第二話:α2
俺は、まだ席を立てずにいた。
日課として、この喧騒が完全に去るのを待っていた、というのも理由の一つだ。
しかし、それだけではなかった。先ほどのアカネの、あの最後の問いが、思考の表面に張り付いて離れなかった。
『いつも、何見てるの?』
あの言葉は、それまでのクラス委員としての事務的なやり取りとは、明らかに異なるものを持っていた。彼女の立場からわずかに逸脱した、個人としての興味。それは、俺が最も回避してきたはずのものだったはずの。
――俺は、一体何を見ているのか。
窓の外の、何もかもが分かりきった風景か。教室内の、予測可能な人々の動きか。あるいは、そのどちらでもない、この俺の世界全体を覆っている、リアリティの薄い感触そのものか。
何を見ている?
答えは、出ない。答えが出ないというより、その問い自体が、俺の中で、うまく処理できないもののように感じられた。
どれだけの間、その問いに意識を沈めていたのだろう。
俺は、その答えのない自問から逃げるように、窓の外から教室の中へと視線を戻した。
あれだけ騒がしかった教室の空気は、俺が思考している間にすっかり水が引いたようにその密度を失っていた。アカネが教室を去った時にはまだいくつかのグループが残っていたはずだが、今やその大半は消え、教室の後方に三、四人の集まりが一つ、最後の話し声を発しているだけだ。それも時間の問題だろう。ほとんどの机は空になり、持ち主を失った椅子が不揃いな角度で並んでいる。
その、がらんどうになりつつある教室の片隅に、その集団とは別に、まだ一人の生徒が残っていることに、俺は気づいた。
ヒナギクだった。
彼女は、俺とは反対側、教室の右前方、窓際から二番目の席に座っていた。
彼女もまた、この教室においては『孤立』している存在だった。俺が意図的に他者を拒絶しているのとは少し異なり、彼女の場合は、まるで最初からそこにいないかのように、周囲の生徒たちの意識からも除外されている節があった。
細い体。色素が薄く、どこか病的なほどに白い肌。切りそろえられた黒髪は、彼女の動作に合わせて揺れることもなく、整然と肩にかかっている。制服は、着崩すという概念すら知らないかのように、隙なく着用されていた。
彼女は、机の上に置かれた一冊の文庫本に目を落としていた。その姿勢は、授業中と何ら変わりがなかった。放課後の解放感も、周囲の雑談も、彼女には一切関係がないようだった。彼女の周囲だけ、空気が張り詰めているようにさえ見える。
俺は、彼女と言葉を交わした記憶がほとんどない。彼女が誰かと親しげに話しているところも、笑っているところも、あるいは怒っているところも見たことがなかった。彼女の顔は、表情という機能が備わっていないかのように、常に平坦だった。
彼女もまた、俺と同じく、この教室のやり取りに参加していない。だが、俺が他者と距離を置いているのに対し、彼女は一体、何者なのだろうか。
俺の視線は、彼女が手にしている文庫本に引き寄せられた。
距離があるため、最初ははっきりと分からなかったが、俺が目を凝らすと、その背表紙の文字が、かろうじて読み取れた。
『論理哲学論考』
その文字列を認識した瞬間、俺の思考がわずかによどんだ。
ウィトゲンシュタイン。数日前に、第一希望として適当に書きなぐった『哲学科』という言葉と、その書名とが、予期せぬ形で結びついた。もちろん、俺はその本を読んだことはない。ただ、哲学の入門書か何かを流し読みした際に、おそろしく難解な書物として紹介されていたのを覚えていただけだ。世界と言語の関係について、極端なまでに突き詰めた内容だったはずだ。
なぜ、彼女が、今、ここで、そんなものを読んでいる?
