休憩回(2)龍殺しの夫婦の日常
休憩回(2)龍殺しの夫婦の日常
夜はしんと静まり返り、寝室のランプだけが淡く灯っていた。
アイラはシーツに身を沈め、目を閉じようとしたとき、隣でライモがくすくすと笑う声がした。
「アイラ、聞いて。僕、この前読んだ愛の物語の一節を覚えてるんだ」
彼はうれしそうに体を寄せ、まるで秘密を分け合う子どものように囁いた。
「『たとえ離れているときも、心はひとつ。僕の心臓は君、君の心臓は僕だよ』――そう書いてあったんだ」
言い終えると、ライモは頬をほんのり赤らめて、けれど隠しきれない笑顔を浮かべた。
その無邪気な笑みは、天使が夢を語るように澄んでいた。
「ねえ、僕、本当にそう思うんだ。僕の心臓はアイラなんだよ。だからどんなに遠くにいても、ちゃんと動いてる。ずっと、一緒だよ」
アイラは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
彼の言葉は物語の引用にすぎないはずなのに、その声に宿る愛は確かなものだった。
ライモは彼女の手を取って、子どものように額に押しあてる。
「おやすみ、アイラ。……愛してる」
月明かりの中、甘い静寂だけが二人を包みこんでいた。
朝の寝室。
陽が差しこんでもライモは布団にくるまり、ぴくりとも動かない。
「ライモ、起きて。……ほら!」
アイラは頬を赤らめながらも、遠慮なくぺしぺしと彼を叩いた。
「いたっ、いたた……僕、起きるから! やめてよアイラ!」
しぶしぶベッドから起き上がったライモは、不機嫌そうに唇を尖らせていた。
そんな様子のまま二人は食卓につく。空気はどこか重たい。
「おやおや、喧嘩かね?」
朝食の席にいたアイラの父が、目尻に笑い皺を寄せながら尋ねる。
するとライモは、すぐさま父の方へ身を乗り出した。
「お義父さん、聞いてくださいよ! 僕、アイラに朝から叩かれたんです。ほんと痛かったんだから!」
「あなたがなかなか起きないからでしょう!」
アイラも負けじと声をあげる。
父は肩を揺らして笑った。
「若いっていいねえ。朝からにぎやかで」
しばらく言い合っていた二人だったが、テーブルに並んだデザートのヨーグルトを前にすると、空気がふっと和らいだ。
「僕はね、ブルーベリーを入れる」
ライモは匙で紫のジャムをすくい、得意げに混ぜる。
「じゃあ、私は苺よ」
アイラも赤いジャムをひとさじ。
互いにスプーンを差し出し、顔を見合わせる。
「はい、あーん」
「……あーん」
甘酸っぱい味と、照れくさい笑い。
ヨーグルトの白に、赤と紫が溶け合うように、二人の不機嫌もすっかり消えていた。
休日の午後。
机いっぱいにノートと紙を広げ、二人は数字と記号で世界を埋めていた。
「次は僕の番だね。いい? じゃあ――」
ライモは白紙のノートに滑らかに書き込んでいく。
「この微分方程式を解いて。初期条件つき、境界は零から無限大」
式が並ぶ。特殊関数を含む見事な一行。
アイラは目を細めると、すぐに反撃するようにペンを走らせた。
「なるほど、ラプラス変換を使えばすぐね」
「えっ……もうそこに気づいたの?」
「ふふ、こういうのは変換すれば一瞬よ。――はい、解答」
三分も経たぬうちに、アイラは正しい解を導き、紙を差し出した。
ライモは肩を落とし、苦笑する。
「うぅ……やっぱり僕の負けだ。でもこのグリーン関数の扱いは、僕のほうが工夫があったと思うんだよ」
「ええ、アプローチとしては悪くなかったわ。でも特異点の処理が甘いの」
「甘い……」
ライモは悔しそうに眉を寄せたが、その瞳はどこか楽しげでもあった。
「じゃあさ、次は僕から質問。アイラ、無限級数の収束判定で一番美しいと思う方法はどれ?」
「ダーランベールの比収束判定。単純で、なおかつ直観的でしょう?」
「僕はコーシーの根判定が好き。なんだか調和の響きがあるんだ」
二人はそのまま、収束半径や発散級数の話題で盛り上がる。
式を挟んで言葉を交わしながら、まるで恋人同士が互いの趣味を語るように、熱中していた。
「やっぱり僕は負けちゃうけど……でも、アイラと数式で遊んでると、世界がすごくきれいに見えるんだ」
そう言って笑うライモに、アイラは静かに微笑み返した。




