本当に愛しているのは君だけ、と言われても
支度を終えてしばらくすると、使用人が来訪者を告げる。エントランスに向かうと、彼が待っていた。
「ジゼル、今日も美しいね。まるで女神の様だ」
そういってとびきりの笑顔を向けてくれたのは、ジゼル・コーネットの婚約者カシアン・ヴィスター。透き通るような金の髪と、エメラルドグリーンの瞳。その、神々しいほど整った顔は多くの令嬢を魅了する。そのうえ侯爵家子息という身分も持ち合わせているので、ジゼルにとっては身に余る婚約者だった。
ジゼルは曖昧な笑顔でカシアンに応えた。
カシアンが流れるように優雅な所作で手をとると、馬車までエスコートしてくれたが、ジゼルの心は晴れなかった。
今日の夜会は、公爵家の主催ということもあって、多くの参加者で溢れ返っていた。主催の公爵様に挨拶し、一通り会場内の参加者に顔通しを済ませると、カシアンとは別行動になる。カシアンなりの友人関係もあるし、ジゼルはジゼルで話をする人も多いので、大体いつもの流れだ。
しばらく知り合いとおしゃべりしていると、友人の一人が不思議そうにジゼルに問いかけた。
「あれ、ジゼル様、たった今婚約者様とご一緒だったのでは?」
「え? 先ほどから別に行動しているけど……」
「おかしいわね、見間違いかしら。会場の奥へお二人で行かれるのを見たような気がしたんだけど……」
似ている方がいるのかもね、と軽く返事をしたジゼルだったが、その目は光っていた。
賑やかな会場から離れた、少し奥まった休憩室。人通りは全くない。公爵家の屋敷なだけあって部屋がいくつもあって探すのに苦労したが、ここで間違いない。ジゼルは一つの部屋の前で息を潜めていた。鍵は閉まっていて、使用中だということがわかる。中からは、注意しないと聞き取れないほどの小さな声が漏れ聞こえてくる。
どうやって、中に入ろうか……ジゼルが思案していると、突然後ろから口を塞がれた。
「んうぅ……!!」
驚いて後ろに目をやると、しい……と人差し指を口に当てる、黒髪の若い男性と目が合った。どうやら、静かにさえすれば、危害を加えられることはないようだ。抵抗する気がないと分かってもらえたようで、ジゼルの口から手が離された。同時に、男性の顔が耳元に近づく。
「レディには衝撃的な光景だろうから、すぐに立ち去った方がいいよ?」
黒いスーツには上品な金色の刺繍がしてあり、所作にも品がある。夜会に参加している貴族の誰かなのだろうけど……今までに会ったことはなさそうだ。そしてなぜか、中で何が起こっているのか理解している。
「……覗きが趣味なんですか?」
「人聞き悪いね。どうしても確認しなければならない理由があって、ここにいるんだ。君こそ、人のこと言えるのかな?」
「私は……婚約者の不貞の証拠をつかむ好機なんです」
「あー、それは、まあ、お疲れ様……」
あからさまに同情的な態度に、逆にジゼルの闘争心に火が付いた。
「気を使っていただかなくても構いません。あと、邪魔しないでください。いざとなったら、蹴破ってでも突入しようと身構えているところですから」
ふっ、と目の前の男性の口から息が漏れる。どうやら、笑われた様だ。ジゼルはむっとして相手を睨みつけたが、効いてはいない様子だった。
「屋敷を壊されるのは困るな。これを使う予定だから、早まらないで」
手には、部屋の鍵が握られていた。
バーン!と扉が勢いよく開け放たれると、そこにはジゼルの予想通りの人物がいた。
「カシアン様……と、お隣にいるのはレノーラ・オルデニア侯爵令嬢、ですね」
目の前で慌てて裸体を隠そうとする二人を、ジゼルはどこまでも冷静に、死んだような目で見降ろしていた。
「あー……ジゼル、これは……誤解で」
