第一話:α1
午後の授業を知らせるチャイムの音が、その役目を終えて静けさの中に消えていく。でも、その静けさも一瞬だった。この教室は、すぐにまた別の音で満たされ始めるのだから。後ろの席のひそひそ話。前の教卓で教科書をめくる乾いた紙の音。窓の外から遠く聞こえてくる、どこかのクラスの体育の掛け声。でも、それらの音は音として、ただそこにあるだけ。俺の意識には、そのどれにも引っかからずに通り過ぎていく。
俺の定位置は、この教室の左後方、窓際の一番後ろの席だ。
この席は、つい最近割り振られた場所だけども、俺は妙に気に入っている。理由はいくつかある。まず、後ろがコンクリートの壁なこと。これだと、背後を気にする必要がなくて楽だ。そして、左手は窓。ここから校庭と、その向こうの空を眺めることができる。教室の中のゴタゴタから、いつでも目をそらせる。
この位置にいれば、教室内のほぼすべてが視界の端に入る。といっても、別に人間観察が趣味なわけじゃない。誰が何をしてようと、俺にはどうでもいいことだ。ただ、姿形を持った何かがそれぞれの場所で動いている、と認識するだけだ。
俺は、他人と必要以上に関わらないようにしている。
その玄以は、いうまでもなく『人間関係』ってやつだった。あれが、死ぬほど面倒くさいことは嫌になるほど知っていた。
相手の顔色をうかがって変に気を遣い、当たり障りのない相槌を打ってヘラヘラ笑う。そんなの、考えただけで疲れる。なんで皆、あんな面倒なことを毎日毎日飽きもせず繰り返せるんだろうか。
楽しそうに喋ったり、時には真剣な顔でケンカしたり、泣いたり笑ったり。そういう『青春』っぽいやり取りに、皆やけに必死だ。俺には、その熱量がまったく理解できない。
昔は俺もああいう輪の中に加わろうとしたこともあった、気もする。それがいつのことだったか、もう思い出せないけど。ただ、そこには何かひどく疲れたっていう感覚の残りカスだけが、今もこびりついている。
だから、俺はもう誰かに深入りするのをやめた。
クラスメイトはクラスメイト。先生は先生。それ以上でもそれ以下でもない。皆、学校っていう場所でそれぞれの時間を過ごしているだけだ。
俺は、その様子を遠くから眺めているだけだ。そう決めてから、世界はすごくシンプルに見えるようになった。
誰かが何を言って、どんな顔をしていようと、「ああ、そうなんだ」で終わり。いちいち「あの言葉の裏には…」とか「今のはどういう意味だ…」なんて考える必要はない。そう思うことにしてから、俺は無駄にイラついたり落ち込んだりすることがなくなった。俺は彼らに「おはよう」とか「さよなら」とか、出席確認での返事とか、必要最低限の応答だけしていればいい。それだけで、日々は平和に過ぎていく。
教室の前方では、先生が授業をしていた。中年男性の先生だが、その個人差に意味はない。決められた時間に、決められた教科書の内容を声に出して再生し続ける。時々、黒板に白いチョークで情報を書き足しながら。
「……したがって、この時期の文化は、それ以前のものとは明確に異なる特徴を持っていることがわかる」
先生の声が運んでくる『意味』は、俺の頭を素通りしていく。エアコンの作動音と大して変わらない、BGМみたいなものと化していた。俺の意識は、その音が示す概念――歴史だろうが公式だろうが――を組み立てることを拒否する。そんな情報、今の俺の日常には必要ないからだ。
周囲のクラスメイトたちも、いつも通りの動きを繰り返してる。
真面目なヤツは、熱心にノートにシャーペンを走らせている。そのペン先が紙をこする微かな音も、もはやそのBGМの一部だ。それに、退屈してるヤツは、机の下に隠したスマホの画面に指を走らせていた。その動きはやけにスムーズで、何度も繰り返してきたことを示していた。お喋り好きなヤツは、隣の席の者と小声で何かを囁き合っている。時折、抑えた笑い声が漏れるが、それもすぐに教室のざわめきに吸い込まれて消えていく。
