第十二話:δ3
すべてが、分かちがたく結びついて、影響し合っているだけの、『渾然一体』とした、もの。
俺と世界。
認識する側と、認識される側。
風の音が、やけに生々しく耳を打った。
ごう、とフェンスの金網を揺らす、周期的な唸り。その風が運んでくる、地上から昇ってきたらしい、排気ガスと湿った土の入り混じった匂い。ブレザーの袖口から入り込んでくる、容赦なく体温を奪っていく空気の冷たさ。
俺の五感は、確かに、今、この場所の情報を拾い集めている。
だが、そのすべてが、もはや『俺』という確固たる中心に向かって集約されてくるのではなく、ただ、この『渾然一体』という、巨大で、わけのわからない流れの中で発生しては消えていく、無数の『現象』の一つに過ぎないかのように感じられた。
俺が、風を感じているのではない。
『風』と『俺』が、今、ここで、相互に作用している。
ヒナギクが言った、『言語の限界』。
資料室でアカネが語った、『観測』。
そして、今、この屋上のアカネが提示した、『意識』と『情報の統合』。
それらすべてが、この『渾然一体』という、たった一つの言葉へと飲み込まれていく。
俺は、何も言えなかった。
この途方もない一つの考え方を前にして、俺に何が言える?
俺がこれまで抱えてきた悩み――あの『顔のない女』の夢も、消えてしまった『記事』も、どっちが本物でどっちが偽物かなんていう、あの必死の問いも――。それらすべてが、この『渾然一体』の世界観の前では、あまりにも矮小で、取るに足らない、前提そのものが間違っていた問いかけに過ぎなかったのだ。
空は、もうほとんど真っ暗だった。
地上のビル群が、人工的な光の点を灯し始め、それがかろうじて、空と大地の境目を俺に教えてくれている。
俺たちの周囲は、深い闇に包まれていた。
その暗闇の中で、アカネが、静かに動いた。
彼女は、俺のその呆然とした様子を意に介するでもなく、まるで、次の手順へと進むかのように、制服のブレザーのポケットにゆっくりと手を入れた。
俺は、その動作を、ただ、ぼんやりと目で追っていた。
彼女が取り出したのは、スマートフォンだった。
彼女は、その冷たい発光体を起動させると、慣れた手つきで、メモアプリか何かを開き、いくつかの文字列をそこに打ち込んでいく。暗闇の中で彼女の指先だけが、画面の光を浴びて青白く浮かび上がっていた。
そして、彼女は、その発光する画面を俺の目の前に差し出した。
「これよ」
平坦な声が、風の音に混じって、俺の耳に届いた。
「これ?」
「この世界の、根本的な構造。……私たちが、今、こうして『在る』ことの、その理由。……それを、記述しようと試みた、一つの『式』が」
俺は、差し出されたその画面に、目を凝らした。
白い背景の上に、黒いテキストで、いくつかの記号が並んでいるのが、はっきりと見えた。
それは、数学か、あるいは物理学の教科書で見たことがあるような、無機質な文字列だった。
俺は、その文字列を、一つ一つ、目で追った。
Φ = ∫ ΨΩ(x)·ΨR(x) dx
ギリシャ文字。積分記号。そして、俺の知らない、いくつかのアルファベットの組み合わせ。
俺の頭が、その記号の羅列を、理解することを拒否した。
「……これはなんだ」
俺の喉から、かすれた声が出た。
「分からないのかしら。……まあ、無理もないわね」
アカネは、俺の混乱を、まるで予測していたかのように、淡々と、その『式』の解説を始めた。
彼女は、その画面の上、ΨΩ(x) と書かれた部分を、細い指先で軽く叩いた。
「まず、これ。ΨΩ(プサイ・オメガ)」
プサイ・オメガ。
彼女は、その部分を、そう呼んだ。
「これは、この『世界』。……今、私たちがこうして存在している、ここにいる、あなたの言う『現実』。そのすべてを記述する、波動関数よ」
「……波動関数?」
「ええ。あなたが見たサイトで、私と議論していたという、量子力学。その『可能性の波』。あれを、数学的に記述するためのものよ」
彼女は、俺の理解が追いついていないことなど、百も承知の上で、その説明を続けた。