「この状況で、何をどう誤解しろと?」
「その、さ、ちょっと魔が差したというか……」
どういうことよ!?などと浮気女がわめいているが、ジゼルは構わず告げた。
「……そのような格好ではどんな弁明も無意味でしょうし、後日お話ししましょう」
それでもカシアンは何か必死にしゃべっていたし、扉の前で会った男性が何の目的で部屋に立ち入ったかも分からずじまいだったが、疲れ切ったジゼルは夜会会場から早々に立ち去った。
◇ ◇ ◇
目覚めは最悪だった。今後のことを考えると頭が痛いが、このまま何事もなかったように過ごすには無理がありすぎる。
進まない朝食をやっと終えた頃、カシアンが訪れた。
「ジゼル……会いたかった!! 大丈夫、昨日のあれは遊びだから。ジゼルは心配しなくていいよ」
なにが大丈夫だというのか。渋々屋敷に通して、開口一番がこれだ。
「……レノーラ様とは、以前からお二人で仲良く過ごされていたようですね?」
「もしかして……妬いてる?」
「……は?」
ジゼルの口からは凍り付くような「は?」が出たため、カシアンは悲しそうに首を横に振った。
「傷つけてしまったようだね。君が嫌がるなら、これからは二度とこんなことはしないよ?」
こてんと首を傾げ、カシアンの手が伸びてくると、ジゼルの頬に優しく触れる。ぞわりと鳥肌が立ち、思わずその手を払いのけた。
「いや、普通に婚約破棄案件でしょう、これ」
「ジゼル、冷静になって。怒りに身を任せてはだめだよ」
自分大好きな人間だと思っていたけれど、ここまで話が通じないとは……ジゼルは頭を鈍器で殴られような衝撃を受けて、いったん引くことにした。
「私は至って冷静ですし、婚約を続ける気持ちはありません……両家で後日、しっかりお話ししましょう」
半ば追い出すようにカシアンを見送ると、ジゼルは眩暈がして壁にもたれかかった。なんと間が悪いのか、午後は前々から予定していたお茶会に参加しないといけない。浮気女、レノーラ・オルデニアは……昨日の今日ではまさか参加していまい……。
しかし、神は完全にジゼルに試練を与える方向で舵を切ったようだ。
「あら……ジゼルさん、二人で、お話したかったのです」
会場に着くなり、即行で距離をつめてくる浮気女レノーラ。普通に話しかけてくる姿に、ジゼルは正気を疑った。人目がある以上、大騒ぎもできない。促されて、皆と少し距離のある席に、渋々座った。
「ジゼルさん……昨日は、あんなことになるなんて……私、何と言えばいいか……」
席に着くなり、レノーラは大粒の涙を流した。どう返していいかわからず、ジゼルは固まった。
「貴女を傷つけることになってしまったのは申し訳ないと思っているの……でも……あ、怒らないで聞いてほしいのだけど……カシアン様と私は、運命の相手だったのかもしれない、って思いもあって」
「……」
あ、こいつもやばい奴だ。ジゼルは瞬時に悟った。
「カシアン様が、貴女と家の都合で無理やり婚約させられたのは知ってる。貴族の結婚なんて割り切りが必要なのも承知している。……でも、気持ちに嘘はつけないって、カシアン様と出会ってから気付いてしまったの」
「……それで、私にどうしろとおっしゃりたいので?」
「誤解しないでね……私は、貴女から彼を奪おうなんて思っていないの。『真実の愛』を見つけてしまった私はこれから、ひっそりと彼を想い、生きていくだけ」
「……はあ」
レノーラは頬をバラ色に染め、俯きながら、つやつやの自分の髪を弄んでいる。ここまで、ジゼルはほとんど小さな声で、ぼそぼそ受け答えする程度だった。しかし、腸は煮えくり返っていた。
お前ら、自分に酔ってないで、謝罪の言葉一つくらい言えないのか!!!???
