第十話:δ1
あの小説とも日記ともつかない、不可解な文章の羅列。
『断章:資料室にて』と題されていた、それ。
スマートフォンの冷たい発光面の上で、その最後の文字を読み終えてしまってから。
あの日、俺は、結局、あの誰もいなくなった教室で、窓の外が完全な闇に塗りつぶされるまで、身じろぎ一つできなかった。
指先が、自分の意志とは無関係に、もう一度、画面を操作しようとした。
ブラウザの履歴を開く。
ない。
『シミュレーション仮説』で検索したという記録は残っている。その前後に閲覧した、いくつかの解説サイトの表題も並んでいる。
だが、あの『断章』と題された、個人のものらしきサイトの履歴だけが、綺麗に抜け落ちていた。
もう一度、同じキーワードで検索を試みる。
表示されるのは、昨日と同じような、大学教授の解説や、難解な物理学の論文ばかり。いくらページを送っても、あの広告も何もない、白い背景に黒い文字が並んだだけの簡素なページが、再び検索結果に浮かび上がることはなかった。
幻だったのか?
そうだ、そうだったのかもしれない。
けれど、あのテキストを読んだ時に感じたことを、俺は、まだ覚えている。
『死ぬほど面倒くさい』。
俺の内面で、言語化される手前の淀んだ感情。それと寸分違わぬ文字列。
あれは、俺が作り出した幻覚などでは、断じてない。
俺は、確かに、あれを『読んだ』。
では、あれは、一体、何だったんだ?
未来の予知か?
それとも、俺が忘れている、過去の出来事の記録か?
けれど、その考えは、すぐに別の記憶を呼び起こした。
あの『顔のない女』の悪夢。
あれもまた、夢にしては、あまりにも生々しい恐怖と感触を残していった。あれも、夢だった。
ということは、あの悪夢と同じ、俺が混乱のあまりに見た、一種の『白昼夢』だった?
そうだとも、それが一番、合理的な解釈なのかのもしれない。
あのテキストを読んだのは、『白昼夢』。
そのように俺が思い込んでいるだけ。実際には、あのサイトはない。また、俺が読んだという事実はなかった。
けれど、俺は恐怖していた。
いつ、あの『記事』の通りの状況が、訪れるのか、と。
いつ、担任が俺の前に現れ、「資料室の整理をしてくれ」と、あの通りのセリフを口にするのか、と。
その瞬間が訪れたら、俺はどうすればいい?
記事の通りに、あの不毛な作業を引き受けるのか?
それとも、全力で、それを『拒否』したほうがいいのだろうか?
もし『拒否』したら、どうなる?
抗った結果、この世界は、どうかなってしまうのか?
あるいは、俺が『拒否』することすらも、できないのか?
出口のない、思考の迷路。
俺は、ただ、その恐怖が、現実のものとならないように、息を潜めることしかできなかった。
放課後になったら、さっさと教室から出よう。決して、担任の目に留まらないように。そして、あのアカネと二人きりになる状況を、徹底的に回避するように。
アカネ。
彼女の姿は、いつもと変わらないように見えた。
彼女が、クラス委員として、いつもどおり、クラスの中心にいる。
けれど、俺の見た、あの悪夢の中では、アカネは幼馴染だ。
そして、あのテキスト――俺の見た、『白昼夢』に出てきた文章の中では、彼女は、熱心に、あの不可解な『観測問題』について語っていた。
どれもこれも、この現実にいるアカネという人物から、勝手に俺が妄想をした、別の側面なのだろうか?
分からない。
何もかもが、分からない。
◇
そして、その日も、いつものように、最後の授業が終わりを告げた。
チャイムの音が、俺の混濁した意識の中で、鈍く反響する。
教室は、いつも通りの、予測可能な、放課後の喧騒に包まれていく。椅子を引く音。鞄のファスナーを開け閉てする音。解放感に満ちた、弾むような会話。
俺は、鞄を手に立ち上がる。
逃げなければ。そう、俺がこれ以上、おかしくならないように。
少なくとも今日だけは、誰よりも早く、この教室から、『面倒』が現実になるかもしれない場所から、立ち去らなければならない。
俺は、周囲の生徒たちの流れに紛れ込むようにして、教室の後方のドアへと向かった。
だが、そのドアの手前で。
俺の進路を塞ぐように、ひとつの人影が立っていた。
アカネだった。
彼女は、友人たちと談笑しているわけでもなく、誰かを待っている風でもなかった。ただ、そこに、静かに立っていた。
俺は、思わず足を止めた。
彼女の雰囲気が、先ほどまでとは、まったく違っていたからだ。
クラス委員としての、あの、周囲に気を配るような、快活な雰囲気は、どこにもない。
――ヒンヤリとしている。
まるで、彼女の周囲だけ、空気が、別のものに入れ替わってしまったかのようだった。
けれど、俺はこの姿を、知っていた。
この周囲から隔絶されたかのような、静謐な佇まい。
そして、何ものにも動じないかのような、張り詰めた空気。
――ヒナギクのようだ。
俺が、そう感じた、その時。
アカネが、ゆっくりと顔を上げた。
そして、真っ直ぐに俺を見つめた。
その瞳。
そこには、俺が知っている、あの、快活なアカネの、感情豊かな光はなかった。
かといって、あの『白昼夢』の中で想像した、理知的で、情熱的な輝きとも、違う。
それは、底が知れないほど、静かで、冷たく、そして、何の感情も映していない、黒い瞳だった。
俺が、数日前に、この教室で見た、ヒナギクの瞳を、どこか彷彿とさせた。
俺の思考が、停止した。
なぜ、アカネが、こんな目をしている?
