第6話「魔法」
魔法を使ってみたい!
その衝動が、突然ぼくの胸を突いた。
生まれて四か月あまり――首はしっかり座り、おんぶで高い視点から世界を眺められるようになっていた。
背中越しに聞く母の台所仕事は、ぼくにとって一種の儀式だった。
薪を割る音、鍋底をかき混ぜるへらのこすれる音、そして母の低い呟き。あのとき、火がぽっと灯った瞬間を、ずっと忘れられなかった。
呪文の言葉はわからない。だけど、母が指先でポッと火を生み出す仕草をするたび、本当に魔法なんだと思った。生活の中に潜む不可思議を、自分の手で起こしてみたくて仕方がなかった。
布団の上に仰向けに寝かされ、ぼくは右手をゆっくりと掲げた。腕はまだ赤ん坊らしい太さで、指先はふにゃふにゃだ。それでも、ぼくは意識を一点に集中させた。
「おおーおー(ほのおよー)」
小さく声を出してみる。何も起こらない。ただ、鼓動が耳の奥で高鳴り、身体がざわつくだけだった。呪文だけではダメかもしれない。そう思った。
魔法にはイメージが必要だと、ぼくの身体は教えてくれた。火を灯すなら、炎の細かな揺らめきを心に描き、熱の感触を指先に宿さなければならない。魔力は自分の中から引き出すエネルギーだ。
ぼくは息を大きく吸い込んだ。胸の奥で脈を打つ血が、魔力の正体だ。静かな決意とともに、再び指先へ意識を送り込む。
(ファイヤー……!)
その瞬間、ぼくの指先に小さな赤い火球が現れた。
ポッ、と乾いた音をたてて、まるでライターの炎のように揺れている。
(やった……!)
胸の奥から歓喜がじわりと溢れた。呪文よりイメージ、イメージがすべてなんだ。ぼくは確かに魔法を使えた。
しかし喜びはすぐに焦りへ変わる。炎は指先から徐々に布団へ広がり、焦げる匂いが鼻を突いた。まずい。火が移り、部屋を燃やしてしまう。
(消えろー! 消えろー!)
叫ぶように心で念じ、意識を逆方向へ引き戻す。
スッ。炎はしぼみ、指先から跡形もなく消えた。焦げ後の小さなこげ茶色の点だけが証拠として残る。
(ふう……)
安堵とともに、全身の力が抜けた。
火はまずい。証拠を残さないためには、別の魔法で試すしかない。
水では衣服を濡らしてしまい、母に怪しまれる。だとすれば、風だ。風なら何も濡れず、煙も匂いもなしに魔法の証明ができるかもしれない。
ぼくは再び右手を掲げた。今度は、風のイメージを思い描く。扇風機の羽根が回る感触、吹き抜ける涼風、そよぐ草原を指先で触る感覚を。
(イメーーーーージ!)
ヒューッ。
指先から確かな風が吹き出し、隣のカーテンをかすかに揺らした。埃が舞い、部屋の空気がざわついた。
(すごい……風が出た)
ぼくは目を見開き、胸が熱くなるのを感じた。火と風、二つの魔法を立て続けに使いこなした瞬間だった。
だがその直後、視界が一気に暗転し、手先の感覚が遠のいた。
(ま……まさか……)
魔力の使いすぎで、気絶する。
体の奥深くが凍りつくように冷え、意識が静かに失われていった。ぼくは初めて、自分の魔力の限界を知った。そして、魔法には喜びだけでなく、リスクも伴うのだという真実を理解したのだった。