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短編の連載版です。
どうぞよろしくお願いいたします。
『あぁ、これ、知ってる!!』
「私と、お前、ルイーサ・ローゼンベルクとの婚約を、破棄する!!」
王太子が婚約破棄を叫ぶという、ベタな開会宣言で始まった断罪劇。婚約破棄をされる中、私の頭は妙に冴えわたり『これ、小説とか漫画で読んだことがある! 知ってるやつだ!』と思ったのが、ついさっき。
きっと王太子の開会宣言を合図に、私は前世の記憶を取り戻したんだと思う。日本人としての三十三年間の記憶は、これといった苦痛もなく当然のごとく頭の中にインプットされた。
この間、数秒の出来事だった。それ以上の時間を前世の記憶を懐かしむことに割くことは、今の私にとって優先事項ではない。
今の私の最優先事項は、この状況をいかに乗り切るかだ。
私が窮地に立ち尽くすこの場所は、学園の卒業生が一堂に集められた大ホールのど真ん中。百人ほど集まった生徒達は、断罪劇が始まった私達の様子を固唾を呑んで窺っている。そのせいでホールは、衣擦れの音でさえ目立つほど静まりかえっている。
まるで夜会の会場をそのまま持ってきたと思えるほど煌びやかに飾られた学園の大ホールには、王家の象徴である白百合がそこかしこに飾られて、ホールにかぐわしい香りを放っている。
本来であれば、王太子を始めとした生徒達の卒業を祝う卒業パーティの真っ只中で、色とりどりのドレスを着た令嬢や令息達がダンスや会話を楽しむ声が響いているはずだった。
実際に生徒達はさっきまで「何か起こるのでは?」と恐怖や期待を込めた目で私達三人を見守りながらも、それなりにパーティを楽しんでいたのだ。
この国の王太子であるゲッツ・クラインが、自分の婚約者であるルイーサ・ローゼンベルクに対し声高に婚約破棄を叫び始めるまでは、至って普通の卒業パーティだった。
そう、ただいま婚約破棄を言い渡されたルイーサ・ローゼンベルクは、正しく私です……。
前世の記憶によれば、これは婚約破棄のテンプレなのよね。そうと分かれば、色々なことが腑に落ちる。
私が王太子の婚約者になったのは、今から十年前、八歳の時だった。
もちろん、王太子に見初められたのではなく、完全なる政略結婚以外の何物でもなかった。
ローゼンベルク家は昔から商才のある人物が多く輩出されるため、一族郎党共に内情が非常に豊かな家だ。その豊かさを狙うように王族が自ら望んで嫁いでくるほどで、直近では先代の王弟が婿入りしてきた。そんなわけで私のお祖父ちゃんは、先代の王弟殿下に当たる。要は、王家の血も受け継ぐ由緒正しき筆頭公爵家が我が、ローゼンベルク家なのだ。
由緒正しきブルジョワってだけでなく代々宰相として辣腕をふるう国の重鎮と、どうしても縁を繋いでおきたかった陛下が何度も頭を下げて決まったのが、私達の縁組だった。
普通に考えたらあり得ないけど、陛下が臣下に頭を下げて頼むような力関係が、王家とローゼンベルク家にはある。
しかし絶対王政を望む王太子は、この歪んだ力関係について、歴代の王達の様に目をつぶることができなかった。婚約してから十年間ずっと王太子は『臣下が王家に物申すとは何様のつもりだ!』と言っては、一方的にローゼンベルク家への恨みを私にぶつけ続けた。そして私を目の敵にし、酷く嫌った。どれくらい嫌われていたかと言うと、王太子に名前を呼ばれたのは、婚約破棄を申し渡された時が初めて。だから名前を呼ばれた時は、「わぁ、私の名前覚えてたんだ」と、ちょっと感激してしまった。だって、この十年の間ずっと、私は王太子殿下を慕っていたのだから。
八歳の時に初めて王太子と会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
父に手を引かれて王城の庭を歩き、新緑の木立を抜けるとパッと視界が広がった。色とりどりの薔薇の花が美しく咲き誇る、王族専用の庭園に出たのだ。目に美しい花や噴水に目を奪われつつも、緊張で父の手を強く握り締めて王太子を待つ私の前に、天使が現れた。
太陽の光を浴びてキラキラと輝く黄金の髪は、肩で切りそろえられサラサラと風に揺れていた。そして透き通る碧い大きな瞳に、私は心を奪われた。
まるで物語の中にいる王子様が目の前に現れた! と思ってしまったのだから仕方がない。前世では経験ないけどアイドルに心を奪われるのは、きっとこんな心境なんだと今だったら分かる。
でもねぇ、そんな私の恋心をよそに、王太子は私を無視し続けたのよ。定例のお茶会で私と二人で会っても、王太子は全く口を開かない。私が話しかけると最初の内は睨んだりしてきたけど、その内に私の存在自体を無視し始めた。私が隣にいるのにも関わらず、いないものとして扱った。
私はドMなのか、それでも王太子に思いを寄せ続けるのよ。何をされても文句も言わず、付き従ったわけよ。前世の記憶が戻った今となっては、「私って頭おかしいんじゃないの?」としか思えないけどね。
これも今にして思うと、私のこの行動が王太子の態度を増長させたのよね。憎きローゼンベルク家の娘が、何をしても自分を慕っているのだから気分がいいはずだ。
一方根っからの事業家である父は娘が望んで王家に嫁ぐならと、私に王家再建の任を課した。本来であれば不良債権である王家は潰してしまいたいところだけど、王家だしね、そういうわけにいかないでしょう。
