍ばせるようにして、その薄暗い渡り廊下へと足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れただけで、ひんやりとした空気が肌を撫でた。そして、カビと、古い木材と、堆積した埃が混じり合った、独特の匂いが鼻をついた。新校舎の、どこか人工的で建築資材の匂いがかすかに残る清潔さとは、まったく違う。
窓が少ないせいで、ただでさえ弱まっていた夕暮れの光も、ここではほとんど届かなかった。俺たちの周囲は、急速に暗がりへと変わっていった。濃い群青色の闇が、廊下の隅々に溜まっている。
俺は、この状況に、奇妙な高揚感を覚えていた。
アカネという存在が隣にいることで、俺はこの状況の『当事者』になっている。そんな感覚。この薄暗がりも、不気味な静けさも、彼女と共有している限り、それはただの『探検』の要素に過ぎなかった。
旧校舎の廊下は、静まり返っていた。
俺たちの足音すらも、床に積もった分厚い埃の層に吸い込まれてしまうかのように、鈍く、湿った音に変わる。
並んだ教室の扉は、どれも固く閉ざされている。そのすりガラスの向こうは、深い闇に沈んでいて、何も見通すことはできない。かつて、ここでも、俺たちが今いる教室と同じように、授業が行われ、生徒たちの声が響いていたのだろうか。その痕跡は、今やどこにも感じられなかった。
俺たちは、手近な教室の扉に手をかけた。
『二年C組』。プレートの文字が、半分消えかかっている。
ギィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げた。
中は、予想通りの暗闇だった。だが、窓から差し込むわずかな残光が、教室の惨状をぼんやりと浮かび上がらせていた。
机も椅子も、乱雑に積み上げられ、その多くが埃をかぶって白っぽくなっている。壁には、意味不明な落書きと、剥がれかけた掲示物の残骸。黒板には、チョークで書かれたまま消されなかった、判読不能な文字が残っていた。
まるで、ある日突然、ここにいた人々が、すべてを放り出して消えてしまったかのような光景だった。
「うわ……。なんか、すごいね」
アカネが、俺の袖を掴みながら、小声で呟いた。
「ああ」
俺たちは、それ以上、中へ入ろうとは思わなかった。そこは、すでに俺たちの知っている『学校』という場所の法則が、通用しない異界のように感じられた。
さらに廊下を進む。
次の教室は『理科準備室』だった。
扉には鍵がかかっていたが、覗き窓のガラスが割れており、そこから中を窺うことができた。
棚には、薬品の瓶らしきものが、無秩序に並んでいる。そのいくつかは倒れ、中身がこぼれたのか、床に黒いシミを作っていた。隅には、埃をかぶった人体模型が、こちらに背を向けるようにして立っている。
その模型が、不意に、ギシリ、と音を立てて、わずかに動いたような気がした。
「……今の、見た?」
アカネの声は緊張していた。
「……気のせいだ。古い建物だから、床が鳴っただけだろ」
俺は、そう答えながらも、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
アカネは、それまでの快活さとは裏腹に、すっかり口数が減っていた。彼女は、俺の腕ではなく、今は俺の制服の袖の端を、不安げに、しかし強く掴んでいる。その指先が、小さく小刻みに震えているのが、布地越しに伝わってきた。
「……ねえ、やっぱり、戻らない? なんだか、嫌な感じがする。さっきから、誰かに見られてるような……」
「……そうだな。もう少し先まで行ったら、戻ろう」
俺は、アカネを安心させるように、努めて平坦な声で言った。だが、俺自身もまた、この旧校舎の異様な空気に、精神を圧迫され始めていた。『見られている』というアカネの感覚は、俺にも分かった。この空間全体が、一つの巨大な目で、俺たちを観察しているかのようだ。
俺は、そんな彼女を守るように、無意識に一歩前に出ていた。彼女と暗がりの間に、自分の身体を割り込ませる。
それが、この世界での俺の当然の行動だった。アカネが怖がるものを、俺が取り除かなければならない。それが、俺たちの間の言葉にされない約束だった。
その時だった。
廊下の突き当たり、その先。
旧校舎の、さらに奥へと続く階段の手前の、一番暗くなっている空間。
闇が、そこだけ、不自然に濃くなっているように見えた。
「……ねえ」
アカネが、俺の袖を掴む指先に、ぐっと力を込めた。爪が食い込むほどの強さだった。
彼女の声は、か細く、ほとんど息のようだった。震えている。
「あそこ」
彼女の視線の先を、俺も追った。
闇。
何も見えない。いや、違う。
まず俺の目が認識したのは、その『色』だった。
周囲の沈んだ青や黒とは、まったく相容れない、鮮やかな『赤』。
その『赤』が、人のかたちをしていることに気づくまでに、数秒かかった。
俺たちとそう変わらない背格好。
じっと、こちらを向いて、動かずに立っている。
放課後の、しかも立ち入り禁止の旧校舎に、生徒がいるはずがない。教師が見回りに来ているにしては、その服装はあまりにも不自然だ。あの『赤』は、まるで、血のように、あるいは、警告色のように、暗闇の中で浮き上がって見えた。
アカネが、俺の後ろに隠れるように、背中に顔を押し付けてきた。彼女の身体が、はっきりと震えているのが分かった。
「……誰か、いる」
俺は、アカネをかばうように、その赤い服の人物との間に、立ちはだかった。
そして、その存在の異常さに、ようやく気がついた。
近づいたわけではない。距離は、まだ十数メートルはあった。
だが、はっきりと分かった。
何かが、決定的に間違っている。
赤い服。細い手足。それはいい。
だが、その『顔』があるべき場所。
そこが、認識できなかった。
影になっていて見えない、とか、俯いている、とか、長い髪で隠れている、とか、そういう、ありふれた理由ではない。
そこにあるはずの『情報』が、まるで、綺麗にくり抜かれたかのように、欠落していた。
黒く塗りつぶされている、というのとも違う。そこには『黒』という色すら存在しない。
『無』だ。
俺の視線が、そこに着地しようとすると、そこへの認識そのものが、そこを通過することを許されない。
俺の目は、確かにその赤い服の人物を捉えている。そのシルエット、その衣服の質感までは、ぼんやりとだが認識できる。しかし、首から上の部分だけ、俺の知っている、この『世界』から、完全に消去されていた。
この薄暗い廊下で、今、俺の目の前にいる、これは何だ?