どれもが、ありふれた教室の情景だ。
しかし、俺の目には、そのすべてがひどく現実味のないもののように見えた。
この感覚は、いつから俺の中にあったんだろうか。あるいは、俺のいる世界はいつからこんな風に色褪せて見えるようになったんだろうか。
――分からない。
俺は、その問いから逃れるように、窓の外に視線を移した。
空はどこまでも青く、いくつかの白い雲がゆっくりと流れていく。
俺はただ、この指定された席に座って、すべてが過ぎ去っていくのを、眺めているだけだった。
そんな単調な時間が、どれだけ続いたのか。
唐突に、授業の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。
それは、教室という空間を『授業』から『一日の終わり』へと切り替える合図だ。
先生はチャイムの音とほぼ同時に「……今日はここまで」という終了の合図を発し、教科書を閉じて速やかに教室から退場していった。
その瞬間、抑えられていた教室の空気が一気に膨張していく。
放課後の喧騒だ。
椅子を引く音、鞄に教科書を詰め込む音、解放感に満ちた話し声。さっきまでの授業という空気から解放されたクラスメイトたちは、一斉に「部活へ向かうヤツ」「友人と喋るヤツ」「帰宅するヤツ」へと、それぞれ変わっていく。
俺は、その喧騒に加わらず、席を立つ気にもなれず、ただ窓の外を眺め続けていた。この騒がしさが過ぎ去り、教室が再び静かになるまでを待っている。それが俺のいつものパターンだからだ。
不意に、教室内のざわめきの中で、いくつかの視線がこちらに向けられるのを感じた。放課後の高揚した空気の中では、俺みたいに動かないヤツは、かえって目立つのかもしれない。
俺は窓から視線を外し、机の上に目を落とす。誰かと目が合えば、応答する義務が生じる。それは面倒きわまりない。
けれども、そうやっていると、ひとつの足音が俺の机の横で止まった。
俺の視界の端に、制服のスカートの裾と、白いソックスに包まれた足首が映る。
「ねえ、ちょっといいかな?」
明らかに俺への問いかけ。だから仕方がなく、俺はゆっくりと視線だけを上げた。
そこに立っていたのは、アカネだった。
明るく染められた髪を揺らし、快活な、誰に対しても分け隔てのない笑顔を浮かべている。彼女は、このクラスのクラス委員だ。その外見も表情も声のトーンも、すべてが彼女の立場によく合っているように、俺には思えた。彼女の周囲には、いつも人が集まっている。まさに彼女は、このクラスの『中心』にいる人間。俺のような『最果て』にいる人間とは、本来、接点などないはずだった。
俺は何も答えない。ただ、無言で彼女を見返す。それが、俺にできる最大限の応答だ。
アカネは俺のその態度を特に気にする風でもなく、手に持ったクラス全員分であろうプリントの束と、その中から抜き出した一枚の紙を俺の机に示しながら続けた。放課後の喧騒の中で、彼女の声は俺の耳にだけはっきりと届いた。
「これ、今朝のホームルームで回収した進路希望調査のプリントなんだけど」
「……」
「君の第二希望のところが空欄になってて。今日中に集計して先生に提出しなきゃいけないんだけど、一応確認しておこうと思って」
彼女はそう言って、俺の机にそのプリントを置いた。確かに、それは数日前に配布されて今朝回収されていたものだ。俺は第一希望欄に、家から通えるという理由だけで選んださして難しくもない私立大学の『文学部 哲学科』とだけ書き、それ以外をすべて空白のまま提出した記憶がある。自分の現在の学力からすれば特に努力も不要で、かといって余裕すぎるわけでもない、妥当なライン。ただそれだけだ。第二希望どころかほとんどすべてが白紙だったはずだが、彼女は律儀にもまず第二希望欄という形式的な不備から指摘してきたわけだ。
「……空欄のままでいい」