ここで大声で怒鳴るなど、愚かだとは分かっている。ただでさえ、周りに話は聞こえていないとしても、怖い顔をしたジゼルと涙をながすレノーラでは、圧倒的にジゼルの方が印象が悪い。
(……このまま黙って帰るのも、怒りが収まらない……)
ジゼルはまばたきをしないように目を見開き、死んでしまったペットのアンジェちゃんのことを思い出した。
ぽろ……ぽろ。
ジゼルの目から涙がこぼれ落ちる。周囲の人々は驚いた顔をしている。それもそうだ、とジゼルは思う。人前で涙を流すなど、これが初めてだから。
「私だって……カシアン様を想う気持ちは本当ですのに……このように裏切られるとは……悲しいですわ」
小柄で華奢。ピンクブロンドの髪で幼い顔立ちのジゼルは、見た目だけで言ったら、かなり庇護欲をそそる妖精のような出で立ちだった。柄にもないが、こういう仕草をすると、周囲が可愛がってくれることは、今までの人生の経験上、よく理解していた。
空気が、変わった。ジゼルを心配した人達が声を掛けるために近寄ってくる。
レノーラは一瞬あっけにとられると、真っ赤になって射殺さんばかりに睨んできた。あんなに出ていた涙も、どうやら引っ込んでしまったようだ。ジゼルは周りに見えないように、レノーラに勝ち誇ったように微笑みを向けた。
「『真実の愛』か何か知りませんが、こちらは婚約者に浮気されたという事実しかありません。ご実家に連絡差し上げることになると思いますので、ご自身の身の振り方をよくよく考えておいてくださいね」
(とりあえず、終わった……)
頭がぐわんぐわんと揺れ、何もかも考えることを放棄したジゼルは、屋敷に帰るなり、ベッドにダイブした。頭がちょっとアレな人に、連続で対応しなければならなかったので、体力は限りなくゼロに近かった。
「お嬢様……お客様がいらしていますが……」
「今日に限って! 一体なんなのよっ!」
ちょっとくらい、心を休めることも許されないのか。ジゼルは枕を思い切り殴った後で、使用人の引きつった顔を見て我に返った。
「取り乱したわ……で、今度は誰?」
「それが……ハルドール・ラサリング公爵子息様だそうです」
心当たりのある人物の顔がよぎったジゼルは、頭を掻きむしりたくなるのを堪え、自室から踏み出した。
「これはこれは、ようこそ、おいで下さいました」
応接室で優雅にお茶を飲んでいる客に、ジゼルは淑女の礼をした。やはり、目の前にいるのは、昨日の夜あの現場に出くわした黒髪の男性。
「驚いてないようだね。俺が誰だか、気付いてた?」
「はあ……大体は想像ついてましたが……ラサリング公爵家の鍵をお持ちでしたし、社交の場にあまり顔を出すことのないご子息がいらっしゃる、とお話を聞いたことがありましたので」
冷静に見れば、昨日挨拶した公爵と顔立ちも似ていた。金色の瞳は母譲りだろうか。怒涛の一日に淑女らしさが限りなく消え失せたジゼルが不躾にじろじろと見ても、ハルドールは気にした様子もなかった。
「話が早いね。じゃあ、早速本題に入らせてもらおう。これを見たことがある?」
目の前には、小さなガラスのビンが置かれた。中身は空の様だ。
「さあ。薬か何かの容器でしょうか?」
「昨日、君の婚約者がいた部屋から見つかった、違法な魔法薬だよ」
「え」
「カシアン・ヴィスターは違法薬使用の容疑がかけられているが、まだ泳がされている状況だ。まあ、君ももちろん、疑われているわけだけど」
「はぁ!? ちょっと、待ってください。私は何も知りません! ここでそのような話を追加されても、脳が対処しきれないといいますか……」
「まあ、素直に罪を認める人間なんていないからね」
ハルドールは意地の悪い笑みを浮かべている。本当に、今日は一体何なんだ。ジゼルは、呪われていると言われても驚かない自信がある。