役立たずの王家は私の代で終わらせるため、王太子妃教育どころか、王太子以上の帝王学を私は学ぶことになった。おかげで私は知識や語学はもちろん、領地や商会運営までこなせるとんでもない令嬢に成長してしまった。どれくらいって? 愛する王太子と結婚できないとなったら、ローゼンベルク家に大打撃を与えるくらい、わけないほどに……。
親からすれば、恋に溺れて頭がいかれている娘に何を言ったって響かないし、下手に婚約を白紙に戻したら何をしでかすか分からないとなれば不安になるはずだ。道理でお父様や家族が、私に悲しい視線を送り続けていたわけね。
そんな王太子に尽くし続ける私に、さらなる不幸が舞い降りたのが三年前。シェザラード学園入学の時だった。
前世の私は乙女ゲームとは無縁だったけど、漫画や無料小説でこの手を物語を読んだことはあった。だから今なら分かる。悪役令嬢が幸せを手にするには、入学式以前に行動している必要があったのよね。何もしていないテンプレ通りの悪役令嬢としては、入学式が悪夢の始まりというわけよ。
そして、その結果がこれよ。
私の目の前には、寄り添って立つ二人がいる。一人はもちろんスラッと長身な王太子。もう一人は、王太子の瞳の色と同じ碧いドレスに、これも王太子の髪の色と同じ金色の宝石が輝く豪華なネックレスを身にまとった、小柄で庇護欲をかきたてる可愛らしい令嬢だ。その可愛らしい令嬢が、私に対して勝ち誇った笑顔を向けているのは気になるけど。まぁ、断罪劇ですからね、仕方がない。
どうしても外せない公式の場以外で私をエスコートしたことのない王太子は、もちろん今日も私をエスコートしたりしない。
かつては令嬢達をとっかえひっかえだった王太子にしては珍しく、この一年ずっと王太子の隣を陣取っているのは、このティアナ・ハーディング男爵令嬢だ。
彼女の対となる王太子の衣装は、彼女のふわふわしたピンクの髪と、いつも潤んでいる水色の瞳の色が随所に散りばめられている……。それはもう酷すぎて、衣装としか呼べない代物。だってこんなの着るのは、昭和のアイドルか特殊なお笑い芸人くらいだよ? ちょっと、城の衣装係は機能しているの? これ国の恥レベルよ! 心配だわ……。
王太子が汚いものを見る様に碧い瞳を細め、楽しそうに口を歪めて私を指差す。
「お前が、私の愛しいティアを虐めていたのは周知の事実! そのような真似をする恥知らずが、王太子妃に納まろうなど烏滸がましいわ!!」
虐め、虐めね。確かに虐めた、のか?
私は王家を立て直すためにと、両親や家庭教師や講師達から、それはそれは厳しく躾けられた。上に立つ者として、常に規律を守った正しい行動を求められるのは苦痛ではあった。だが王太子の隣に立つために必要なことならと、私は必死にそれに応えた。そのせいか私の辞書には『妥協』という文字は存在しない。
自分に厳しく、他人に厳しく、他人にも自分と同等の完成度を望む。それが、私。だった。
今の私から見れば、自分と同じものを他人に求めるのは、厳しすぎることが分かる。
だって私の全ては、血を吐くような努力の上に成り立っているわけよ。それを他人に強いても、できるわけがないじゃない。友達のいない私は、みんな自分と同じくらい努力していると思い込んでいたのよね。
物思いにふける私を指差し、王太子は楽しそうに私を叱責する。
「学園内は平等であるはずなのに、お前はティアに『礼儀作法がなっていない』『身分の差を弁えろ』と、自分の身分をひけらかして人前で笑い物にした! お前は、何て卑劣な女だ!!」
男爵令嬢という身分でありながら、自分より身分が上の王太子や王太子の側近達に自ら話しかけ、身体を寄せる彼女に注意した。それが卑劣な行いなら、そうなのだろう。
だいたい学園の理念が身分にとらわれず平等なのは、建前だ。勉強や実技や討論会等ではもちろん理念通りだが、日常生活となれば話が別なのは誰もが知っている。学校とはいえ、貴族社会の縮図を学ぶ必要もある。だからこそ日常的なマナーは、学園で学ぶに当たっての当然の義務であることは周知の事実。
と言ったところで、仕方がないのよね。断罪劇なんだから、私に非があることが前提だもの。
でもさ私が注意したところで、彼女は私の言葉を一切聞き入れなかったよ。だってティアナ・ハーディング男爵令嬢が潤んだ大きな水色の瞳に涙を溜めて私を見上げると、必ず王太子や側近が口を挟むという流れだったよね。完全なるテンプレの世界……。
ティアナ・ハーディング男爵令嬢には、淑女教育をした気配すらなかった。だから自分と同じレベルを求める私の注意は、彼女にとっては虐めに感じられたのかもしれない。まぁ、王太子に馴れ馴れしすぎるわ、貴族としての態度がなってないわで、実際に私は怒っていたしね。虐めと取られても仕方ないのかも。
何も言い返さない私に気をよくした王太子が、言葉を重ねてくる。
「お前は自分がちょっと勉強ができるからと調子に乗って、『持っていても仕方がない』と言ってティアの教科書やノートを破り捨てたそうだな」
言った。それは言った。彼女ったらクラスが違うのに、なぜか授業中にも関わらず私達の教室にいるのよ。それに加えて王太子や側近と話していて、全然勉強しないじゃない。そんなことしているから王太子も側近達も成績がどんどん落ちていって、『まともに授業を受ける様に説得してくれ』と私が講師陣に泣きつかれたのよ。
おまけに私を始めとした令嬢達の悪口が汚い字で書き綴られているノートを、事もあろうに私の前で落としたのよ? しかも「目障りな鉄仮面ルイーサはさっさと消えろ」とデカデカと書いてあるページを開いて。そりゃ悪口が書いてあるページくらい破って捨てるでしょ。残ったノートはもちろん返したけど?
