第5話「火と暮らしの魔法」
生まれてから4か月――首がしっかり座りかけ、おんぶで揺られながら世界を見渡せるようになった。縁側から差し込む朝の光、畳の縁に映る格子の影、遠くに広がる空。胸の奥で小さく歓声が湧く。
ある夕刻、母は台所へ向かい、薪を取りに外へ出た。束ねられた薪を手際よく割り、石造りの炉に組み上げる。薪同士が乾いた音を立て、白い粉が舞う。この音だけで、ぼくは何か新しい出来事の気配を感じ取った。
母は薪のそばに立ち、低くひと息つくと、やわらかな声で言葉を紡いだ。
言葉の意味は分からない。でも、次の瞬間、母の指先に小さな火花が灯った。
チリチリと小さな音をたて、薪の山へ踊るように飛び移る。
「ポッ……」
薪の一本がゆっくりと燃え始め、パチパチと薪同士が火をくべ合う。焔は勢いよくその輪を広げ、まもなく炉いっぱいに赤い熱を満たした。煙突からは穏やかな煙が上がり、部屋を暖かな木の香りで満たしていく。
ぼくは背中で大きく弾み、肺いっぱいに匂いを吸い込んだ。
――これが、魔法というものなのか。
おんぶ紐に覆われたまま、僕は間近で炎の様子を確かめたかった。だが母はすぐに動き出し、炎は視界の奥へと消えていく。僕は声にならない声をあげ、足をバタバタと振り回して必死に「あーあー!」と訴えた。
母はふと立ち止まり、振り返ってそっと笑った。
「お腹が空いたのね。もうすぐご飯よ」
その一言とともに、僕の好奇心は一度宙に浮いた。だが母の腕は優しく、細い息遣いとぬくもりが胸に伝わり、やがて僕は不思議と安心に包まれた。
母は鍋に野菜を放り込み、煮立った湯気に手をかざしながら再び語りかけた。
「火が消えちゃ困るからね。今日は少し長くかかるわよ」
鍋底で野菜が踊る音、出汁の香りが立ち上る。僕は背中で身体をよじりながら、その音と匂いを全身で覚えようとした。
やがて台所からは湯気の音だけでなく、金属のへらが鍋底をこするカタリ、カタリという音が混ざる。母は軽く調味料を舐め取り、再び鍋に加えると、まるで儀式のように静かに蓋をした。
「はい、できあがり。少しずつだけど、あなたもお味見しましょうね」
母はぼくを前に抱き寄せ、口元に小さな汁を運んだ。熱すぎない温度に、驚きながらも舌先で液体をすくう。塩のほんのりとした甘みと、野菜や肉の旨味が混ざり合い、口の中で広がる。僕の全身がふわりと温かくなる。
その瞬間、世界は味覚とぬくもりで満たされた。火をつける呪文の不可思議さではなく、目の前で料理が生まれる喜び――生活の中にある魔法の本質を、ぼくは理解した気がした。
やがて夕闇が家を包み、縁側には暖かな灯りが揺れる。僕の瞼は重くなり、またひとつ大きな発見を胸に、ゆっくりと眠りへ誘われていった。
明日の朝には、さらに新しい何かを見つけられるだろう。そう思いながら――瞼が閉じた。