まるで、ヒナギクのような……。
俺の知らない、こんな一面があったのか。いや、そう考えるほかにない。
彼女は、俺の顔を、じっと見つめている。
まるで、俺という存在の、中身を、その奥を、見通そうとするかのように。
俺は、その、あまりにも強烈な視線に、圧迫されていた。
逃げようとしていた足が、床に縫い付けられたように動かない。
沈黙が、重く、のしかかる。
「……話がある」
アカネが、静かに、そう言った。
その声。
アカネの声のはずなのに、そこには、何の抑揚も、感情の起伏もなかった。
ヒナギクが、あの時、俺に言ったのを思わせる、体温のない、短い言葉。
俺は、何も答えられなかった。
「断る」という選択肢が、最初から存在しないかのように。
恐怖か、あるいは、目の前の彼女が放つ、この抗いがたい異様な雰囲気のせいか。
俺は、ただ、頷くことすらできずに、立ち尽くすだけだった。
「……場所を変えましょう」
アカネは、俺のその無言の反応を、肯定と受け取ったようだった。
彼女は、俺の返事を待つこともなく、静かに俺に背を向けた。
そして、教室の出口から、廊下へと出ていく。
俺は、その数歩後ろを、ついていっていた。
◇
廊下に出ても、アカネは、何も言わなかった。
彼女はただ、昇降口とは反対方向、校舎の奥へと続く、あの階段に向かって、一定の歩調で歩いていく。
俺は、彼女の数歩後ろを、距離を保ったまま、ついていった。
この光景は、知っている。
数日前、俺が、ヒナギクと、まったく同じように、歩いた道だ。
だが、今、俺の前を歩いているのは、ヒナギクではない。アカネだ。
その事実が、俺の頭の中で、絶えず、不協和音を奏でていた。
最上階へと続く、最後の階段。
アカネは、そこを、何の躊躇もなく、上り始めた。
俺も、それに続く。
踊り場を抜け、屋上へと続く、あの、アルミ製のドアの前にたどり着く。
そこには、あの時と同じように、『関係者以外 立入禁止』と書かれた、色褪せたプレートがぶら下がっていた。
俺が、そのドアを前にして、立ち尽くしていると、先に着いていたアカネは、当たり前のような手つきで、そのドアノブに手をかけた。
あの時、ヒナギクが、そうしたのをなぞるかのように。
ガチャン、という、乾いた金属音がした。
ドアは、あの時と、寸分違わず、あっさりと開いた。
なぜだ。
なぜ、アカネが、ここが施錠されていないことを、知っている?
なぜ、ヒナギクが知っていた、この場所へ、俺を連れてきた?
ドアが開くと、遮られていた外の空気が、ごう、という、あの時とまったく同じ、強い音を立てて、階段の吹き抜けに流れ込んできた。
アカネは、開いたドアの隙間から、先に、屋上へと足を踏み入れた。
俺は、もはや、自分の意志とは関係なく、その後に、続くしかなかった。
◇
屋上は、あの時と、何一つ、変わっていなかった。
広大な、灰色のコンクリートの床。
周囲を囲む、背丈よりも高い、金網のフェンス。
そして、遮るもののない、広大な、夕暮れに差し掛かろうとする空。
地上の喧騒は、ここまで登ってくると、ずいぶん遠くから聞こえてくる、一種の背景音のように変化していた。風の音の方が、よほど強く、耳を打つ。
誰もいない。
俺と、彼女の、二人だけだ。
アカネは、フェンスのそばまで歩いていくと、そこで、立ち止まった。
その場所。
それは、かつて、ヒナギクが立っていたのと、ほぼ同じ場所だった。
彼女は、フェンスの網目に指をかけるでもなく、地上を見下ろすでもなく、ただ、目の前のフェンス越しに、遠くの空と建物の連なりを、じっと見つめているようだった。
静謐な横顔。
そして、整然と制服を着こなした、静かな立ち姿。
その姿は、俺の知っている快活なアカネとは、あまりにもかけ離れているように感じた。
俺は、彼女から、数歩離れた場所で、立ち尽くしていた。
俺の頭は、この状況を、理解することを拒否していた。
これは何だ。
俺は、また『夢』を見ているのか?
あの幼馴染のアカネと一緒に旧校舎で恐怖を体験した夢の時のように?
今、俺は、何を問えばいい?
あの『記事』のことか?
それとも『夢』のことか?
聞きたいことは、山ほどあるはずなのに、どれもが言葉にならなかった。
目の前の存在が、俺の知っている『アカネ』ではないかもしれない、という、圧倒的な事実が、現実のすべてを埋め尽くしていく。