教科書に関しては、捨てようとしている令嬢達を引き留めて注意したことがあったな。そのことが誤解を生んだのかしら? まさか無意識の内に教科書を破ったのかしら?
記憶を呼び起こしていると、ホールの片隅でそわそわと揺れている一団が視界に入る。よく見れば、かつて私が注意したご令嬢達だ。チラチラと私を見ている一人と目が合ったら、慌てて全員が目を伏せて抱き合うように震えている。多分私に、自分達の罪を暴露されると思って怯えているのだろう。
「他にもティアの制服をわざと汚したり、中庭の泉に突き倒したりと非道の数々。もはや人間としての質が透けて見えるわ!」
制服を汚す? 泉に突き倒す? 記憶にない。
もしやと思ってホールを見渡すと、私の視線に気が付いてそわそわする集団がチラホラいる。
なるほど。彼女達のしでかしたことを、私が肩代わりしているわけね。
そんなに怯えなくてもさ、声高に「わたくしのしたことではありません!」なんて言ったりしないよ。大体さ、この状況で今更私が無実を訴えたところで、誰か信じてくれる?
残念ながら、私に友達いないしね。
幼少期から帝王学やら王太子妃教育やらを詰め込まれて、友達を作る暇も遊ぶ暇もなかったんだよね。そんな中での唯一の娯楽が、王太子だったわけだけど、まぁ御覧の通り散々ですよ。
大きなお茶会を仕切る、ビジネスとしての社交能力はある。だけど年頃の娘らしい交友関係を築く力は、私にはなかったということよね。
人の上に立つ者として常に正しさを求められ、自分の間違いがどれだけ周りに影響を及ぼすか考えさせられて育った。王太子の隣に立つに相応しい人間だと周りに認められるために、必死に自分を律してきた。
だからなのか、自分に厳しく他人にも厳しくなってしまった。そんな私に、さすがに人は寄り付かない。
だからこの断罪劇という名のこの茶番でも、誰一人助けてくれる人もなく、ただ一人で立たなければならない。
失敗だよね。一人でもいいから、友達を作っておくべきだった。この場で助けてくれるのは無理でも、この後に愚痴を言う仲間もいないなんて寂しすぎるじゃない。
返せ! 私の青春!! いわゆる高校生活を無駄にしたなんて悲しすぎる。記憶が蘇るのが遅かったことが悔やまれる……。
悔やむ私を見て、勘違いした王太子が、嬉しそうに唇を歪ませて最後通告を突きつける。
「いくら自分の行いを後悔したところで、もう遅い! お前の様な愚か者と十年間も婚約していたかと思うと吐き気がするし、私の人生最大の汚点だ。だからお前との婚約が破棄できて、本当に喜ばしい。お前の様な腐った人間ではなく、愛しいティアとこれからの人生を共に歩んでいくことができて心から幸せだ。お前の処分は追って伝えるが、お前の家族諸共必ず後悔させてやるから心して待て」
「ゲッツ様、そこまで言ってしまったら、ルイーサ嬢がかわいそうですぅ」
喜びのあまりホールに響き渡る声で叫ぶ王太子に、舌足らずな甘えた声を出したティアナ・ハーディング男爵令嬢がしがみつく。もはや私には、木とそれにぶら下がる猿にしか見えない。
「可愛いティアとは違って、あいつには人の心がないから気にすることはない」
王太子は言いたい放題だ。
思わず「これが、テンプレか……」と呟いてしまうが、二人の世界に入り込んでいる王太子とティアナ・ハーディング男爵令嬢には届かなかったようだ。
私がさっさと針の筵の様なこの場から去る算段を付けていると、背後から足音が近づいてきた。足音が私の隣で止まり、大きな影に覆われる。
誰だ?
チラリと隣を見ると、大きな男性が立っている。黒髪は短髪で七三分け。ん? もしかしてツーブロック? いやいやさすがに見間違いか。断罪劇をくらわされて、さすがに私も疲れてんな。
驚いて凝視してしまった私を、切れ長の茜色の瞳が優しく見つめる。
え? 今まで「眼光鋭いな」としか思ったことしかなかったのに、こんな優しい表情ができるとは意外だ。
影ができるのは当たり前だ。彼の身長は百九十センチ以上で、制服を着ていても鍛え抜かれているのが分かる引き締まった身体をしている。
私に向けられていた茜色の瞳が、冷たく細められて王太子に向けられる。
「婚約破棄するのは勝手だけど、君の意見だけを押し付けてルイーサ嬢の意見を全く聞かないのは、未来の王として公平とは言い難いんじゃないか?」
ルートヴィヒ・マイスリンガーは平然と王太子に言ってのけた。
え? 何言ってんの? もう帰りたいのに、引き伸ばすつもり? あまりの動揺に、私は彼を二度見した。多分、物凄い非難の表情で。
痛いところを突かれた王太子は「……グッ……」と言葉に詰まり、渋い表情をルートヴィヒに向ける。しかしルートヴィヒの冷たい視線に負けて、すぐにうつむいてしまう。
王太子がルートヴィヒの意見を無視できるわけがない。
ルートヴィヒ・マイスリンガーは、この大陸で一番の大国の王太子だ。何でも隣国に一年ずつ留学をして親交を深めるのが、マイスリンガー国の王太子の習わしだそうだ。彼はこの一年で、絵に描いたような文武両道ぶりを、私達に見せつけてくれた。
常に首席だった私は、この一年間は彼のおかげで次席に甘んじることになった。剣を取らせても、王太子の護衛である騎士団長の息子でさえ、全く歯が立たなかった。
彼の力を目の当たりにしたおかげで、文化水準も軍事力も全てにおいて、マイスリンガー国は格上なのだと思い知らされた。もしかして周りの国にそう思わせるために留学してるんじゃないか? 疑ってしまうほどだった。
