崩れ落ちる仮面
心地よい静寂に包まれた中で、ページをめくる音が微かに響く。魔塔に通い始めてから三日ほど経ったこの日、ロゼアリアは王立図書館に足を運んでいた。
魔法使いの彼らと関わるうちに、人間と魔法使いの関係について知る必要を感じたからだ。
(やっぱり、あの戦争のことについて書かれてるのって人間側のことばかり。魔法使いが悪者みたいな書き方しかされてない)
調べていたのは三百年前の戦争のこと。その当時のことを調べれば、魔塔が人間を頑なに拒み続ける理由も分かるだろうと思っていたのだが。
どの本を読んでも、出てくるのは人間側の英雄ばかり。
(こういう、魔法使いへの偏見が拭われないから交流をやめたのかも)
人間が魔法使いを道具のように扱っていたことで、魔法使い達が反発して起きた戦争だ。黒い魔法使いというリーダーを失った魔法使い達は、人間と関わらずにひっそりと生きる道を選んだのかもしれない。
(そうだとしたら、私が魔塔を出入りするのはものすごく嫌なことよね……)
申し訳ないと感じても、今さらやめるわけにはいかない。
(魔物が人間と魔法使いの共通の敵だと思ってもらえたら……)
そうすれば全て上手くいく。魔物の脅威を弱らせることができるし、魔法使いと人間の間に絆も生まれるかもしれない。
(でもどうすればいいの? カーネリア卿は魔物より人間を敵だと思ってる。私とオロルックを黙認してるのは、リブが私達と親しくしてるから)
リブリーチェと過ごす時に必ずアルデバランがいる理由には気づいていた。あれは、ロゼアリア達がリブリーチェに下手なことをしないよう監視しているのだ。
アルデバランと二人で話そうとしても、彼は応じないだろう。
(信頼関係を築くってすごく難しいわね)
いや、少し違う。ロゼアリア個人がアルデバランに信頼される必要はないのだ。魔塔と騎士団がビジネスパートナーのような関係にさえなれればいい。それだけなのに。
そのビジネスパートナーになるにはアルデバランから信頼されなければならない。
(ううん、信頼できない相手と一緒に仕事なんてできないわ。カーネリア卿にいきなり全ての人間を信頼しろ、なんて言えないから──まずは私が信じてもらえる人にならなくちゃ)
目指すは友達第一号。気を取り直して、再びページをめくる。
「──お嬢様」
どれくらい経ったろうか。フィオラの声で現実世界に引き戻された。気づけば、西日が本のページをオレンジ色に染め上げている。
「まもなく閉館のお時間が近づいております。今日のところは帰りましょう。」
「もうそんな時間だったのね」
すっかり調べ物に没頭していた。フィオラに本を戻すのを手伝ってもらい、図書館を出る。
「オロルックが馬車を向こうの通りに待機させています」
「分かったわ」
馬車まで少しだけ歩く。長時間座っていたせいで固まった身体にちょうどいい距離だ。もちろん、今の彼女は白薔薇姫。人目を気にせず伸びをしたりはしない。
「調べ物は進まれましたか?」
「あまり。読みたい本を探すことに時間をたくさん取られてしまったわ」
王立図書館の蔵書の多さを考えれば当然のこと。国中の叡智が集う場所とも呼ばれるくらいだ。
(魔塔もたくさん本があった。どっちの方が数が多いかしら)
壁という壁が本棚で完成されている魔塔を思い出す。それが最上階まで続いているなら魔塔の方が多い。
(最上階は行ったことがないのよね。一番上から外を見たら、どんな風に見えるんだろう)
今度リブリーチェに案内を頼んでみるのも良いかもしれない。
その時だった。
「──助けて!!」
夕暮れの街に突如響いた悲鳴。その場にいた全員が驚き、声の方向を振り返る。
パン屋の前で少女が転ぶ。彼女の頭上に、今まさにナイフが振り下ろされている。
「お嬢様!!」
フィオラの顔が青ざめる。少女の前に滑り込んだロゼアリアが、ナイフを持つ男の手を掴んでいた。切っ先がロゼアリアの左頬を裂き、鮮血がドレスを濡らす。
