第4話「森を駆けた男たち」
夕暮れの縁側。
戸が静かに開き、深い息を吐くように父が一歩踏み出した。
肩には勢いよく揺れる革鎧、その奥から滲む荘厳な気配。母は抱いたまま僕をぎゅっと包み、しんと張りつめた空気が一瞬ゆるんだ。
父は大きく息を整え、低く、しかし確かな声で告げた。
「ただいま。遅くなったが全員無事だ」
そのひと言が、縁側に並べられた日用品の音をすべてかき消した。母はほっとしたように肩の力を抜き、僕を胸から離して両腕に抱きかかえ直す。僕は母の胸の鼓動を感じながら、父の声の余韻を耳に焼きつけた。
父曰く、今回の獲物は「ボア」と呼ばれる森の魔物。森の奥深くを棲家としており、先月討伐した個体よりも一回り以上大きかった。
被害を受けた村人に事前に聞き取りを行い、集落近くの畑を荒らした二頭を特定。討伐隊を編成したものの、あまりの巨大さに一頭ずつ仕留めるにも時間がかかり、日が傾くまで帰りが遅れたのだという。
「念のため森の入り口付近も様子を見てきたが、他にボアがいる様子もなかった。壊された柵は明日建て直す予定だ。」
父の口調は重く、その言葉には揺るぎない意思が乗っていた。
いつもは畑仕事帰りにくるりと笑いかけるだけの顔が、今日は真剣そのものだ。僕の中で、父の威厳に心底からの安堵を覚えた。きっとこの人なら、どんな強大な魔物でも退けてくれる──そんな気持ちが自然と胸に広がる。
母は呆れたように小さく笑いながらも、頬を赤らめた。
「しょうがないわね。そんな大きなボアが二頭もいては……でも、無事でよかった」
母の言葉に、父は深く頷き、外を指さした。
「今から処理をしてくる。明日には肉を食卓に並べられるだろう」
外からはもう、肉の下処理を始めた村人たちの歓声が聞こえてきた。金属の刃が骨に当たる冷たい響き、太鼓を叩くような大きな掛け声。醸し出される獣の血と脂の匂いまでは届かないが、きっと広場ではお祭りのような活気に満ちているのだろう。
母は僕を抱えたまま立ち上がった。
「私も行くわ。あなたの手が必要なら」
父は微かに微笑み、指で軽く胸元を叩いた。
「助かる。だが、この子はできるだけ風を避けたい。おんぶができたら連れて行ってもいいが……今はまだ首も据わらんだろう」
僕はぎゅっと母の布にくるまれる。頬にあたる綿の感触と、母の髪の匂いだけが世界のすべてだ。だが、布越しに聞こえる父と村人の会話、外の空気に混じる忙しない足音は、僕の好奇心を強くかき立てた。前世で見たサバイバル動画のワクワクが、胸の奥で小さく跳ねる。
母の腕から伝わる温もりに少し安心しながらも、僕は言葉にならない声で呟いた。
「あー、うあうー、だー(肉を、見てみたい)……」
母が優しく笑いかけると、僕の瞼は自然に重くなっていった。
今日の父の背中──大地を蹴って走るような威厳に満ちた姿が、最後に浮かぶ。明日の食卓には、きっと父の手で仕留められた肉が並ぶだろう。その想像が、僕をやさしく深い眠りへと誘った。
僕の夢には、大きなボアの影と、父と母と並んで空を見上げる光景が浮かんでいた。
次に目を覚ますとき、僕はまた少しだけ、この言葉を理解しているに違いない。
──「ただいま」。