二国間の国力の差を歴然と見せつけられ続けた上に、成績も剣も全く相手にもならなかった小国の王太子が物申せるわけがない。
「ルイーサ嬢にだって、言い分があるだろう? ゲッツが言っていたことが全て真実だという証拠もない」
王太子が真っ白な顔を怒りで顔を真っ赤に染め上げて何か言おうとしたが、ルートヴィヒが右手を上げて言葉を封じる。
「先に言っておくけど、君の愛しの令嬢が言っていたのが動かぬ証拠だとか、品位が問われるような馬鹿なこと言い出すなよ」
もちろん王太子は、そう言うつもりだったのだろう。開きかけた口を閉じ、飛び出しかけた言葉が口内で暴れまわっているのか、口をパクパクして顔色を赤や青にしながら上半身が揺れている。
私は笑いを堪えるために、うつむいた。あまりの面白さに「コントか?」と、小声が漏れたのは仕方がないことだと思う。
「ルイーサ嬢、君だけが傷ついてこの場を収める必要はないだろう? ゲッツだってこの期に及んで不敬だとか言う器の小さい奴じゃないから大丈夫だ」
ルートヴィヒの皮肉に、王太子が顔を顰める。器が小さいから、本当に全部顔に出ちゃうんだよね。
やけに親切だけど、今までルートヴィヒと挨拶以外で言葉を交わしたことがあったかな? まぁこんな状況を目の当たりにしたら、さすがに同情してしまうか。意外と優しい人なんだな。
でも、私、さっさとこの針の筵から抜け出したいんだよね。
馬鹿二人や同級生達に見下され、見世物にされ、これ以上ここで恥を晒したい人いますか? 少なくとも私は、もうこれ以上かませ犬役をさせられるのはご免です!!
「ルートヴィヒ様、お気遣いいただきありがとうございます。ですが、わたくしから申し上げることは、何もございません。婚約破棄につきましても承知いたしました。王太子殿下とティアナ・ハーディング男爵令嬢、お二人のお幸せを心より祝福いたします」
私が完璧な淑女の礼で断罪劇に幕を閉じようとしているのに、ルートヴィヒが私の腕を掴み耳元で囁いた。
「このままでは君は一生、見下されて馬鹿にされて生きていくことになるよ」
いいのいいの、それもどんとこいだよ。だって前世の記憶が戻った今、政略結婚とか面倒だから絶対にしたくない。貴族とか特権階級とかいう考え方も、今の私には受け入れられないしね。幸い家が金持ちなので、領地か隣国に移住してのんびり引き籠り生活を送ります。というわけで早く家に帰って、引き籠り先の候補地を絞り込みたいので邪魔しないで。
ルートヴィヒは私の考えが読めるのか、右の眉をピクリと上げて不満そうな顔を覗かせると、もう一度私に囁く。
「今が『ざまぁ』のチャンスじゃないのか? 新生活を始めるなら、スッキリした気分の方が楽しいに決まってるぞ」
え? ざまぁ? ざまぁって何だっけ?
「………………………………」
そうよ! そうだよ!!悪役令嬢としてここまできてしまったから、退場するしかないと思い込んでた。悪役令嬢には、ざまぁという武器があるんじゃない! そんな素敵な伝家の宝刀があったのに、すっかり忘れていた。ありがとう、ルートヴィヒ・マイスリンガー様。
やりましょう、ざまぁ。この浮気者達に、一発お見舞いしてやりますよ!
私のみなぎる決意を察知したルートヴィヒが、私にだけ見える様にニヤリと口角を上げた。
「ルイーサ嬢にだけ犠牲を強いる、そんな横暴な土台の上に立つものが幸せと言えるだろうか?」
「お止めください、ルートヴィヒ様。お二人が、王太子殿下とティアナ・ハーディング男爵令嬢が幸せになるには、わたくしが泥を被るしか……。お二人には、それしか道が残されていないのです!!」
私達に興味津々の同級生達は「一体何が起きたのか?」「これから何が起きるのか?」と息をひそめて、私の一挙手一投足に注目している。
「わたくしがティアナ・ハーディング男爵令嬢を虐げた極悪非道な元婚約者とならない限り、お二人が添い遂げる未来は訪れないのです。ですので、お願いですから、わたくしの邪魔をなさらないでください」
私は、乗った!!
「よよよよ」と儚く崩れ落ちる私を、ルートヴィヒが優しく抱き起こしてくれる。
「それは、どういうことだ?」
「お願いです。お二人の未来のために、もうこれ以上は……」
凄い、私って天才かも。完全に昼ドラの主役になりきっているわ! ハラハラと大粒の涙を流す自分に、驚きを隠せない。
同級生達から見た私は、新緑色の瞳を揺らすことなどない無表情で完全無欠の冷たい令嬢だ。その私が涙を流して狼狽えているのだから、みんなの興味を引かないわけがない。
みんな口々に「どういうことだ?」「あの注意は、演技だったの?」「殿下のために自らを犠牲になさっているの?」等と囁き合って、ホールが囁き声で騒がしい。
ルートヴィヒの低音が響き、ざわつくホールを一瞬で黙らせる。
「俺にとっては、ゲッツや男爵令嬢の未来など、どうなっても構わない。婚約者がいる王太子に擦り寄るような阿呆や、それに引っかかる馬鹿の未来など、正直どうでもいい」
ルートヴィヒの吐き捨てる様な物言いに、ホールの気温が一気に急降下した。
周りがブルブルと青白い顔で震える中、王太子は顔を真っ赤にして怒り爆発寸前だ。その王太子の横で阿呆が「ゲッツさまぁ、ルートヴィヒ様が酷いですぅ。私は未来の王妃様なのにぃ、阿呆なんかじゃないですぅ」と涙目でフルフルと身体を揺らしている。この二人は、空気が全く読めないらしい。
つい阿呆に目がいってしまったけど、こんな流れで良かった? あれ? 何か違うんじゃない?