「……カシアン様がいろいろな女性に手を出しているのは前から気付いていたのです……私は証拠をこつこつと集めて問い詰めてやろうと……ただ、浮気さえ暴ければ良かっただけなのに……なんで壮大な話になってしまったのでしょう……」
「……証拠とは?」
ほぼ独り言のようなつぶやきに、ハルドールが問いかける。
「大したものではありませんよ。カシアン様と婚約する前からずっと、毎日日記を書くのが日課なんです。怪しいと思った行動、友人達の噂話は詳細を記録して……」
ハルドールの目がきらりと光った。
「見せてもらおうか」
「え、嫌ですけど。人に日記を見せる趣味はありません」
「……自分の置かれた立場が分かっていないようだな」
「え、えぇ〜……」
その後、ハルドールに説得されたり半ば脅されたりして一悶着あったが、ジゼルの日記は人の目に晒されることになった。
◇ ◇ ◇
婚約破棄について、両家交えての話し合いは、そう時間も開けずにカシアンの屋敷で行われた。
「……ということがありまして、私としては、今後カシアン様と結婚生活を送っていくのは難しいという結論に至りました」
カシアンの両親は、真剣な顔でジゼルの話を聞いている。
「僕の心はジゼルにある……信じてくれないのか?」
「ここまでの行動のどこに信じる要素があると?」
目の前に座るカシアンは、捨てられた子犬のような表情でジゼルをじっと見つめている。本当に自分は悪くないと思っているから、余計質が悪い……ジゼルはこっそりため息をついた。
しばらくすると、ヴィスター侯爵が口を開いた。
「話があると言われてみれば、そんなことか。一度くらいの浮気ぐらいでそんなにカリカリしていると、これから夫婦生活を送っていけないよ」
とびきりの笑顔で話すヴィスター侯爵に続き、夫人も口を挟む。
「そうよ、婚約破棄なんかして、傷物になるのは貴女なの。貴族の婚姻とはそういうものだと割り切りも必要。いい経験になったと思えばいいのよ」
「おい……!!」
思わず立ち上がろうとした父親を手で制して、ジゼルが口を開いた。
「バーバラ様」
「……え」
「スカーレット様、マリリン様……その他、メイドは2人いたかしら」
カシアンがぎくりと動きを止める。
「カシアン様が関係を持っている女性です」
「何のこと?」
「調べはついているんです。夜会で一時抜けて逢瀬を楽しんでいらっしゃった方も結構いたようで」
ジゼルの日記はそれなりに役立ち、ハルドールが調査した結果全部クロ、という全く嬉しくない事実を教えてくれていた。カシアンは顔色を悪くして小さく震えている。
「……本当に愛しているのは、君だけなんだ」
ぽろり、と涙をこぼす婚約者。この場面だけを切り取った場合、本当に天使の涙という様子だ。あくまでも、顔だけ。
「君が、いつもつれない態度で接して来るから……寂しくなってしまったんだ」
「ずいぶんと寂しがりやなようで……浮気癖は病気と同じで治らないと聞きます。隠し子がいらしても、もはや驚きませんね」
「そんな不誠実なことするわけないだろう! これからは、君だけを愛し抜くと誓おう」
「結構だ!!!!!」
ガン!と机を叩いてついに立ち上がったのは、ジゼルの父。
「ヴィスター侯爵、今回の件は、そちらの御子息の有責で婚約破棄、ということでよろしいですね?」
見た目がいかつくて、娘に甘い父親。母が10年前に亡くなってからは、男手一つでジゼルを育ててくれた。先ほどまでの数々の暴言に我慢が出来なくなり、家格が上のヴィスター家に対する礼儀など、とっくに忘れ去っていた。
「事業でお互いに利益があり、歳も近いということで、婚約話を受け入れたのが間違いでした。今後も我が娘を冒涜されるのであれば、それ相応の対応をさせていただきます」
「コーネット伯爵、本当に良いのか!?」
