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ΨΩ  作者: 速水静香


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第十一話:δ2


 屋上の風は、あの日よりも強く、そして冷たく感じられた。

 灰色のコンクリート。周囲を囲む金網のフェンス。どこまでも広がる、夕暮れに差し掛かった空。何もかもが、あの時、俺がヒナギクと共に立っていたこの場所と、状況がよく似ていた。

 ただ、俺の前に立っているのが、アカネであるという、その一点を除いて。

 彼女は、あの時のヒナギクとまったく同じ場所に立ち、フェンス越しに遠くの、赤と群青色に染まり始めた空をじっと見つめている。その横顔からは、俺が知っているクラス委員としての快活さは消え失せ、底の知れない、静かな何かが漂っていた。


 俺は、この非現実的な状況の中で、何から話せばいいのか分からなかった。

 あの『顔のない女』に追い詰められた悪夢。

 スマートフォンで検索していると現れて、そして、消えてしまった、俺の内面まで克明に記した、あの記事。いや、白昼夢。


 俺は意を決して、言葉を口にした。


「分からないんだ」


 俺の口から、自分でも驚くほど、弱々しく混乱している声が漏れた。


「何が、かな?」


 アカネは、こちらを振り向かないまま、静かに問い返した。その声は、平坦で感情の起伏が読み取れなかった。


「全部だ。俺は、ひどい夢を見た。夢の中では、あんたが、俺の『幼馴染』で、二人でこの学校にはないはずの旧校舎を探検する。そこで、俺は『顔のない』化け物に捕まって、そこで夢が覚めた」

「……」

「その翌日には、スマホで変な記事を見つけた。俺とあんたが、資料室で話している場面が、俺の考えていることまで、正確に書かれていた。だが、再び検索したが、それを再び見ることはかなわない」


 俺は、混乱する思考を、なんとか言葉にしようと必死だった。


「あれは、俺の幻覚だったのか? それとも、あの夢や記事で読んだことこそが『本当』で、今、俺がここに立っている、この日常の方が、おかしいのか? 俺はヒナギクに言われたんだ」

「なんて?」

 アカネは淡々とした様子で、俺に言葉を促す。


「『私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する』」

「なるほど、ウィトゲンシュタインね。でも、それが?」


 どうやら、その言葉をアカネは知っているようだった。


「ああ、ヒナギクと俺は哲学の話をしていた。それで、彼女に俺は夢の話について話したんだ。そうしたら、あいつは『胡蝶の夢』の話をしだしたんだ」

「荘子ね」


 アカネの声は変わらない。まるで、俺が今している告白の内容が、教科書に書かれた知識の確認であるかのように。


「どっちが夢で、どっちが現実か。荘周が蝶になったのか、蝶が荘周になっているのか。それを問うこと自体が無意味だって。俺の見たあの『夢』と、今俺がいるこの『現実』。どっちも同じくらい本物かもしれないし、どっちも偽物かもしれないって」


 俺は、あの時のヒナギクの冷たい言葉を、必死で反芻した。


「挙げ句の果てには、この世界が全部『シミュレーション』かもしれない、なんて話まで持ち出して。結局、俺たちがいるこの世界が『本物』だって、完全には証明できないんだ、って」


 俺は、アカネに向き直った。彼女の分析的な視線が、俺を捉えている。


「だから、分からないんだ。あの『夢』も、『記事』も、この『現実』も、ヒナギクが言ったように、どっちが本物かなんて、証明できないのか?」


 俺のとりとめのない告白を、アカネは、ただ黙って聞いていた。

 屋上の強い風が、ごう、と音を立てて吹き抜けていく。

 やがて、彼女はゆっくりとこちらに振り向いた。

 その瞳は、夕暮れの残り少ない光を映して、静かに、深く光っている。そこには、俺の混乱を嘲笑うでもなく、憐れむでもない、ただ、純粋な分析的な光があった。


「あなたは、それを『体験』したのね」

「え?」

「『夢』も、『記事』も。そして、今、こうして私と話している、この『現実』も。あなたにとっては、どれもが、抗いがたい『現実感』を伴う、『体験』だった。違うかしら?」