台本通りではないが、ルートヴィヒ・マイスリンガーが、同級生達の気持ちに変化を与えたのは確かだ。
大国の王太子であるルートヴィヒの発言に自国の先行きを不安に思ったのか、王太子とティアナ・ハーディング男爵令嬢に向ける同級生達の視線が厳しくなる。
流れを変えた手ごたえを感じたからか、ルートヴィヒは合いの手を入れてくれる。
「こんな奴らのために自分を犠牲にするのか? どうしてだ?」
「クライン国の病院や工業といった主要なものは、ほぼ全てローゼンベルク家の支援で成り立っていることは国民だって知っています」
私の発言に、これ以上ないほど怒りで顔を染め上げた王太子が「そんなのは嘘だ! 戯言を言うな!」と怒鳴り散らした。隣の阿呆も追随して「そうよ、嘘つき!!」と騒いでいる。
ルートヴィヒ様は面倒くさそうにため息をついて、近くにいた五人の令息達に声をかける。
「君達はルイーサ嬢を嘘つきだと思うか? それとも王太子が世間知らずだと思うか?」
五人は顔を真っ青にして、「それは……」と口ごもる。他の四人が後ずさっていく中、一人の令息が腹を決めて顔を上げた。
「……ローゼンベルク公爵令嬢の、言う通りです。平民はローゼンベルク家を崇拝しております。またローゼンベルク公爵令嬢が平民向けの学校を作り、そこで自ら教鞭を振るわれていることや、医療支援や貧民支援をされていること等は有名な話です。平民からの人望がとても厚いローゼンベルク公爵令嬢が不当な扱いを受けたと分かれば、暴動が起きてもおかしくありません」
発言した子爵家の令息に殴りかかろうとした王太子を、ルートヴィヒが片手で制する。そして王太子に何かを耳打ちすると、王太子はフラフラとティアナ・ハーディング男爵令嬢の隣に戻った。
私は真っ青から土色に顔色を変化させた子爵家令息に、「助けるから安心して」と思いを込めて頭を下げた。目が合うと顔に赤みが差してきたので、私の気持ちは伝わったようでホッとした。
「彼の言う通りなのです。殿下の心変わりでわたくしと婚約破棄したとなれば、国が混乱する恐れがあります。ですから、わたくしが国民の期待を裏切るような愚かな娘となる必要があるのです。そうでなければ、国民の理解を得られません」
私の話に同級生達がどよめき、王太子達に侮蔑の視線を向ける。それを見た王太子が、やっと自分に流れが向いていないことに気が付いた。
王太子が真っ赤な顔で「低俗な平民の理解など、俺には必要ない!!」と唾を吐き散らしながら叫ぶ。唾がかかったドレスを拭きながら阿呆が王太子を睨んでいるが、身体が震えるほど怒り心頭の王太子は、それに気が付かない。
王太子の発言にまた同級生達がざわつき、冷たい視線を王太子に送る者も多い。そりゃそうだ。シェザラード学園の大半は貴族だが、近年は優秀な者や大きな商家の者といった平民も増えてきている。未来の王が自分達を軽んじる発言をしたのだ、見過ごせるわけがない。
「問題はそれだけでは、ないのです」
私の一言に注目があつまり、ホールに静けさが戻る。
「ローゼンベルク家と同等の後ろ盾を、ハーディング家ができないのであれば、国政に影響を及ぼします」
阿呆が「ちょっと、馬鹿にしないでよ! 領地はないけど、私には愛が溢れているのよ!」と騒ぎだしたが、無視して進めます。
「殿下はご不満でしょうが、ローゼンベルク家は発言力も他の貴族に与える影響力も大きいのです。味方につければ、他の貴族を抑え込み王家の発言力を高めます。逆に敵に回すと……」
私はあえて「ローゼンベルク家は王家に発言を許さず、他の貴族もローゼンベル家に倣うだろう」とは言わず、王太子に結末を考えさせる。
王太子自慢の澄んだ碧い瞳が、怒りと興奮で血走り赤く濁っている。
その逆上した瞳が、私から側に控える側近に向けられる。
王太子に私の話が正しいか確認された側近は、青い顔で首を縦に振った。
王太子の顔から血の気が引き、側近がガックリとうなだれるのを確認して、私は攻撃を続ける。
「だからこそ、わたくしが悪役令嬢である必要があったのです。娘に非があるとなれば、ローゼンベルク家といえども強くは出られずに黙っているしかありませんから」
王太子は碧い目がこぼれ落ちるほどに目を剥き、鼻息を荒げて呼吸をしている。
惨めに立ち尽くす王太子に、私は最後通告を突きつける。
「わたくしは殿下とティアナ・ハーディング男爵令嬢の幸せのために、今まで必死の決意で準備してきましたのに……。全て水の泡です……」
呟きに似せた私の良く通る声が、ホール中に染み渡る。
予想外の展開に同級生達も言葉を失い、誰も何も発することができない。馬鹿な二人を除いて。
「ここにいる者が、全て口を噤めばいいだけの話だろう!! お前は今まで散々私に迷惑をかけてきたんだ。最後に一つくらい、私のために役に立たせてやってもいいだろう。良いかお前等、この女の言ったことは全て忘れろ! こいつはティアを苦しめた悪役令嬢だ! 分かったな!」
同級生達の冷たい視線などものともせず、王太子が胸を張って叫んだ。
王太子の隣で阿呆も「そうよ、少しは役に立ってから引っ込みなさいよぉ!」と喚く。
同級生達も対応を決めかねている者が小声で相談したり、王太子を糾弾したり、阿呆の文句を言ったりと、大小の声が入り混じり騒がしい。
そのど真ん中を、威厳のある声が刺し貫く。
「お前の言う『ここにいる者』には、俺も含まれるのか?」
苛立ちを露わにしたルートヴィヒの問いかけが、ホール中を震え上がらせる。
誰もが肌がヒリヒリするほどの緊張感を感じて、口を閉じる。全員が恐怖でルートヴィヒから顔を背けてしまうほどの、圧倒的なプレッシャーを感じている。
そもそもホールに集まる者全ての口を封じること自体が無理だ。王家にはそんな力が無いことを、どうして王太子は理解できないのだろうか?
