旅立ちの前
ロゼアリアが協議に参加したのはあの一日だけだった。久しぶりに訪れた魔塔で、どんなことが決まったのかをアルデバランに尋ねる。
「結局、貴方がザジャへ行くの?」
「ああ。面倒だが仕方ない。騎士団の本格的な派遣はその後だ」
「そっか。忙しそうね」
ところが、アルデバランは不思議そうに眉を上げてこちらを見てくる。
「何言ってるんだ? ザジャの同行者にロゼを推薦しておいた」
「え」
ザジャの使節に推薦? それは、つまり。
「……行っていいの?」
グレナディーヌの外の世界に。想像しただけで、好奇心が湧いてくる。とても魅力的なお誘いだ。
「行くかどうか決めるのはロゼだ。俺は推薦しただけにすぎない」
「行きたい!」
考えるまでもなかった。ロゼアリアが外の世界を見る好機をみすみす逃すはずもない。
「決まりだな」
フッと口元を緩めるアルデバラン。しかし彼の隣に座るリブリーチェは悲しそうに眉尻を下げた。
「ロゼ姉さんも行っちゃうんですか? オロルックは?」
「お嬢が行くなら俺も行くっスね」
「そんなあ」
リブリーチェの表情がさらに悲しみに染まる。そんなリブリーチェを見かねてか、アルデバランが優しくなだめた。
「別に遊びに行くわけじゃない」
「でもボクばっかり置いてけぼりです!」
「すぐに帰って来る」
「すぐっていつですか?」
じとっとリブリーチェがアルデバランを睨む。十歳ほどしか離れていないのに、二人の様子はまるで親子だ。
アルデバランは三百年前から存在し続けているので、実際は親子どころか孫、ひ孫以上に離れている。
「どれくらいで帰ってきますか? 星祭りまでには帰ってきますか?」
「それまでには帰って来るよ」
リブリーチェに迫られてたじたじになっているアルデバランが面白い。これではどっちが魔塔の主なのか。
「いいか、ザジャで魔法使いがどんな扱われ方をしてるか知らないから連れていけないんだ。リブだけじゃなく」
東の大国、ザジャ。戦乱と波乱に満ちた歴史を持つあの国のイメージは決して穏やかではない。ロゼアリアも、旅の同行に両親が反対するのが目に見えていた。
それでも好奇心が勝る。それに、アルデバランが一緒ならなんだかんだ大丈夫な気もするのだ。
「リブ、お土産にザジャのお菓子をたっくさん買ってくるから」
アルデバランに助け舟を出してやる。「お土産」という言葉にリブリーチェの表情が少し明るくなった。助かった、とばかりにアルデバランが短く息を吐くのが見えた。
「本当ですか!? 甘いの、甘いのがいいです!」
「分かった。甘いものね」
お土産を買う約束のおかげで機嫌を戻してくれた。こういう所はまだまだ子供なんだな、と感じる。
「悪いが、ザジャに行く前に前倒しで片付けたい仕事があるんだ。先に戻るぞ」
花茶を飲み終えるとアルデバランが立ち上がった。その背中をロゼアリアが追いかける。実は、アルデバランに頼みたいことがあった。
「カーネリア卿!」
「ん? どうした」
振り返ったアルデバランに、ロゼアリアはあるものを取り出す。
壊れてしまった繊細な金細工。純白の輝きを放つ完璧な雫。
アーレリウスから貰い、感情のままに投げつけた真珠のピアスだった。
「これ、直すことってできる?」
アルデバランがロゼアリアの手からピアスを受け取り、まじまじと眺めた。
「完全に戻すのは無理だ。この状態から、俺が推測した形に作り直すことしかできない」
「それでも構わないわ」
アルデバランは軽くうなずくと、ピアスをロゼアリアに返した。何をしたのか、この一瞬で真珠は元通り金細工に包まれている。
「え、すごい……どうやったの?」
「一度分解して組み直した。ロゼの心臓にしたのと同じことだ」
「心臓? 私の?」
アルデバランが指し示すのはロゼアリアの胸元。知らない話にロゼアリアは眉をひそめた。
