英気を養う/暗所で企む
この世界には清浄を司る神がいる。それと対立するのが腐敗の神。遙か遠い昔から、今現在に至るまで2神は争いを続けている。
その影響で、この世界では衛生概念が広く普及されている。たとえ田舎の農村であろうと食事の前には手を洗い、寝る前には身体を清める。食べ物を長持ちさせるには、汚れを払うべし。病が広がったのならネズミを駆除すべしなどなど。
その派生で、入浴文化が根付いている。燃料の必要性から、誰も彼もが自宅で気軽に風呂に入れるわけではない。しかし街と呼べる規模の場所ならば公衆浴場が存在するし、湯炊き用の魔導具も裕福なものであれば購入できる。
貴族用が逗留するこの宿には、その魔導具が設置されていた。これからの旅路に備え、娘達はこの場の疲れを湯で溶かしていた。
「……外が騒がしいですね」
眉根にしわを寄せて窓の外を見やるのは、聖女リーフェ。彼女は三人娘の中で一番若く未成熟だ。肉付きは一番薄いが、その細さは妖精のような可憐さがある。庇護欲、あるいは独占欲をかき立てる容貌だった。
「まあ、宿場町だし。どっかの馬鹿が度胸試しで覗きに来たんじゃない? よくあるよくある」
あっけらかんと言い放ったのは魔導師ベルティナ。まだ二十歳になっていないが、そのスタイルは非凡の一言につきる。特に胸の大きさは三人の中どころかこの宿場町でもトップだろう。それでいて形も肌の美しさも保っているのだから、世の多くの女性はこれを見たら嫉妬を覚えるだろう。
「よくあっては困るのだけど。まあ、兵士が見張っていたはずだから大丈夫だと思うけど」
例外的に、セシリアは嫉妬を覚えたりはしない。彼女もまたスタイルの良さは負けていないからだ。王国でも指折りの美貌の持ち主であり、彼女の美しさを題目としたものを吟遊詩人達はこぞって歌うほど。
長剣を振り回す筋力を、裸身から伺うことは出来ない。本来なら皮が分厚くなっているべき手ですら、深窓の令嬢と同じ美しさ。子供の頃から美の神の加護が厚かった彼女は、容姿を曇らせる変化がおきない。どれだけ食べても太らない等というあたりが具体例。老いるときも、美しく枯れていくことだろう。
そんな彼女が勇者をやると言い出した。天上で美神は何を思っているだろうか。
「もしかしたら、ヒデオンだったりして?」
「ありません。彼はそのような軽率なことはしない」
魔導師の冗談を、聖女がバッサリと切り捨てる。互いを見やる視線が複雑に絡み合う。
「……あらま聖女様。ずいぶんはっきり言うじゃない。その根拠は?」
「ひとつ。彼は故郷で責任のある役職についている。愚かな振る舞いが、それにどれほど悪影響か分からぬ人ではありません」
「でも、気の迷いってあるじゃない?」
「ふたつ。今の彼にそんな余裕はない。邪悪な力が彼を蝕んでいる。背にある聖印がそれを押さえていますが、完璧ではない。昼間に、痛みを訴えていたでしょう? 身体が癒えるまで、ずっとアレに付き合うことになるのです。よく冗談を口にしていますが、やせ我慢でしょう。見事なものです」
いつの間にか、湯船から立ち上がり二人はにらみ合っていた。見事な裸身が二つ、セシリアの前で惜しげも無くさらされていた。
「おまけの三つ目。その聖印の位置は、私が常に把握しています。今は食堂……いえ、宿の外ですね? これは……」
「失礼します」
風呂場の外から侍女の声がかけられた。
「この騒ぎの報告?」
「はい。不埒者が複数おりましたので、騎士様方が捕らえようと」
「全員、引き戻してちょうだい。明日は出発なのだから、無駄に体力を使わぬようにと」
「……かしこまりました。ただちに」
「ああ、それから。……捕り物にヒデオンも参加しているの?」