その上、格上の大国の王太子に「口を噤め」と命令するなんて、もってのほかだ。これのおかげで一気に、外交問題に発展する案件となってしまった。
誰もが青くなる中、ただ一人、お花畑の住人が右手を高々と挙げる。
「私いいこと思いつきました! ゲッツ様はぁ、ルイーサ様に返してあげます。それでぇ、私がルートヴィヒ様のお嫁さんになれば、いいんじゃないですかぁ! ゲッツ様とお別れするのは寂しいけどぉ、これで全て丸く収まりますよねぇ」
意味が分からない。
ホール中の全員が彼女の展開についていけず、頭が真っ白になりポカンとしてしまった。王太子でさえ、口を開けたまま、一人陽気な彼女を見て固まっている。
ティアナ・ハーディング男爵令嬢、侮るなかれ、恐るべし。
ティアナ・ハーディング男爵令嬢が、満面の笑みを浮かべてルートヴィヒへ擦り寄ってくる。ルートヴィヒが右手を上げると、三人の体格の良い護衛らしき人達が現れて阿呆を拘束した。
「ちょっとぉ、何するのよ! 私はルートヴィヒ様のお嫁さんになるのよぉ」
暴れる阿呆を横目に、ルートヴィヒの侍従がスッと現れたかと思ったら、ルートヴィヒに剣を渡す。
え? 剣?
誰もが呆然と見守る中、ルートヴィヒは地を這うような低い声で阿呆を黙らせた。
「お前の非礼には我慢がならない。死んで詫びろ!!」
カチリと音がして、刃がキラリと光る。
「ま、ま、お待ち下さい!!」
私は思わず阿呆を庇って前立ち、ルートヴィヒと相対する形になる。
「なぜ守る? その知性の欠片もない女に、ルイーサ嬢も非礼の限りを尽くされたであろう」
そうです。その通りです。ルートヴィヒの言う通りです。
「わたくしの指導が足りませんでした。ルートヴィヒ様にまで不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ございません」
「どういうことだ? ルイーサ嬢が俺に謝る意味が分からない」
「ティアナ・ハーディング男爵令嬢が王太子殿下の隣に立つには、知識や教養の全てが足りません。殿下の庇護がある国内でなら目に余る行為も許されますが、国外や公の場では許される振る舞いではございません。このような事態だけには陥らないよう、せめて最低限のマナーは身につけてもらおうとわたくしも再三注意をしておりました。ですがわたくしの力が及ばず、一番恐れていた事態を引き起こしてしまいました。ルートヴィヒ様のお怒りはもっともですが、何卒ここはお怒りを鎮めて頂けないでしょうか?」
ルートヴィヒは深く息を吐き、出しかけた剣を鞘に仕舞い侍従に渡した。
会場中から安堵のため息が漏れる。
「ルイーサ嬢の顔を立てよう」
「ありがとうございます」
「だがこの不愉快な女は別だ。二度と私の視界に入れるな」
ルートヴィヒが王太子に向かって吐き捨てた。王太子は返事もできす、床に崩れ落ちた。
ルートヴィヒが私の手を取り、「実に不愉快だ。帰ろう」とエスコートしてくれる。私はありがたくその手を取った。
もうやり切った。燃え尽きた。設定の違いは多々あったが、私はざまぁをやり切った! 引き籠り先を吟味するのも明日でいい。今はただ、さっさと帰ってベッドにダイブすることしか考えられない。
ん? おかしい、よね?
私は家に帰るため、ローゼンベルク家の馬車に乗っています。当たり前よね? 私、間違ってない。だって家に帰って寝るんだもん。疲れたんだよ。とても、とても、疲れた。今日の私を見ていた人で、私が疲れていないと思う人いる? いるわけないよね。
断罪劇は幕を閉じた。下らんパーティも抜けてきた。今後のことは父に丸投げする。私は帰って寝て、引き籠り先を吟味するだけ。
まず、目下の目的は、家に帰って寝ることだ。
なのに、なのに、どうして、私の向かいにルートヴィヒが座っているの?
恐る恐るルートヴィヒを見上げると、待っていたとばかりにニッコリと微笑まれてしまった。笑顔を返すにも、かろうじて右の口角だけを引きつらせるのがやっとだ。
さっさとベッドで眠るために、勇気を出して疑問を口にする。
「あの、ルートヴィヒ様、ルートヴィヒ様の馬車はどちらに?」
「俺の馬車は、後ろをついてきているから気にしなくて大丈夫だ」
気にすることたくさんあるんだけど、一体何を気にしないで大丈夫なの? 教えて、ねえ!
