第十三話:δ4
「……え?」
俺の喉から、間の抜けた声が漏れた。
どういう意味だろうか?
「あなたは、まだ、『観測者(ΨR)』を、あのコペンハーゲン解釈が、そうしたように特権的な安全な場所に置いているわ」
アカネの声は、風の音にかき消されることなく、不思議な明瞭さで、この空間の空気を震わせていた。
「自らを、この物理法則の外側にいる、絶対的な存在だと、無意識のうちに仮定している。……自分が『観測』する側であり、決して『観測される』側には回らない、安全な立場にいると、信じ込んでいる。……その傲慢さこそが、あなたが、この世界の『真実』から目をそらし続けている、最大の理由よ」
傲慢さ。
それは、俺が、あの『コペンハーゲン解釈』というものに対して、抱いた不快感そのものだった。人間が世界を『確定』させるという、あの自己中心的な考え方。
「私たちが依拠する『関係性量子力学』のモデルを、あなたは、まだ本当の意味では、理解していないわね」
彼女は、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きで、そう断言した。
「あの理論の、最も重要な帰結。……それは、『いかなる系も、それ単独で絶対的な状態を持ってはいない』ということ。……その状態は、常に『別の系との関係性においてのみ』定義される、ということ」
彼女は、俺が、あの『白昼夢』の中で読んだ、あの資料室での議論を、一字一句、違えることなく、ここで再現してみせた。
いや、違う。
これは、再現などではない。
あの『記事』に書かれていた世界と、今、俺が立っている、この屋上は地続きだったのだ。
そんな荒唐無稽な恐怖が、俺の思考を麻痺させた。
「そして、その法則は」
アカネは、俺の恐怖に満ちた理解を肯定するかのように、一歩、距離を詰めた。
暗闇の中で、彼女の気配が間近に迫った。
「……この『世界(ΨΩ)』だけでなく、……それを『観測』している、あなた(ΨR)もまた、……同じことよ」
『ΨR』。
あの無味乾燥な方程式の中に、組み込まれていた、あの記号。
もはや、俺は、この会話の本当の『当事者』ですらないのかもしれない。そんな、離人症じみた、馬鹿げている考えに俺は支配される。
俺が、あの教室の隅で他人事のように、この世界を『傍観』していた、あの時のように。
だが、アカネの言葉は、その俺の幼稚な感情さえも、無意味なものとして打ち砕いた。
「『観測』している、ですって? ……いいえ、その認識が、すでに根本的に間違っているわ」
まるで、俺の思考を読み取ったかのように、彼女は即座にそれを否定した。
「あなたは、自分が、一方的に『見ている』だけだと、思っている。……この『世界(ΨΩ)』を、自らの『主観』という枠組みで、切り取り、消費し、解釈しているだけだと。……そして、その行為が、この『世界』の側には、何の影響も与えないと、……そう、高を括ってはいないかしら?」
「……」
「それが、コペンハーゲン解釈の最大の誤りだった。……『観測者』を神の玉座に据え置いた、その解釈の限界よ」
「……」
「『関係性量子力学』は、その不自然な世界観を破壊した。……『観測者』もまた、この宇宙の物理法則に従う、平等な『系』の一つに過ぎないのだから」
彼女の言葉は、熱を帯びていた。
それは、あの資料室で俺が感じた、あの、理知的ながらも抑えきれない、情熱的な響き。
彼女は今、この宇宙の『真実』そのものを、代弁しているかのようだった。
「今、この瞬間。……あなたが、この『物語』を『観測』していると……同時に……この『物語(ΨΩ)』もまた、……あなた(ΨR)を『観測』しているのよ」
ぞわり、と。
全身の皮膚が、粟立つような感覚が走った。
俺の白昼夢が、この現実を観測していた?
あの悪夢が、この現実を観測していた?
いや、そんなことはあり得ないはずだ。
「なぜ、驚く必要があるのかしら」
アカネは、俺の動揺を予測していたかのように、冷ややかに続けた。
「……そして」
アカネは、まるで、この議論に最終的な判決を下すかのように、あの『式』を、再び、その口でなぞった。
「その『相互作用』の『結果』として、……あるいは、その『強度』そのものとして、……立ち現れる、あの『値』」
彼女は、俺の胸のあたりを、指差すでもなく、ただ、その視線で貫いた。
「……『Φ = ∫ ΨΩ(x)·ΨR(x) dx』」
彼女は、その『式』を呪文のように、低く、しかし、明瞭に唱えた。
「この『式』が示している通りよ」
彼女の声は、もはや何の感情も含んでいなかった。
「あなた自身の『実在』もまた……絶対的なものではないわ」
彼女は自らに話しかけるかのように話を続けている。
「あなた(ΨR)が、この『物語(ΨΩ)』との『相互作用』を拒絶し、……『観測』することをやめた、その瞬間。……この『積分』の値は、ゼロになる」
「……」
「私たちの『実在(Φ)』が消え失せる。……私たちは、再び、あの不確定な『可能性の波』へと戻っていくことになる」
「……」
「でも、それは」
暗闇の中にある、彼女の瞳が、『何か』を……嘲笑うかのように細められた気がした。
「……この『物語』という、唯一の『相互作用』の相手を失った、あなた自身の『実在(Φ)』もまた……」
アカネは、その恐ろしい結論を、告げた。
「……今、ここで、この『関係性』によって、かろうじて定義されているに過ぎない、……そのあなたの『意識』もまた……」
「……」
「私たちと道連れになるだけだと、……そうは思わない?」
そうか。
もし、彼女の理論が真実だとしたら。
俺の『物語』が『実在』するために『観測者』が必要であるのと、まったく同じように、……その『観測者』もまた、『実在』するために、俺たちの『物語』を必要とする。
どちらかが欠けても、あの『Φ(ファイ)』――『実在』であり『意識』である、そのもの――は、ゼロになる。
俺は、その恐ろしい論理の真っ只中に立たされているのだと、そう理解するしかなかった。