俺がようやく発した声は、自分でも驚くほど低く、乾いていた。長らく使っていなかったせいか、喉が少しひりつく。
アカネは俺が口を開いたことに少しだけ目を丸くしたように見えたが、すぐにいつものそつない笑顔に戻った。
「うーん、でも『空欄不可』って先生が言ってて」
彼女は困ったように顔をしかめたが、その表情すらも作られたものに見えた。彼女が困っているのは俺の将来に対してではなく、ただ『集計表の空欄が埋まらない』という目の前の問題に対してだけなことが見てとれた。まあ、他人のことなんてどうでもいいのだから、そんなものか、と俺はひとりで納得する。
「……何でもいい。適当に書いておいてくれ」
俺は、そのプリントから視線を外し、再び窓の外へ向けようとした。今の俺にとって、進路などという『未来』の話は今のこの退屈な日常以上に現実味のない、観念上の存在でしかなかった。
「そういうわけにもいかないよ。……ほら、せめて第二希望だけでも。何かない?」
彼女は諦めずに食い下がってきた。その声はあくまで事務的で、ただ『集計を完了させる』という彼女の仕事を忠実に終わらせようとしているだけだった。
俺は数秒間、沈黙した。この面倒な膠着状態を終わらせるには、俺が何かを「言う」しかない。それが、この世界のルールのように思えた。
「……同じ大学の、別の学部でいい」
「え? 同じ大学の?」
「ああ。……文学部の、史学科とか、そんなので」
「そっか。……わかった。じゃあ、こっちは『文学部 史学科』って書いて提出しておくね」
彼女は少しだけ意外そうな顔をしたがすぐに納得したように頷き、手元のペンで俺のプリントに『文学部 史学科』と書き込んだ。その動作は、とても手際が良かった。
「なんか、ごめんね、いきなり。忙しいとこ」
忙しいとこ、と彼女は言った。俺がこの席で、ただ過ぎ去る時間を眺めているだけなのを知っているはずなのに。それもまた、お決まりの社交辞令なのだろう。
彼女は書き込みが終わったプリントを、再び集計の束に戻した。
これで、俺と彼女との間に発生した面倒な用事は終了したはずだ。俺は再び窓の外に視線を戻そうとした。だが、アカネはすぐには立ち去らなかった。
「……いつも、何見てるの?」
不意に、彼女の声のトーンがわずかに変わった。それはさっきまでの事務的な響きとは違い、ほんの少しだけ個人の興味を含んでいた。
俺は再び彼女に視線を向ける。
彼女は俺が見ていた窓の外、その向こうの、もうすぐ夕暮れに差し掛かろうとする空を見つめていた。
「別に」
「そっか。……そうだよね」
彼女は、それ以上は何も聞いてこなかった。彼女は一瞬何かを言いかけたように口を開きかけたが、結局それを飲み込み、いつものそつない笑顔に戻った。
「じゃあ、プリントはこれで進めとくね。ほんと、ありがとうね」
彼女はそう言うと、手にしたプリントの束を抱え直し、俺に背を向けた。その足取りは軽いまま、教室の後方のドアへと真っ直ぐに向かっていく。おそらく、彼女にはまだ『集計して先生に提出する』という『仕事』が残っているのだろう。
ドアが開閉する音と共に、彼女の姿は廊下の向こう側へ消えた。教室にはまだ、いくつかのグループがそれぞれの『放課後』を続けるために残って談笑している。
俺は再び窓の外に視線を戻した。そこにある空は相変わらず青く、雲は相変わらずゆっくりと流れている。
すべてが元通りだ。
俺は他人と関わらず、世界との間に距離を置く。それが俺の選択であり、俺の日常なのだから。
アカネとの接触は日常の中に紛れ込んだ、ほんのわずかなイレギュラーに過ぎなかった。それは、すぐに忘れ去られる、取るに足らない出来事。
そのはずだった。
だが、俺の意識の片隅に先ほどの彼女の最後の問いが引っかかっていた。
『いつも、何見てるの?』
俺は、一体何を見ているのだろうか。
それは俺も含めて、誰にも分からないのかもしれない。
たぶん、きっと。