「あなたの見た、あの『顔のない女』の夢。……あなたが読んだ、あの『資料室の記事』。……ヒナギクと、あの『論理哲学論考』について話した、あの対話。……そして、今、この瞬間、この屋上で、私とあなたが、こうして向き合っている、この状況」
「……」
「その、あなたが『体験』した、あるいは、し得たかもしれない、無数の『可能性』のすべてを、……残らず内包している、いわば『物語』全体の状態。……それが、この ΨΩ よ」
物語。
彼女は、そう表現した。
この俺の『現実』を『物語』だと。
俺は思い出す。
あの時、ヒナギクが言っていた、『シミュレーション仮説』。
あれは、この世界が誰かの作った『プログラム』かもしれない、という話だった。
だが、アカネが言っているのは、それよりも、もっと直接的に聞こえた。
Ω(オメガ)。
その記号が、ギリシャ文字の最後であり、『終わり』や『すべて』を意味することを、俺は、どこかで聞きかじった知識として、知っていた。
すべてを内包する『物語』。
「……じゃあ」
俺は、次の記号を恐る恐る指差した。
式の右側。ΨΩ と掛け合わされている、もう一つの記号。
「……こっちの、ΨR っていうのは、なんだ」
「そうね」
アカネは、わずかに、間を置いた。
まるで、この『式』の中で、最も重要な部分を、告げるかのように。
「ΨR」
「……アール?」
「ええ。『R』。……この『世界(ΨΩ)』を、『認識』する存在。……この『物語』を『観測』し、その『意味』を読み解こうとする、あなたの『外側』にいる、もう一つの『系』。……それを指す言葉として、ここでは『観測者』と定義しておくわ」
観測者。
「……観測者だと?」
俺は、かろうじて、その言葉を繰り返した。
「何を、言って……。誰が何を『観測』するっていうんだ?ここには、お前と俺しかいないはずだ」
「いいえ。そういう意味ではないわ。
「じゃあ、どういう…」
「うーん。そうね。この現実が『物語』という可能性かしら?」
「……暴論だ」
アカネの声は、どこまでも冷たく、平坦だった。
「では、あなたが読んだ、そのネット上の物語。そこで私と議論していた、関係性量子力学を思い出して?」
俺の外側にいる。
もう一つの『系』。
あのネット記事にあった、『関係性量子力学』。
あの記事の中にいた、アカネが熱心に解説していた、それ。
『いかなる系も、それ単独では存在しない』
『常に、別の系との関係性においてのみ、定義される』
あの時は、それが、『俺』と『アカネ』、あるいは『電子』と『観測者』、といった、関係性の話だと思っていた。
だが、この方程式は、その『関係性』のスケールを、俺の理解を遥かに超えた場所へと、一方的に拡張してしまっている。
いわば、俺という『物語』と『観測者』。
それらが対等な『系』として、ここに並べられている。
「……待て」
俺は、混乱する頭で、必死に、その論理の穴を探そうとした。
「……もし、例えばだ。俺が『物語』で、それを『観測』するやつがいるとして。……それは、一方的な関係じゃないのか。……そいつが、俺たちを『観測』して、それで終わりだろ。……ヒナギクが言った、シミュレーションの『管理者』みたいなものじゃないか。……なのに、どうして、それがこんな対等な『式』の中に……」
「『観測』?」
アカネは、俺の言葉を遮った。
「あなたは、まだ『観測』という言葉に囚われているのね。……あの資料室であなたと議論していたという、『関係性量子力学』。その理論を、あなたは本当に理解している?」
彼女は、静かにため息をついた。
「これは、『観測』じゃないわ。『相互作用』よ」
彼女は、ΨΩ(x) と ΨR(x) の間にある、小さな『・』(ドット)と、その全体を括る『∫』(積分)の記号を、画面上で指でなぞった。
「『世界(ΨΩ)』が、『観測者(ΨR)』に、一方的に『観測される』のではないわ。……『世界』もまた『観測者』を『観測』しようとする。……お互いがお互いを認識し合い、影響を与え合う。……この膨大な『情報のやり取り』。……それこそが、この『相互作用』よ」
相互作用。
観測者と、その物語が?