「チッ、貴族の女が邪魔すんじゃねェ!!」
一度距離を取った男がナイフを構え直して突進してくる。狙いはあくまで後ろの少女。男から目を逸らすことなく、ロゼアリアが壁に立てかけられていた箒を掴む。
男がナイフを振るより先に、ロゼアリアが箒を薙いだ。寸分の狂いもなく男の手首に箒の柄を叩き込む。
ナイフの軌道が逸れたのを見逃さず、続けざまに膝へ一撃。男の体勢が崩れるなり相手の腹部へもう一撃を叩き込む。苦痛のあまり男の手からナイフが滑り落ちた。それを蹴り飛ばし、ロゼアリアは箒の先をうずくまる男へ向ける。
男を制したのも束の間、どこに潜んでいたのかもう一人の男が横からロゼアリアに襲いかかった。それにロゼアリアは動じず、ただ視線だけを投げる。
「──下がりなさい」
一切の感情も孕まぬ低い声。その場から一歩も動くことなく放たれた一言が空気を震わせ、男の足を止めた。
冷たく射抜くブルージルコン。ロゼアリアの圧に男がたじろぐ。そこへ、騒ぎを耳にしたオロルックが駆けつけてきた。
「お嬢──」
主の頬から流れる赤に、オロルックの顔が一瞬で怒りに染まった。
「てめぇ!!」
動けずにいる男を突き飛ばし、抵抗の隙も与えず地面に組み伏せる。
依然としてロゼアリアは動かず、ただ静かに二人の男を見下ろした。そこに白薔薇姫の姿はない。
「お嬢様!! ああ、どうしましょう! 血が──!!」
涙目で駆け寄ったフィオラがロゼアリアの頬をハンカチで押さえる。それを受け取って、ようやくロゼアリアが肩の力を抜いた。
「擦り傷よ。フィオラ、警吏隊を呼んできて。貴女、怪我はない?」
少女の前にロゼアリアがしゃがみ込む。よほど怖い思いをしたのか、唇を震わせながらも少女は小さく頷いた。
「あ、ありが……」
「もう大丈夫。警吏隊もすぐ来るわ」
危ないところだった。傷を負ってしまったのは迂闊だったが、目の前で少女の身体が引き裂かれるのを見るよりずっとマシだ。
どうしてこんな事態が起きたのかは警吏隊が調べてくれる。彼らが到着するまでは少女の傍にいることにした。
程なくしてフィオラが警吏隊と共に走って来た。これで本当に安心できる。
「ねえ、あれって白薔薇姫様?」
「まるで剣のように箒を振るってたけど……」
こんな騒ぎが起きれば当然人は集まってくる。ロゼアリアの姿を見て訝しげに話す声があちこちから聞こえてきた。ハッとオロルックが気づき、すかさずフィオラに声をかける。
「フィオラ、お嬢を連れて先に帰れ! あとは俺が引き受けるから!」
もう遅い。馬車の家紋を見れば正体が完全に知られてしまうし、かといって待機場所を路地裏に移す余裕もない。
白薔薇姫の体面を保つなら、あの場に首を突っ込まずに帰るべきだったのだ。
「急いで邸宅へ向かって!! 早く!!」
フィオラが血相を変えて御者に指示を飛ばす。ロゼアリアの押さえるハンカチがすっかり真紅へと染まりきっていた。
(──血が止まらない)
思ったより深く切っていたらしい。今になって傷口が鋭い痛みを持ち始める。
「お嬢様……! なんてことに……っ」
ロゼアリアよりもフィオラの方が焦っている。
「大丈夫。擦り傷と言ったでしょ」
「こんな時に冗談はおやめください!!」
冗談なんて。ただ、あまりにもフィオラが動揺と不安を見せるから、大したことはないと伝えたいだけだった。
騎士を務める以上傷は避けては通れない。騎士団の中には魔物に四肢を奪われた者だっているのだから、これくらいは擦り傷だ。ただ少し、場所が悪かっただけで。
顔に傷を負って帰ってきたロゼアリアに当然屋敷はパニックになった。すぐに医者が呼ばれ、されるがまま傷の処置を受ける。
貴族の令嬢にとって、白薔薇姫にとって何より大切な顔に傷を負ったのだ。それがどれだけ致命的なことか十分理解しているのに、なぜかロゼアリアの心はとても落ち着いていた。
母やフィオラが倒れそうな程に取り乱していたからかもしれない。