「ロゼが産まれた時、その心臓はほとんど機能していなかった。だから俺が細胞から組み直した。もちろん、完璧にな」
「それって、カーネリア卿がいなければ、私は生きてなかったってこと……?」
ロゼアリアの疑問にアルデバランは沈黙で肯定する。
「じゃあ、私……」
母と共に助けられたことは知っていたが、まさか心臓まで与えられていたなんて。自分は、そんなに前からこの人に生かされていたのか。改めて不思議な感覚だった。世界にとって大罪人である彼が、自分にとっては産まれた時から命の恩人だというのは。
「ロゼの父親が助けを求めに来たからできたことだ。礼なら父親に言え」
そう言うと、アルデバランは背を向けて歩き出してしまう。
「あ、あの!」
その背中を、もう一度ロゼアリアは呼び止めた。
「ありがとう! あ、アルデ、バラン……」
従者や部下以外の男性を呼び捨てるなんて初めてだ。アーレリウスにすら、敬称を付けて呼んでいたのに。アルデバランの顔は直視できないし、耳まで熱い。
「うん」
少しだけ振り返ったアルデバラン。その口元には、小さく笑みが浮かんでいた。
グレナディーヌを発つ三日前。ロゼアリアは自室で便箋にペンを走らせていた。
「んー……素っ気ないのもあまり良い印象が無いわよね」
便箋や封筒の隣には、別の手紙。宛名はクロレンス公爵家。アーレリウスから届いたあの手紙だった。
そこに書かれていたのは、想像通りのもので。「君との婚約を白紙にしたい」というたった一文だけが綴られた、粗末なものだった。
婚約破棄を了承する内容さえ書ければ良いのだが、それだけというのは自分の中で何かしっくり来ない。最後はあんな形で終わってしまったが、それでもあの二年間が幸せだったことは真実だ。
少し考えて、新しい便箋に文字を綴る。
『拝啓 アーレリウス・ディア・クロレンス様』
真っ白な紙に、青みを帯びた黒いインクが美しい文字を成してほんの少し滲む。先程まで悩んでいたのが嘘のように、すらすらと文が浮かんでくる。
『婚約を白紙とする旨、承知いたしました』
偽りの姿を演じ続けていたことへの謝罪、騎士団に所属していたことを明かさなかった謝罪、この二年間の感謝、今でも覚えている出来事。
一つ一つ浮かんでは、静かに消えていった。
愛していた。白薔薇姫という嘘を突き通していても、この愛はどこまでも本物だった。痛いくらいに本物だからこそ、偽りを貫いた。
愛していた。きっと世界で一番、自分が彼を愛していた。
だからもう、「愛していた」とは書かなかった。全てはとっくに過去に変わったのだから。
ひと月前まで完璧な恋人同士だった。あの頃の自分は、こんなことになっているなんて想像もしなかっただろう。振り返れば随分と遠くへ来たものだ。
アーレリウスのいる世界と自分のいる世界は、もう同じではない。悲しいとは思わなかった。むしろ清々しかった。
自分の道を歩き始めているのに、なぜ悲しむ必要があるのか。白薔薇姫という仮面が崩れ、満ち足りた息苦しい世界から追い出された先にあったのは、青くどこまでも高い自由。
「初めから私の居場所じゃなかったのよ」
書き上げた手紙を満足そうに眺め、ピアスと共に封をした。
フィオラに手紙を渡した時には、頭はもうこの先の旅のことでいっぱいだった。
この瞬間、本当の意味でアーレリウスとの婚約は終わった。それを嘆き悲しむ白薔薇姫はもういない。ラウニャドールの脅威が消え去った今、冷静沈着で勇ましい姫騎士もしばらくは休んでいることだろう。
ここにいるのは、未知の世界に心を弾ませるロゼアリア・クォーツ・ロードナイトという十六歳の少女だけだった。
「さ、旅の支度をしないと」
何日滞在することになるか分からない。必要な物を忘れないように、ロゼアリアは準備を始める。
慌ただしそうに動き始めた彼女を、窓際の小さな花がそっと見守っていた。