 彼女の言葉は、俺の混乱の核心を、正確に突き刺してきた。

 そうだ。

 あの『夢』の恐怖も、『記事』を読んだ時の戦慄も、今、この屋上で感じる風の冷たさと同じくらい、確かに、俺の『体験』だった。


「それが問題なのよ」


 アカネは、一歩、俺に近づいた。


「なぜ、あなたは、それを『体験』できるの?」

「どういう意味だ」

「その『体験』そのものよ。あなたが、今、私を見て、『アカネ』だと認識し、『自分』と『世界』を分けて考えている、その大元にあるもの。あなたが『俺』であると感じている、その根本的な『感覚』。その『意識』そのものは、一体、どこから来ているのかしらね」


 意識。

 彼女は、あの資料室での議論を、さらに、その根源へと、推し進めようとしていた。


「私たちは、当たり前のように、それを『持っている』と思っているわ。脳が活動しているから、意識が生まれるのだ、と。でも、本当に、そうなの?」

「……」

「脳という、ただの原子の集まり、物質の塊から、どうやって、この、『私』としか言いようのない、主観的な『体験』が生まれてくるのか。その、決定的な『繋がり』を、今の人類は、誰も正確に説明できていないのよ」


 彼女の言葉は、俺の体験の根本を疑うようなものに感じた。

 けれども、俺が『俺』である、という、この感覚。

 これだけは、疑いようのない、絶対的な『事実』のはずだ。


「えっと…」


 俺は口ごもる。


「でも、もし本当にそうだとしたら」


 彼女の静かな声が、俺の言葉を待たずに続けられた。


「説明してほしいわ。なぜ、この、たかだか一・五キログラム程度の、神経細胞の集まりだけが、『俺』という、この、唯一無二の、主観的な『体験』を生み出すことができるの?」


 その問い。


「それは、脳が複雑だから、とか。神経細胞がたくさんあるから、だろ?」


 俺の曖昧な反論に、彼女は即座に反応した。


「なるほど。『数』と『複雑さ』ね。でも、本当にそう?」


 彼女は、そこで俺のスマートフォンを指差した。


「そのスマホのカメラ。あるいは、高性能なデジタルカメラを想像してみて。例えば、一千万画素のセンサーがついているとするわね」

「……ああ」

「一千万個の、光を感じる小さなセンサーである、フォトダイオードが、そこにびっしりと並んでいる。レンズを通して入ってきた風景を、それぞれのセンサーが記録する。情報量は膨大よ。……でも、そのカメラに『意識』はあると思う?」

「いや、ないだろ。それは機械だから」

「いいえ、ある意味人間もタンパク質で出来た、複雑な機械、ともいえるわよね?」

「……脳の方がカメラの素子よりも複雑な機械だからか?」

「なるほど。では、もし仮に、人の大脳皮質、そこにあるニューロン数と同じ数を持つ、膨大な素子数を持ったデジタルカメラには意識が宿り始める、といえるのね?」

「……いいや、それはないだろう。いくらセンサーを並べても、カメラはカメラだ」

「じゃあ、なぜ?そこにある、情報量は膨大なのよ?だって、数百億もの素子が反応しているのよ?」


 アカネは意地悪く問い詰める。俺は言葉に詰まった。


「……それは、ただ記録してるだけだから……」


「そう。その通りよ」


 彼女は頷いた。


「デジタルカメラのセンサーの一つ一つは、完全に『独立』しているの。センサーAが『ここは赤だ』と記録している時、隣のセンサーBが『青だ』と記録していても、お互いに何の関係もない。センサーAはセンサーBのことを知らないし、知る必要もない。ただ、バラバラの点として、膨大な数の『点』を並列に記録しているだけ」

「……バラバラの点」

「ええ。だから、そこには『全体としての体験』は生まれない。もし、そのセンサーを半分に切り離したとしても、二つの小さなセンサーができるだけ。情報は何も失われないし、何も変わらない。……それは、『統合』されていないからよ」


 統合されていない。

 彼女の言葉が、耳についた。


「じゃあ、人間の脳の話に戻りましょうか」

「……ああ」

「たとえば、私たちが持っている『小脳』。運動の制御なんかを司っている重要な部分よ。実はね、人間の脳にある神経細胞の、およそ八割は、この小脳に詰まっているの」

「八割? そんなにか」

「ええ。大脳皮質なんかよりも、ずっと多くのニューロンが密集しているわ。……でもね」


 彼女の声が、低く、謎めいた響きを帯びる。


「もし、事故や病気で、この小脳を失ってしまったとしても。運動は不自由になるけれど、その人の『意識』は失われないの。『私』という感覚、鮮やかな視覚、思考……それらは、驚くほど保たれたままなのよ」