彼女の徹底した孤立。表情の欠如。そして、あの難解な哲学書。
バラバラだった情報が、俺の中で一つの像を結び始めようとしていた。彼女もまた、俺が感じているのと同じ、あるいはそれ以上に強烈な、この世界に対する言いようのない違和感や、根本的な問いを抱えているのではないか。そして、その答えを、あの古い哲学書の中に見出そうとしているのではないか。
その考えが浮かんだ途端、俺は、普段の自分からは考えられないような強い衝動に駆られた。
彼女と話してみたい。
彼女が、その本から何を得ようとしているのか、知りたい。
『面倒』だとか、そういった、これまで俺を守ってきたはずの思考の枠組みが、アカネの問いによってわずかに緩んでいたのかもしれない。そこへ、ヒナギクと『論理哲学論考』という組み合わせが、的確に差し込まれた。
俺は、ほとんど無意識のうちに椅子を引いて立ち上がっていた。
まだ教室に残っていた数人が、その物音に気づいてこちらを一瞥した。普段、放課後に誰かに話しかけに行くことなどない俺の行動は、彼らの目には不可解に映っただろう。だが、今の俺には、彼らの視線を気にする余裕はなかった。
俺は、自分の机から、ヒナギクの机へと、教室を斜めに横切って歩み寄った。
彼女の机の横で立ち止まる。
彼女は、俺が来たことに気づいているはずだったが、顔を上げようとはしなかった。ただ、静かに文庫本のページに視線を落とし続けている。
俺は、何と言葉を発すればいいのか分からず、数秒間、黙って彼女を見下ろしていた。
やがて、俺の口から、乾いた声が漏れた。
「……それ、『論理哲学論考』か」
俺の声に、ヒナギクは、ようやくゆっくりと本から顔を上げた。
間近で見る彼女の瞳は、その黒髪と同じくらい色が濃く、そして、何の感情も映していなかった。ただ、俺という存在を、物体を認識するかのように、静かに捉えている。
彼女の唇が、わずかに開いた。
「そう」
短く、体温のない声だった。肯定。それ以上でも、それ以下でもない。
会話が、途切れた。俺は次の言葉を探さなければならなかった。
「……なぜ、そんなものを」
俺の問いは、主語も目的語も欠落していた。だが、彼女には通じたようだった。
ヒナギクは、俺の顔と、俺の後方に残っている他の生徒たちとを、順に見比べた。そして、再び俺に視線を戻した。
「……ここでは、話せない」
「え?」
「場所。変える」
彼女はそれだけ言うと、読んでいたページに栞を挟み、音もなく文庫本を閉じた。そして、俺の返事を待つこともなく、静かに椅子から立ち上がった。その動作には、一切の迷いがなかった。
俺は、彼女の予期せぬ提案に戸惑いながらも、無言で頷いた。
ヒナギクは、鞄も持たず、その文庫本だけを手に、教室の出口に向かって歩き出す。俺は、慌ててその後を追った。
教室に残っていた生徒たちの視線が、俺たち二人に突き刺さるのを感じた。このクラスで最も孤立した二人が、連れ立って教室を出ていく。彼らの『日常』という台本にはない、不可解な場面だったに違いない。
◇
廊下に出ても、ヒナギクは何も言わなかった。
彼女はただ、昇降口とは反対方向、校舎の奥へと続く階段に向かって、一定の歩調で歩いていく。俺は、彼女の数歩後ろを、距離を保ったままついていった。
放課後の廊下は、部活動へ向かう生徒たちでそれなりに騒がしかったが、彼女はその流れに逆らうように、真っ直ぐに進んでいく。
やがて、最上階へと続く最後の階段が見えてきた。
俺たちの学校では、屋上は生徒の安全管理のため、ということになっているのか、常時施錠されているはずだった。少なくとも、表向きはそうなっていると聞いていた。
ヒナギクは、その階段を躊躇なく上り始めた。
俺も、それに続く。
踊り場を抜け、屋上へと続く、アルミ製のドアの前にたどり着く。そこには、予想通り、『関係者以外 立入禁止』と書かれた色褪せたプレートがぶら下がっていた。
俺が、施錠されているであろうそのドアを前にして立ち尽くしていると、先に着いていたヒナギクは、当たり前のような手つきで、そのドアノブに手をかけた。
ガチャン、という音がして、ドアはあっさりと開いた。
どうやら、施錠されているというのは建前だけで、実際には誰でも出入りできる状態になっているらしかった。あるいは、彼女だけが、ここが開いていることを知っていたのか。
ドアが開くと、遮られていた外の空気が、ごう、という音を立てて階段の吹き抜けに流れ込んできた。
ヒナギクは、開いたドアの隙間から、先に屋上へと足を踏み入れた。俺も、その後に続いた。
屋上は、広かった。