「はい。ひゃっほう、と楽しげに気勢を上げておりました」
「……そう。彼も、早く休ませてちょうだい」
侍女が去って行く気配を感じながら、セシリアは友人を見やる。聖女は、こめかみに指を当てていた。頭痛を抑えるためだ。
ベルティナが、にんまりと笑いながら問う。
「余裕がないんじゃ、なかったっけ?」
「……帰ってきたらお説教です」
風呂場に笑い声が響く。年齢も生まれ育ちも違う三人。本格的に話をするようになったのは王都を出発した後であるが、すでに数年来の友人のような間柄だった。
打ち解けたのは、やはりあの困難だった最初の旅路にある。バラバラに好き勝手動こうとする男どもをまとめるために、それぞれが奔走したあの夜。極めて困難な状況を覆そうとしたとき、互いの存在はこれ以上もなく頼もしかった。
互いを名前で呼び合うようになったのはその時。以後の困難も、手を取り合って対応してきた。そしてだからこそ、どうしようもない窮地に立たされていたあの夜に駆けつけたヒデオンは三人にとって特別だった。
動く死体を蹴散らした後も問題はあった。けが人の搬送、治療、状況の立て直し、街にたどり着くまでの戦闘。ヒデオンはそれらを的確に対処した。
あの奇妙で目を覆いたくなる犬人形、ボナンザを使って道具を生産。手押しの荷台を作成して運搬力を向上。そして偵察と戦闘。街にたどり着く最後の一押しは、彼の手によってなされたのだ。
法律神の使徒。異邦の保安官。轟砲の勇士。民でも、信徒でも、学友でもない相手。気にするなと言うのが無理な話だった。
「説教しても意味なくない? あいつ、その場じゃ要領よく頷くけど必要になったら平気で無茶するタイプじゃない」
再び湯舟に浸かったベルティナが話題を振る。同じく風呂に戻った聖女が片眉を吊り上げた。
「詳しいですね、ベルティナ」
「学生には結構居たわよ、ああいうの」
「じゃあ、対処法も知ってるのかしら」
公女が小首をかしげる。彼女の周りには、その手の人物はいなかった。皆が貴族や騎士、従者という立場で行動しており、型破りをするものは排除されていたのだが。
「あー……そうね。やっぱり報酬で釣るとか」
「それはあなたが欲しいだけでしょう? 保安官は騎士と同じようなものと聞いています。お金はそれなりにかかるでしょうが、研究職のそれとはちがうかと」
「ヒデオンだってあれだけじゃんじゃか弾とかいうの使ってるんだから、当然補填は求めてくるはずでしょ!」
大きく腕を振り上げて反論するベルティナ。湯の境界で胸が弾む。そのダイナミックな動きにリーフェの視線が自然と向けられた。聖女とて嫉妬と無縁ではいられない。
それに気づかぬセシリアは、今の話題について考える。雇用者と非雇用者の関係になることは重要だ。彼は目的があって自分たちに同行してくれている。善性の人物であるというのも、ここまでのふれあいで理解している。
しかしやはり、命を預け合う間柄で立場が曖昧というのはよろしくない。彼は法律神のお告げにより自分たちと合流した。もし、別のお告げが下されたら離れて行ってしまうだろう。
現状、彼の戦力が失われるのはとても痛い。神託以外にも、つなぎとめて置ける保険が必要だ。雇用関係は、分かりやすくそれを実現する。
そして、それは半分実現していると言えるだろう。こちらに滞在中の衣食住の保証と、消耗した物資の補充。こちらに生活基盤を持たない彼は、自分たちのバックアップが不可欠だ。
(これらを含めて、正式に報酬を支払う雇用契約を結べれば……でも、そういうのは嫌がりそうなんですよね。なにより騎士、保安官ですから。すでに雇用者がいる。そこをどうするか。いっそ別の繋がりを用意するとか。そう、例えば……婚姻?)