『顔のない女』。
俺が、それを『顔のない女』だと認識した、その瞬間。
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
恐怖。
あれが、俺たちに危害を加えるかもしれない、というような、動物的な恐怖。
あれは、俺たちがこれまでに遭遇したどんなものとも違う。理科準備室の人体模型や、教室の荒廃した風景が喚起するような、雰囲気的な怖さではない。
あれは『実在』し、そして、明らかに『敵意』を持って、そこに『在る』。
その圧倒的な不条理。
その事実に、俺の精神が耐えられなかった。
論理が、常識が、俺がこの世界で培ってきたすべての前提が、音を立てて崩れていく。
背後で、アカネが「ひっ」と息を飲む音がした。
あの『顔のない』存在が、ゆっくりと、こちらに来ていた。
いや、それは歩行ではない。だからといって浮遊というものでもない。
なぜなら、その『顔のない』存在は、ほとんど身動きをしていないのだから。
それは瞬間移動のようにすら見える。コマ送りの動画を再生しているかのように、俺が瞬きをする一瞬の間に、それは場所を移動をしている。
こちらに近づく方向で。
それは確かに、俺たちとの距離を縮めていた。
「……っ!」
俺は、考えるよりも先に、掴まれていたアカネの袖ではなく、その手首を強く掴み返していた。
「逃げるぞ!」
俺の喉から、自分でも驚くような、しわがれた声が出た。
アカネは、恐怖に足がすくんでいるようだった。
「だ、でも……っ」
「いいから、走れ!」
俺は、彼女の手を、力任せに引いた。
俺たちは、背を向けた。
それが、致命的な過ちであったと、なぜ、あの時気づかなかったのだろう。
振り向いた瞬間、あの赤い服の『顔のない』存在は、廊下の突き当たりではなく、俺たちの数メートル後ろ――さっきまで俺たちがいたはずの『二年C組』の教室のドアの前に移動していた。
いつの間に。どうやって。
でも、考える暇はなかった。
「きゃあああああっ!」
アカネが、純粋な絶叫を上げた。
『顔のない女』は、また、こちらへ進んだ。その『顔』のない空白が、まるで、俺たちの恐怖を吸い込むかのように、不気味に、そこに『在る』。
「こっちだ!」
俺は、アカネの手を引き、来た道とは反対側、さらに奥の階段へと向かって駆け出した。だが、そちらは行き止まりだったはずだ。思考が混乱している。
いや、違う、戻るんだ。新校舎へ。
俺は、強引にアカネの身体を反転させ、今度こそ、渡り廊下へと続く、来た道を引き返す形で走り出した。
埃っぽい廊下を、二人の足音が、パニックのように不規則に響く。
ギシ、ギシ、と古い床板が、俺たちの体重に悲鳴を上げる。
背後は、見ない。
見る勇気がなかった。
だが、感じる。
あの『赤』が、俺たちのすぐ後ろにいる、そして、あれは圧倒的な存在感で追ってきている。
あれは、俺たちの背中を、すぐそこまで追い詰めている。
「やだ、やだ、やだっ!」
アカネが、半ば泣きながら、それでも必死に足を動かしている。
「くそっ!」
俺は、悪態をつきながら、さらに速度を上げようとした。
渡り廊下への鉄の扉が、もうすぐそこに見えてきた。
あの扉さえ抜ければ。新校舎の、明るい、俺たちの知っている『現実』に戻れる。
新校舎へ戻れば、絶対に安全だ。そんな根拠のない絶対的な自信があった。
あと、十メートル。五メートル。
俺は、アカネを先に押し出すようにして、鉄の扉に手をかけた。
その時だった。
扉が開かない。
俺たちが開けて入ってきたはずの扉が、溶接でもされていたかのように、びくともしない。
「なんで……っ! 開け、開けよ!」
俺は、ドアノブをガチャガチャと回し、全体重をかけて扉を押した。だが、無駄だった。
背後で、アカネの呼吸が、ヒュッと止まる音がした。
俺は、ゆっくりと、振り返った。
そこには、誰もいなかった。
旧校舎の薄暗い廊下が、どこまでも続いているだけだ。
あの『赤』は、消えていた。
「……消えた? 逃げ切ったのか?」
俺が、安堵の息を漏らしかけた、その瞬間。
「……うしろ」
アカネが、俺の背後、俺がもたれかかっている鉄の扉を指差して、そう呟いた。
俺は、自分が、何に背中を預けていたのかを理解した。
鉄の扉だと思っていた、その冷たく、硬い感触。
それは、扉ではなかった。
俺は、振り向かなかった。
いや、振り向けなかった。
俺の背中、そのすぐ後ろに、『それ』は立っていた。
そして、俺の視界の端から、ゆっくりと、あの鮮やかな『赤』が回り込んできた。
それの感触、それが俺の視界いっぱいに広がっていく。
アカネの声にならない悲鳴が、遠くで聞こえた気がした。
その瞬間、世界が裏返った。