そんな馬鹿な。
「……そして」
アカネは、最後に式の左辺、たった一つだけ、ぽつんと置かれた、あの記号を指差した。
「Φ(ファイ)」
彼女は、その記号を、まるで、この世で最も重要な何かを呼ぶかのように、静かに口にした。
「この二つの『系』が『相互作用』した、その結果。……『世界』と『観測者』が、お互いを『認識』し合った、その結果として、初めて、この宇宙に立ち現れるもの」
「……」
「それこそが、この Φ。……私たちが、『実在』と呼んでいる、そのものの『強度』。……あるいは、その『確からしさ』よ」
実在の強度。
俺は、その Φ という記号を凝視した。
丸に縦線が一本。
俺は、この記号を知っていた。
いや、ついさっき、この屋上で彼女自身の口から聞いたばかりだ。
「……ファイ」
俺は、かすれた声で呟いた。
「……それって、お前が、さっき言っていた……。『統合情報理論』の……」
「ええ」
アカネは、暗闇の中で、静かに頷いた。
「『統合情報理論』。……あの理論で、『意識』の『量』を示すとされた、あの指標。……あの Φ(ファイ)値。……そして、この世界の『実在』を示す、 Φ」
彼女は、俺の目を、真っ直ぐに見据えた。
その瞳は、暗闇の中で、俺の存在そのものを見透かすかのように、鈍く光っていた。
『情報の統合』が『意識(Φ)』を生み出す。
『世界(ΨΩ)』と『観測者(ΨR)』の『相互作用』が『実在(Φ)』を生み出す。
主観であり、内側にあるものの極致であるはずの『意識』。
客観であり、外側にあるものの極致であるはずの『実在』。
その二つが、同じ、Φ という、たった一つの記号で結びつけられている。
俺が、最後に感じた、『主観』と『客観』の区別が無意味だという、あの『渾然一体』の世界観。
この方程式は、その『渾然一体』の具体的な『姿』を、俺の目の前に突きつけているのか?
では。
では、もし。
もし、ΨR(観測者)が、存在しなかったら?
もし、誰も、この『世界(ΨΩ)』を『観測』しなかったら?
その時、この『相互作用』は、ゼロになる。
この Φ の値は、ゼロになる。
それはつまり。
『実在』が、ゼロになる、ということ。
そして、『意識』もまたゼロになる、ということに違いない。
俺の存在が。
俺が『俺』であるという、唯一信じられるはずの『意識』さえもが。
俺の『外側』にいる『誰か』の『観測』するという、得体の知れない行為に依存している?
俺は、目の前のアカネの顔を見た。
彼女もまた、この ΨΩ の一部であるはずだ。
彼女は、自分が『観測される』側の存在であることを受け入れているとでも、いうのか?
「……お前は」
俺は、ほとんど、うめき声に近い声で、その疑問を口にした。
「……お前は、それを信じているのか?」
「……」
「自分が『物語』の中の登場人物で。……誰かに『観測されて』いるかもしれない、なんて、……そんな馬鹿げたことを」
アカネは、俺のその必死の問いに、直接は答えなかった。
彼女は、その恐ろしい方程式が書かれたスマートフォンの画面を、ふっ、と消した。
世界から、唯一の発光体が消え、屋上は、完全な闇と、地上の人工的な光の点だけが支配する空間に戻った。
彼女は、そのスマートフォンを、再び、ブレザーのポケットの奥深くへと、しまい込んだ。
屋上の、冷たい風が、俺たちの間を、吹き抜けていく。
やがて、彼女は、その全てを見通すかのような、あの静かで底知れない瞳で。
俺を真っ直ぐに見つめた。
「……問いが、まだ不十分ね」
淡々とした彼女の声。