「娘を本当に思う親なら、当然の選択でしょう。家同士の関わりも、見直させていただく」
結局、婚約は破棄された。最低限の慰謝料をもらい、破棄理由は公言しないことを約束とした。
ジゼルは疲れ切ってはいたが、どこか自由を喜ぶ気持ちもあった。これから社交界に出れば、心無い詮索をしてくる者や、事情も知らず誹謗されることもあるだろう。ジゼルは、とりあえず嵐が過ぎ去るのを待つことにして、徹底して二人に会わないようにした。
◇ ◇ ◇
しばらくはそれなりに平穏な日々を過ごしていたジゼルだったが、ある日その事件は起こった。
カシアンが約束もなくジゼルに会いに来たのだ。使用人に送り返すよう頼んだが、一向に立ち去る気配がない。
父も外出中のため対応してもらえないジゼルは困った。気になって遠目に確認しに行くと、案の定カシアンが使用人数人に押さえられ、何やら大声で騒いでいる。
「ジゼルっ!!!」
遠目に目が合うと、更に大声で名前を呼ばれた。なんだか顔がやつれて、いつもの輝きがなくなっている様子だ。気付かれてしまったので、ジゼルはしかたなく会話できる程度に近寄った。
「……お久しぶりです、もう、お会いしない約束でしたが?」
「ジゼル……会いたかった……君のことを思うと、ろくに眠れなかったよ」
「私は二度と会いたくありませんでした。お引き取り下さい」
「そんなっ! ひどい……ひどいよ」
「どう、しました?」
終わらぬ問答にうんざりしていたところ、後ろから現れたのは、ハルドールだった。ハルドールはこうして何度かジゼルの元に足を運び、調査の進捗状況などを伝えてくれていた。ジゼルが事件に関わっていないことを調査する目的もあるだろうが。
「お前は……あの時、夜会会場で俺を貶めた男だな!? なんで、ここに……?」
「カシアン様……この方はラサリング公爵家の御子息ですよ。そのような物言いは失礼に当たります」
「なっ……ジゼル……俺を裏切ってこの男と一緒に!? いや、僕の気を引こうと……わざと……?」
どの口が言うか、と思わず拳を握りしめたジゼルに、カシアンの横をすり抜けてハルドールが並び立つ。そしてジゼルの肩をやさしく抱いた。
「可哀想に……ジゼル嬢はこんなに怯えているじゃないか。それに、俺はカシアン殿を探してここにやって来たんだが」
「は?」
「やっと、証拠がつかめたんだ。違法な魔法薬を使用しているところまでは罪が確定していたが、それをどこから入手し、どこまで横流ししているか、まだ情報が少なかったからな」
「な……なぜ」
「あの時の浮気女性……レノーラ・オルデニアが裏で広めていたことが判明した。家ぐるみでの犯行だから、オルデニア家ももう、終わりだな。今までカシアン、君が関係を持った人物も魔法薬に関与していることは、ほとんど調べがついている。残念、隠し通せるとでも思った?」
「そんな、嘘……だろ?」
呆然とするカシアンを無視するように、ハルドールはジゼルの肩を抱いたまま笑顔を見せた。
「ジゼル嬢、君の日記には本当に助かったよ。あそこまで詳細に、しつこく記録された資料は、なかなか類を見ない」
「……それは、どうも」
ジゼルは自分の肩にかかるハルドールの手を掴み、ぐいと降ろした。膝をつき、がくりとうなだれるカシアン。後から何人か調査官らしき人々がやってきて、そのまま連行するように両腕を掴まれ、起こされた。
「たった一度の過ちで……愛する女性の隣に並ぶ資格を失うものなのか……」
何故か辺りが一気に暗くなり、大粒の雨が降ってきた。その雨に打たれながら、カシアンは天を仰ぐ。髪の毛から水滴がしたたり落ち、無駄に色気を振りまいている。
「……あのー、自分の世界に入っているところ申し訳ないですけど、ただの浮気男ってだけでなく、立派な犯罪者ですからね」