唐突に、セシリアは己の頬が赤くなるのを感じた。慌てて、湯船から立ち上がる。
「んー? どうかした?」
「の、のぼせそうだからそろそろ上がるね!」
そそくさと脱衣所へ去っていく勇者公女を、残された二人は呆然と見送った。
なお、件の覗きは残念ながら取り逃すことになった。明日への備えが優先と言われれば、怒れる騎士たちも矛を収めざるを得ない。それはそれとして、公爵家令嬢の肌をのぞき見しようとしたことは極めて問題である。家門を軽視したと言えるのだから。
衛兵たちは、捜索に全力を尽くすと約束した。厳罰に処すとも。……もし、分別のつかぬ子供のしでかした事であれば、悪党を身代わりに立てろと密やかに伝えもした。フリッツ達も悲劇が見たいわけではないのだ。
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ボスハールト領の中央付近に、古い砦がある。まだバルタニア王国が成立する前、小国が土地を争っていた時代の遺物である。今となっては土地の防衛にも役立てぬからと、領主が最低限の管理だけしている場所である。放置していない理由は、野盗が住み着いては迷惑だから。
うっそうとした雑木林の中に、月明かりに照らされてその砦はあった。防壁は形を保っているが、破損も目立つ。砦の外壁も、蔦が巻き付き手入れのされていない状態だ。
そんな荒れた外部とは裏腹に、砦の中は比較的まともだった。雑草も無ければ、瓦礫も転がっていない。隙間風はどうしようもない為、寒々とした音が内部に響いている。
そんな砦の奥に、簡素ながら謁見の間があった。この砦を作らせた者が、体面を保つために用意したのだろう。そこに、真新しい豪奢な椅子がある。それに座る男の姿も。
「勇者公女、か」
歌うように、男はつぶやいた。顔色の悪い、痩せた男だった。癖の強い黒髪を、長く伸ばして背で縛っている。顔は整っており、美しいともいえた。病的な肌の青白さがそれを台無しにしているが。
「バルタニアの至宝とまで謳われた彼女が、我が領地にいらっしゃる。ああ、光栄な事だなあ」
喉を震わせて、男が笑う。そしてからのワイングラスを無造作に横に突き出した。そのグラスは、赤黒いもので汚れていた。
突き出された先には、幾人もの娘がいた。誰もが若く美しく、そろって虚ろな表情で立っていた。その中の一人が、おぼつかない足取りで前に出る。彼女の手には、鋭くとがれたナイフがあった。
無造作に、己の左手に刃を滑らせる。鮮血が噴き出し、ワイングラスを満たした。
「血止めをしろ。もったいない」
命じられ、周囲の娘たちが動き出す。よくみれば、その娘たちも腕に止血の後があった。きつく巻かれた布地が、黒く汚れていた。
男は、グラスを満たした血をあおる。粘り気のあるそれを、ワインのように。
「ああ、命の味だ……瑞々しく、私の身体を潤す。……町娘でこの味なのだから、公女や聖女の血はさぞかし格別なのだろうなあ」
男は瞳を赤く輝かせながら、外を見やる。月が鋭い弧を描いていた。その夜空を、蝙蝠が舞う。
「歓迎の準備をしなければ。邪魔者は……そうだ。せっかくだからあれを使おう。騎士が相手ならば、役立つだろうし」
男はグラスを放り出す。床に落ち、ガラス片と血をまき散らすそれを気にも留めず男は部屋から歩き去る。
『グゥゥゥゥゥゥ……』
低い、獣のような唸り声が砦を震わせる。男は廊下を歩きながらまた笑った。
「なんだ? 出番が来たのを感じ取ったのか? 愉快な怪物だ……いいさ、喜べ。暴れさせてやるぞ」
ふらりふらりと朧気に。男は砦の奥深くへと足を進めた。