第8話「翼の記憶」
暗い風の中を、ぼくは飛んでいた。
地上が小さく見える。家も、人も、木々も、点に近い形で流れていった。
風を切る音が耳に響き、身体の周囲を淡い光が包み込んでいる。背中には羽のような感触があり、自分の意志だけでその向きと速度を自在に操ることができた。
(急がなければ!)
誰に向けてなのか――なにに追われているのかも分からない。ただ、夢の中のぼくはひどく焦っていた。
目の前には何かがある。遠く、空の向こうに見える影に向かって、ぼくは手を伸ばしていた。
景色は信じられない速さで流れていった。山を越え、川を越え、雲を突き抜け、さらに高みへと昇る。身体は息つく暇もなく加速していく。
(間に合ってくれ……!)
後ろには何人かの仲間のような影がいた。見たことのあるようで、思い出せない顔。彼らは必死に追いかけてくるけれど、誰もぼくには追いつけなかった。遠くで何かを叫んでいる。それは悲鳴のようでもあり、祈りのようでもあった。
胸の奥が張り裂けそうになりながら、ぼくは再び手を伸ばした。届かない。あと少しなのに、距離が縮まらない。風は冷たく、光はまぶしく、指先がかすかに震えた。
その瞬間だった。
ぼくの視界が急に暗転した。
世界のすべてが、すぅっと沈み込むように消えていった。
──静寂。
次にぼくが気づいたとき、部屋は静かだった。鼻に触れるのは布の香り、耳に届くのは涙をこらえるような、小さなすすり泣き。
ぼくは重い瞼をゆっくり開けた。
視界には母――ルーネの顔があった。涙に濡れた頬、震える唇、そして何より、ぼくの手をしっかりと握っているその姿が、強く心に焼きついた。
「ラクス……ラクス……よかった……」
母の瞳は泣いているけれど、そこには安堵の色もあった。ぼくは、自分の指先に少し力が戻っていることに気づいた。身体はまだ重い。でも、母の手が温かくて、心は不思議と落ち着いていた。
夢のことは、全部覚えていた。
空を飛んだこと。焦っていたこと。仲間たちが叫んでいたこと。
そして……なにか大事なものを取り戻したいと思っていたこと。
(あれは夢だったのか……?)
記憶ではない。だけど、幻とは思えなかった。ぼくの中に、空の振動と風の感触が確かに残っている。
あれは“知っている感覚”だった。今までずっと忘れていたものが、ぼくの魔力の奥底で眠っていたのかもしれない。
母は何度も、ぼくの体をさすった。冷たくなった肌を少しでも温めるように、手のひらで背中と胸を優しく包んでくれる。
(ありがとう……)
言葉にはならない。けれど、気持ちは確かに伝わっていると思った。母の涙が、ぼくの頬にぽたりと落ちた。その熱さが、心を照らした。
ぼくは、夢の中で見た“翼”の感触を思い出していた。あれは……現実だったのか? 幻だったのか?自分にはわからない。ただ、ひとつだけ確信している。ぼくは、空に還る者なのだ。
そして今、母の腕の中にある命の温もりこそ、空よりも確かなものなのだと。
その夜、ぼくは再び目を閉じた。あの夢の続きを見るためではなく、母のぬくもりを覚えて眠るために。