「申し訳ございません。わたくしは、ルートヴィヒ様の滞在先を存じ上げませんので、どちらまでお送りすればよいか教えていただけますでしょうか?」
「俺もルーと一緒にローゼンベルク家に行くから気にするな」
気にするわ! しかもサラッと愛称で呼んだよね? 親からも呼ばれたことないんですけど。
向かいに座るルートヴィヒは私と目が合うとまたニッコリ微笑んで、「ルーも俺のことはルーイと呼んでくれ」と軽く言ってのけた。
私はもう唖然とするしかない。
馬車に乗るなり、思いっきり気を抜くはずだったのに! 今頃は淑女とは思えない格好で、リラックスしているはずだったのに! 人の予定を勝手に邪魔して、何がルーイと呼べだよ。呼ぶか!
ルートヴィヒが私を見て声を上げて笑い出した。おい、失礼だろ……。
「さっきまで完璧に悲劇の悪役令嬢を演じきっていたから疲れたか? 心の声が顔に出ているぞ」
思わず両手で顔を触ってしまう。これでは相手の思う壷だ。
「婚約破棄されて、断罪されてからのざまぁだからな。随分と詰め込んだから、そりゃ疲れるな」
「…………………………」
私は座席から立ち上がると「ちょっと失礼」と声をかけ、ルートヴィヒの七三分けの髪に触れ、息をのむ。
「やっぱり、ツーブロック……」
「暑がりでな。専属理容師になかなか理解してもらえなくて、最近やっと思う通りのツーブロックができるようになってくれたよ」
やっぱりなとは思ったけど、それでもあまりの衝撃に言葉が出ない。
ルートヴィヒはそんな私をからかって、「俺に前世があることには気が付いていただろう?」驚いたふりをする。
分かっていたけど、ざまぁに忙しくて考える余裕がなかった。
そんな態度も私の顔に出てしまったのか、ルートヴィヒはフフと笑って話を続ける。
「さすがにあの馬鹿二人が酷すぎて、見ていられないから仲裁に入ろうとしたんだ。そうしたら『テンプレ』とか『コント』とか懐かしい言葉がルーの口から出てきて、俺も驚いた。断罪中に前世を思い出したんだな」
「お察しの通りです。婚約破棄された瞬間に、『あぁ、日本人だったな』と思いました。ざまぁとかを知っているということは、ルートヴィヒ様の前世は女子でした?」
「えっ? あぁ、ルーがやったざまぁを知っていたからか。俺は前世も男だったけど、日本で出版社に勤務してたんだ。仕事柄ざまぁとか婚約破棄は流行りだったし、ルーの状況にはぴったりだと思ったから誘導したんだ」
そうです。今日私が行ったざまぁは、前世の漫画で読んだものだった。
悲劇の悪役令嬢が愛する王太子のために、全てをなげうち自ら悪役令嬢となることで、王太子と浮気相手の恋を成就させるべく奔走する話。
結末や脚色は様々だけど、多くの媒体で多く取り上げられたテンプレだ。知っていたからこそ、完全に演じきれたわけだ。まぁところどころ異なる点というか、ルートヴィヒのオリジナルがあって動揺したけど、概ね本筋通りだったかな? 最後は大きく違ったけど……。
「剣が出てきた時は、どうしようかと思いました……」
はははとルートヴィヒが声を上げて笑い、右手で口元を覆い「ちょっと、やりすぎたな。悪かった」と恥ずかしそうに言った。
「俺は幼少期から前世の記憶があるけど、そこまではっきりしたものではない。基本的な人格は前世のものではなく、今のルートヴィヒ・マイスリンガーなんだ。だからあの時は、阿呆の暴走に本気で腹が立って、つい侍従に『剣持って来い』と目で合図を出してしまった。ルーが機転を利かせてくれて助かった」
はははと笑っていますけど、一歩間違えれば流血沙汰だったということ? 怖い!!
でもまぁ、あの阿呆の思考回路は壊れていたから、ルートヴィヒの気持ちも分かるかな。
せっかくのお仲間なんだから、仲良くして聞けることは聞いておかないと。
「今まで何人くらい前世の記憶がある人物に会いましたか? そういうコミュニティがあったりします?」
「俺は七歳位に記憶が蘇ったけど、それから今日まで前世の記憶がある者とは、ルー以外は出会ったことがない」
はっきりと断言するルートヴィヒの言葉が、衝撃となって私を直撃した。
「えっ! そうなのですか。前世持ちのルートヴィヒ様と直ぐに会えたから、わたくしが知らないだけで、世の中には前世持ちが多くいるのかと思ってしまいました。違うのか。ショックです。では思い出した日に、前世持ちのルートヴィヒ様にお会いできたわたくしは恵まれていたんですね」
「そうだな、俺は運命だと思う!」
ルートヴィヒが私の両手を握って笑みを浮かべている。
ルートヴィヒの茜色で切れ長の瞳といえば、眼光鋭いイメージしかない。陰で鉄仮面と呼ばれている私と同じで、笑っている姿が思い浮かばない人物だったはずだ。
学園の令嬢達が「あの笑わないクールなところが素敵」と騒いでいるのを、友達のいない私でも何度も耳にしたことがある。
なのにどうだ? もうずっと、ニコニコニコニコ笑みを絶やさないじゃないか。
そして、この手! 痛くはないけど、ガッチリ掴まれていて振り払うことができない。振り払うどころか、微動だにしない。どういうこと?
「俺は今月末にはマイスリンガー国に帰るんだ。その時にはルーを婚約者として連れて行くから、さっさとあの一発屋みたいな名前の奴との婚約破棄の手続きを済まそう」
やっぱり、ゲッツ! と言えばそうよね。しかもあいつの今日の衣装は、なぜか黄色がメイン色だった。あれをまともに見てしてしまった時は、笑いを堪えすぎて奥歯が擦り減るわ頭は痛いわで辛かった。
って、そこじゃない。どういうことだ? 運命だと? 何勝手に言ってんの?