「……なんでだ? 神経細胞がそんなにあるのに?」

「それは、小脳の構造が、さっきの『デジカメ』と同じだからよ」


 俺は息を飲んだ。


「小脳のニューロンは、整然と並んでいるけれど、基本的には一方通行の流れ作業をしているだけ。情報の流れが『並列』で、お互いに複雑に絡み合っていない。……つまり、情報の『量』は多くても、『統合』されていないの」


 彼女は、次に、こめかみのあたりを指差した。


「対照的に、この『大脳皮質』は違う。……ここにあるニューロンは、まるで迷路のように、お互いがお互いに複雑に接続し合って、巨大なネットワークを作っている。ある場所の活動が、瞬時に別の場所に伝わり、それがまた戻ってくる。……決して切り離すことのできない、密接な『結びつき』があるの」


 彼女は、俺の目を見つめた。


「今、この瞬間。あなたの『意識』はどう? 私の『声』が聞こえている。この屋上の冷たい『風』を肌で感じている。フェンスの向こうの、沈んでいく空の『色』を見ている。……それらは、バラバラの画素のように独立している?」


 違う。

 俺は、首を振ることしかできなかった。


 そうだ、夕焼けの『赤さ』と、風の『冷たさ』は、別々の主観じゃない。今の俺という主観体験の中で、分かちがたく結びついている。

 それらは、たった一つの『俺が今この屋上で彼女と対峙している』という、強烈な『全体』を作り上げている。


「そうよ。決して分解することはできないわ。『風の音を聞いている、あなた』と、『空の色を見ている、あなた』とを、切り離すことはできない。もし切り離してしまったら、それはもう『あなた』の体験ではなくなってしまう」


 彼女は、まるで勝利を宣言するかのように言った。


「情報が、どれだけ量があるか、ではないの。その情報が、どれだけ強く、不可分に『統合』されて、一つのシステムとしてまとまっているか。……それこそが、『意識』の正体だと考える理論があるわ」


「……情報の統合」


 俺は、その言葉を反芻した。

 デジカメのようなバラバラの集まりではなく、大脳皮質のような、ほどくことのできない結びつき。それが『俺』を作っている?


「その『統合の度合い』を示す指標。それを、この理論――『統合情報理論』では、ある記号で呼ぶわ」


 彼女は、俺の顔を真っ直ぐに見据えた。


「『Φ(ファイ)』」

「ファイ?」

「ええ。ギリシャ文字のΦ。丸に一本、縦線を引いた、あの記号よ」


 ファイ。

 俺は、その聞き慣れない音の響きを、頭の中で反芻した。


「このΦの値が、ゼロ、あるいはゼロに限りなく近ければ、そこには『意識』はない。さっきのデジカメや、小脳のようにね。……でも、もし、そのシステム内部の情報が、極めて複雑に、お互いを参照し合い、強固に『統合』された結果、この『Φ』の値が大きくなればなるほど、そこには鮮明な『意識』が宿る」


 彼女は、そこで一瞬言葉を止め、俺の理解の限界を試すかのように、さらに恐ろしい可能性を付け加えた。


「それが、私たちのようなタンパク質の脳であろうと。あるいは、シリコンでできた電子回路であろうと。……あるいは、今私たちがこうして『対話』している、この『関係性』のネットワークであろうと」