「ジゼル……!! どんな苦境に立たされたとしても……永久に、この心の灯は消えない。愛している!!!」
「うぇ……あの、純粋に、迷惑です。……というか、怖いです。一秒でも早く忘れ去りたいです」
「ジゼルーーー!!! やはり、君を殺して僕も!!!」
突然カシアンが拘束を振りほどき突進してきたので身構えたが、ハルドールによってあっけなく制圧された。そして、カシアンはそのまま引きずられるように連れていかれた。公爵家の人間が動くような大きな犯罪に手を染めていたのなら、今後カシアンが元の生活に戻れることは、永劫ないだろう。ジゼルは胸のつかえがとれたような気分だ。
「落ち込んでいる?」
「いえ、特には」
カシアンが連れていかれた後ほどなくして、大雨が嘘のように止み、空には大きな虹が架かっていた。ジゼルは、屋敷の窓からその様子をぼうっと眺めた。ハルドールは帰ってくれてぜんぜん構わないのだが、なぜかジゼルの屋敷に居座ってくつろいでいる。
「正直言うと、ほっとしています。あんな男と結婚前に別れられ、もう会うこともないと確約されたのは、幸運だったとしか言いようがありません」
「それは、君らしい……前向きでいいんじゃない?」
これほどの大事なのだから、これから貴族間の力関係は大きく変わるのだろう。いくら無実とはいえ、コーネット家も更に調べられたり、疑われたりすることは逃れられない。
「ハルドール様にも、今まで大変お世話になりました」
ジゼルは深々と頭を下げたが、ハルドールからの応答はない。不思議に思って顔を上げると、その目はなぜか泳いでいた。
「あ、あの、さ。ジゼル嬢、今後、貴女のことをそばで守らせてもらえないだろうか?」
「え……?」
「これから、いろいろ大変な事もあるだろうけど……味方が近くにいると思えば心強いだろうしね」
「あ、結構です。お気持ちだけ、受け取っておきますね。これでも私、強かな女なので、なんとかうまくやっていけると思いますし」
ジゼルはぺこりと頭を下げた。清々しいほどあっさりした断りの言葉に、ハルドールはぽかんと口を開けている。
「……あのー、もう少し考える素振りくらい、してくれてもいいんじゃ? せっかく勇気ふりしぼったのにさぁ」
「公爵権限を振りかざしてます? それなら私は断る術を持ちませんが」
「いやいや、権力に物言わせるタイプじゃないことくらい、見てわからないかな」
では遠慮なく、と前置きして、ジゼルは続けた。
「日記を見られた恨み、忘れてません」
「申し訳ない。……でも正直、あの日記に助けられたから、選択は間違っていなかったと自信をもって言える」
「……それに、私があなたに恋愛感情を抱いていたとして、このタイミングでそのような話に乗るのは正直得策とは思えません。燃料投下するようなものですし」
「それは、周囲が納得するような下準備をすればいい、と捉えることにする」
「……あんまりしつこいのは、ちょっとトラウマが……」
「う……それは、どうしていいのか……」
「でも……」
ジゼルは俯いていた顔をあげ、心からの笑顔をハルドールに向けた。
「今回の件でいろいろなことを学べた気がします。私は、今後、周囲の人と信頼し合える関係をきちんと作っていきたいと思っています」
「そうだな。俺もゆっくり、君の信頼を得られるように、努力することにするよ」
二人はその後、口数も少なくお茶を飲みながら座っていたが、一つの大きな山場を越えた安堵感に包まれた、居心地の良い空気が流れていた。
ジゼルは今、自分の心情ですらよく分かっていない。なので、明日も、ましてや未来がどうなっているかも分かりようがない。
それでも、いずれは幸せに笑っている未来が待っているんだと信じたい。
そんな気持ちで、ジゼルは今日も日記を書き続けている。