灰色のコンクリートが敷き詰められた床。周囲は、俺の背丈よりも高い、頑丈な金網のフェンスで囲まれている。他には何もない、殺風景な空間だ。
しかし、ここには、教室にはないものが一つだけあった。遮るもののない、広大な空だ。
地上での喧騒は、ここまで登ってくると、ずいぶん遠くから聞こえてくる、一種の背景音のように変化していた。風の音の方が、よほど強く耳につく。
誰もいない。俺と、彼女の二人だけだ。
ヒナギクは、フェンスのそばまで歩いていくと、そこで立ち止まった。彼女は、フェンスの網目に指をかけるでもなく、地上を見下ろすでもなく、ただ、目の前のフェンス越しに、遠くの空と建物の連なりを、じっと見つめているようだった。その姿は、整然とした制服と相まって、まるでこの場所に最初から設置されていた何かのようにも見えた。
俺は、彼女から少し離れた場所で立ち止まり、どう切り出すべきか考えあぐねていた。
沈黙を破ったのは、またしても俺の方だった。
「……さっきの続きだけど」
「……」
「なぜ、あの本を読んでるんだ。あんな難解なものを」
俺の問いに、ヒナギクは、こちらを振り向かないまま答えた。
その声は、風の音にかき消されそうになりながらも、不思議と明瞭に俺の耳に届いた。
「世界を知るため」
「世界を? ……哲学書で、世界が分かると?」
俺の言葉には、自分でも気づかないうちに、わずかな皮肉がこもっていたかもしれない。だが、ヒナギクは、そんなことには頓着しないようだった。
彼女は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
その表情のない瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」
彼女の口から発せられたのは、俺の問いへの直接的な答えではなく、一つの命題だった。
それは、まさしく、あの『論理哲学論考』の中で最も有名とされる一節だった。
俺は、その言葉の意味を、知識として知ってはいた。だが、それを他人の肉声として、こんな場所で聞かされることになるとは思ってもみなかった。
「……どういう意味だ」
俺は、知っているにもかかわらず、そう問い返していた。俺が知りたいのは、その言葉の辞書的な意味ではない。彼女が、それをどういう意図で口にしたのか、だった。
ヒナギクは、淡々とした口調で続けた。彼女の言葉は、誰かに教え諭すものではなく、ただ、事実を『記述』していくかのように、一つ一つ、空間に置かれていった。
「言葉にできないものは、存在しない」
「……」
「私たちは、言語によってのみ、思考する。言語で規定できないものは、思考することすら、できない」
「……」
「だから、私たちが『世界』と呼んでいるものは、私たちが『言語』によって記述できる範囲のもの。それ以上でも、それ以下でもない。私たちの言語が貧弱なら、私たちの世界もまた、貧弱」
彼女の言葉は、ハンマーで釘を打ち込むように、簡潔で、断定的だった。
俺は、その言葉の持つ、冷徹なまでの論理性に、息を詰まらせそうになった。
俺が、これまでずっと感じてきた、この世界に対する漠然としたリアリティの欠如。触れられない、どこか遠い場所にあるような感覚。
アカネに『何を見ているのか』と問われ、答えられなかった、あの正体不明の何か。
ヒナギクの論理に従うならば、それらはすべて、俺がそれを的確に『記述』する『言語』を持っていないから、ということに過ぎない。そして、言語化できない以上、それは俺の『世界』には存在しないもの、あるいは、まだ『ない』ものとして扱われる。
俺が感じていた、あの言いようのない不安。その正体の一端に、今、触れたような気がした。
それは、この世界が、俺の認識の外側に、何か得体の知れない広大な領域を持っていることへの恐怖などではなかった。
逆だ。
この世界は、俺が『言語』で認識できる、驚くほど狭く、制限された範囲でしか『ない』のかもしれない。俺たちは、生まれながらにして『言語』という檻の中にいて、その檻の格子越しに見えるものだけを『世界』と呼んで、安心しているに過ぎないのではないか。
俺が眺めていた世界も、所詮は俺の持つ貧弱な『言語』――『教師』『同級生』といった言葉――によって記述された、ひどく単純化された世界でしかなかった。
俺は、目の前の少女を見つめ直した。
彼女は、表情一つ変えず、ただそこに立っている。彼女は、その『言語の檻』の存在に自覚的であり、その限界を知るために、あの哲学書を読んでいる。
俺は、この目の前の彼女に底知れないものを感じた。