 彼女は、静かにそう宣告した。


「『情報の統合』。それこそが、『意識』の正体。それが、『統合情報理論』という仮説なのよ」


 俺は、もう何も言えなかった。

 俺がこれまで、『俺』という存在だと信じていた『意識』。

 それが、ただの『情報の結びつきの強さ』、『Φ』という計算可能な一つの『数値』に過ぎないのだと。

 彼女の話している、その理論は、俺が確固たるものとして感じていた、『意識』というものの全てを単なる数字へと還元していた。


「あなたは、どう思う?」


 彼女は、再び、あの分析的な瞳で俺を見据えた。


 彼女は、俺の反応を試している。

 俺が、この常識からかけ離れた理論を、どう『解釈』するのかを見定めようとしている。

 俺は、頭の中で、必死に思考を巡らせた。


 資料室での『観測』の議論。

 そして、今、この屋上のアカネが提示した、『意識』と『情報の統合』。

 これら、バラバラに提示された、難解なパズルのピース。


 それらが、俺の中で、まだ形にはならないが、一つの巨大な『何か』へと収束しようとしているのを感じていた。


「分からない」


 俺は、正直に、そう答えた。


「だが、もし、その話が本当だとしたら」

「……」

「その、『統合』っていうのは、結局、『関係性』ってことじゃないのか?」


 俺が、ようやく絞り出した、その言葉。

 それを聞いた瞬間、アカネの暗がりの中の瞳が、ほんのわずかに強く光ったような気がした。


「続けて」


 彼女は、短く促した。


「『部品』同士が、どう『関係』しているか、どう『結びついて』いるか、って、そういう話だろ、それは。……デジカメの画素はお互いに無関係だけど、脳細胞はお互いに関係し合ってるから意識がある」

「ええ、そうね」

「それって……」


 俺は、言葉を切った。

 今、俺が目の前で聞かされた理論。それと、俺が体験した、あの不可解な『記事』の内容。


「それって、俺が『記事』で読んだことと、同じじゃないか」

「……記事?」

「ああ。あんたに話しただろ。俺とあんたが、資料室で話している場面が書かれていた、っていう、あの『白昼夢』だ」


 俺は、目の前の、ヒナギクのように冷たいアカネの顔を、必死で見つめた。


「あの『記事』の中で……。あんたは、物理学の話をしていた。……『関係性量子力学』とか、そんな言葉を使って」

「……」


 アカネは、肯定も否定もしなかった。ただ、その黒い瞳で、俺の言葉の続きを待っている。彼女は、俺が『記事』で読んだという、その荒唐無稽な話を、まるで、当然のこととして受け入れているかのようだった。


「片方は、物理学。主観的世界の外側の『モノ』の話だ」

「……」

「もう片方は、脳科学。主観的な内側の『意識』の話だ」

「……」

「まったく、別の場所の話のはずなのに、どうして、どっちも、『関係性』が、『相互作用』が、すべてを決めるなんて、なんでそんな似たような結論に、なるんだ?」


 偶然か?

 それとも、言語という、人間の思考の限界が、似たような結論を導き出しただけなのか?


 あるいは…。

 あるいは、この二つのまったく異なる理論は、俺たちの知らない場所で、もっと根本的な、たった一つの『真実』に、繋がっているとでもいうのか?


 俺の、言語化される手前にあるような、恐ろしい予感。

 それを、アカネは、まるでずっと待っていたとでも言うかのように、静かに、しかし、きっぱりとした肯定の言葉で受け止めた。


「そうね」


 彼女のシルエットが、夕暮れの最後の光を背に受けて、まるでこの世界の真実をたった一人で背負っているかのようにすら見えた。


「もしかしたら、二つの理論は、同じ一つのものを別の側面から照らしているだけに、過ぎないのかもしれないわ」

「……」

「『関係性量子力学』は、『客観』。つまり、私たちが『世界』と呼んでいるものの、在り方を記述する理論」

「……」

「『統合情報理論』は、『主観』。つまり、私たちが『私』と呼んでいるものの、在り方を記述しようとする理論」


 彼女は、ゆっくりと、両の手を胸の前で組み合わせるような動作をした。


「でもね、ツバキくん」


 彼女は、俺の名前を呼んでいた。


「もし、『主観』と『客観』を、『認識する側』と『認識される世界』を」

「……」

「そうやって、当たり前のように『分けて』考えていること、それ自体が、私たち人間の最大の『思い込み』だったとしたら?」


 アカネのその問いは、もはや俺個人に向けられたものではなかった。

 それは、この屋上の冷たい風に乗って、どこか遥か遠くへ放たれた、問い、そのものだった。


「私たちは、『主観』と『客観』っていう区別で、世界を切り分けて、理解した気になっている。でも、本当の世界の、『真実』の姿は」

「……」

「その二つが、まだ分かれる前の、どちらでもあり、どちらでもないような」

「……」

「ただ、すべてが、分かちがたく結びついて、影響し合っているだけの」


 彼女は、その状態を表す言葉を探すかのように、一瞬、沈黙した。


「そう。ただ、一つの、『渾然一体』とした、もの、だったとしたら?」


 彼女の言葉。

 それからは、何かの有無を言わせないような強い力を感じた。


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