「いやいや、私、前世の記憶が戻った今、政略結婚とか絶対に無理です。王太子妃とか王妃も無理。領地か隣国に行って、独身のまま引き籠る予定なんで、邪魔しないでください」
ルートヴィヒの力が少し弱まったので、私は振り払おうと両手をブンブン振り回すが、相手は笑顔のまま手を離す気が全く感じられない。
「本気で仰っているわけではないですよね? わたくしのような小国の公爵家の娘が、マイスリンガー国の王太子の婚約者なんて分不相応です。有り得ません!」
わっ、無言の圧力! ここで? この密室でプレッシャーかけてくる気? もう、その顔は笑顔とは言えないよ。だって目が笑ってないじゃない。
完全に主導権争いが勃発した。これは、負けられない戦いの火蓋が切られてしまった。
「クライン国の王家がローゼンベルク家に頭が上がらないのは、全く返せる見込みがない額の借金をローゼンベルク家にしているからだな?」
「そうです。昔から王家は浪費する能力しか秀でないので、積み重ねた借金は天文学的な数字です。国王陛下は私と王太子を結婚させることで、その借金を踏み倒そうと考えていたのです。さすがに王太子のしでかしたことも耳に入っているでしょうから、今頃陛下は発狂しているかもしれませんね」
「そうなると金を返せない国王に邪魔されて、ゲッツと婚約破棄ができないかもしれないな? 俺と婚約するとなれば、クライン国王も引かざるを得ないぞ」
「ふふふ、お気遣い痛み入ります。ですがルートヴィヒ様のお手を煩わせずとも、我が家で解決できますのでご心配なく」
「腐っても国王だろう? 多少は王家の威光も残っているから、ゲッツがあんな尊大な態度を取っていられたんだ」
「今までは私が王太子との結婚を望んでいたので父も我慢していましたが、私が婚約を望まないと分かったのなら父が婚約継続を許すはずがありません。ローゼンベルク家には、それだけの力がございます」
「マイスリンガー国の次期国王と事を構え、ローゼンベルク家に喧嘩を売った馬鹿が、このまま王太子でいられるか? 我が国はクライン国を冷遇するぞ?」
「我が家の兄と弟にも王位継承権があるのです。今の国王陛下の代がいつまで続くか分かりませんが、早急に変える必要があるかもしれませんね」
「そうだな。俺も妻の兄妹であれば、良好な関係を築けると思う」
「そうでなければ、攻め落とすと?」
「どうだろう? ローゼンベルク家の商才や技術力は我が国にとっても重要だから、できれば失いたくないと思うぞ」
ルートヴィヒはそう言って、為政者の顔でニヤリと笑った。
マイスリンガー国は国土の面積だけとってもクライン国の三倍はある。商業も工業も栄えた豊かな国なので、人口はそれ以上の差がある。絶対的に国力が違いすぎる。こちらが準備する時間をルートヴィヒが与えてくれるとは思えない以上、兵の数が桁違いな状態でまともな戦いになるとは思えない。
戦争になれば、傷つくのは民だ。
たかが私一人のために戦争なんて起こすわけにはいかない。だいたい私にそんな価値があるとは思えない。前世は医者でもなく薬の開発もしていない、普通の未婚の三十代だ。もしかして、何か凄い能力があると勘違いしてる?
「私もそれほど前世の記憶を覚えているわけではありません。職業は市役所の高齢福祉課に勤務し、クレームを受け流すだけの一般職員でした。この世界を変える様な能力は持ち合わせていません。本当です」
私が自分の平凡さを訴えると、ルートヴィヒが悲しそうに顔を歪めた。
「ルーの特殊能力に期待して結婚を望んだわけではない。俺自身も前世の記憶は薄いし、特殊能力は持っていない。最初からルーに特殊能力があるとは思っていないし、望んでもいない」
「なら、前世の記憶があるだけで?」
「それだけではないが、理由の一つではある。前世の記憶があるせいで、俺はこの世界に馴染み切れなかった。身分や絶対王政なんて、俺達にとったら完全に廃れた過去の遺物だろ? なのに今の俺には、それが現実なんだ。この葛藤を分かり合える人を見つけたなら、一緒にいたいと思うだろ?」
確かに、言いたいことは分かる。サラリーマンや公務員にいきなり、国王や王妃になれなんて無理な話だ。だから私は逃げるけど、ルートヴィヒは立場上逃げることが叶わない。
「それにルーのことは鉄仮面時代から一目置いていた。俺と張り合えるぐらい優秀で頭も切れるのに、何であの馬鹿の婚約者に甘んじているんだろうとずっと思っていた。…………俺だったら、もっと大事にできるのにと思っていた」
え? 見上げると、顔だけでなく耳まで赤らめたルートヴィヒがいた。
「えぇっ? でも、私、えぇっ? どうしよう? えっと、今日から前世の記憶がありまして、そのせいで鉄仮面の時とはまた違う性格が形成されており……」
突然の展開と事実に慌てふためき支離滅裂な私に対し、ルートヴィヒは掴んでいた両手を離したかと思えば、なんと指を絡めてきた。
「鉄仮面の真面目で常に正しいルーも、前世の記憶が戻って即興でざまぁをやり切るルーも両方可愛いと思うし、好きだ」
しまった! 強面イケメンが照れてはにかむ様子を直視してしまった! 胸がドキドキする。絆されてしまった気がする。
断罪からは逃げ切ったのに、ルートヴィヒからは逃げられない予感がする。
ニッコリと微笑むルートヴィヒの茜色の瞳に、絶対に逃さないという強い意志が込められる。私はその瞳にも絡め捕られた。
お読みいただき、ありがとうございました。