第16話 翌朝の出来事
夕飯を食べてから解散――それでも、まだ八時だったから。篠崎が帰るのにも問題ない。
「なあ、篠崎……蘭子に会いに来るのは構わないから、勉強の方も……みっちりやれよ?」
「う、うん……解ってるよ?」
何で断言しないんだ? そういう意味では、イマイチ信用できないから――
「明日から……篠崎用の特別カリキュラムを組むから、覚悟しておけよ?」
「……う、うん。あ……バスが来たから、ごめん。私帰らなくちゃ……」
篠崎は逃げるように帰って行く――しかし、そんな事で誤魔化されるほど俺は甘くなかった。
篠崎は俺のために蘭子の世話を手伝ってくれるのだから――俺も精一杯篠崎の勉強を見てやろうと思う……逃げるなよ、篠崎?
※ ※ ※ ※
そして翌朝――俺が玄関の扉を開けると、ピンクと白のジャージ姿で葵が待っていた。ジャージには『星城女子学園陸上部』という文字がプリントされている。
「へえー……約束通りに来たんだな?」
葵からはNINEで事前に連絡が来ていたから、来るのは解っていたが。ポニーテルでピンクのジャージ姿の葵なんて初めて見たから、ちょっとドキッとしてしまったのは本人には内緒だ。
「何よ、颯太……私のジャージ姿が、そんなに珍しい?」
いや、その通りなんだけど――俺の記憶の中より、随分と成長した葵の姿に……別の感想を抱いてしまったのは仕方ないだろう?
「……葵。昨日も言ったけど、おまえのペースに合わせるつもりはないからな?」
俺は別に挑発するつもりでは無かったのだが。
「ふーん……颯太、良い度胸じゃない! これでも、去年の新人戦で全国に行ったんだからね!」
自信たっぷりの葵に――
「そうか……だったら、俺も遠慮なくやらせて貰うよ」
俺と葵は同時に走り出す。
一日に使える時間を考えたら――ランニングと筋トレで使えるのはせいぜい一時間だ。筋トレにもそれなりに時間が掛かるから、ランニングの時間は三十分がリミット――そのくらいの時間なら、それなりの速度で走り切る事が出来るし、そうしないと心肺系を鍛える事が出来ない。
『なあ、颯太……男なら、女の子を身体を張って守らないとな。そのためには、いつでも戦えるように身体を鍛えておく必要がある。勉強をするにも仕事をするにも、結局は身体が資本しな。そういう意味でも……男なら鍛えておくべきだろう?』
子供の頃に父親とした約束――それを今でも俺は守っている。
「ちょ……ちょっと、待ってよ……颯太……」
スタートから五分後――引き離した葵の声はもう聞こえない。俺は全力で走る……そうしないと走る意味がないから。
だけど、今日は……葵と一緒に走っているから、途中で全力で折り返す事にした。すると、途中で奇麗なパワースライドで走っている葵が見えた。
「颯太……私のために戻って来てくれたの?」
葵は嬉しさ口惜しさの入り混じった顔をするが――
「悪いけど、葵……何度も言うけど、おまえのペースに合わせるつもりなんてないからさ」
葵のところまで戻ると、再び向きを変えて加速――急激な加速に身体が打ち震えるが……これくらいしなくちゃ、走る意味がないから。
※ ※ ※ ※
俺が洗濯物を畳んで、蘭子にエサをやりながら朝食を食べていると……汗だくの葵が戻って来た。
「よう、葵。お疲れ……うちで朝飯を食べるなら、パンと目玉焼きくらいは用意するけど?」
弁当は篠崎が用意してくれるから、朝に少しだけ時間の余裕が出来た。だから、葵の朝食くらい作る時間はあるのだが――
「ねえ、颯太……メチャメチャ悔しいけど、前言撤回するわ。ランニングに付き合うのは無理だから……颯太の朝食くらい、私に作らせてよ!」
いや、そうなると話が変わってくる。ランニングは自分のために走るのだから問題ないが――
「なんで葵が、俺の飯を作るんだよ? そんな事をして、葵に何のメリットがある?」
このとき俺は、物凄く冷めた目をしていたと思う――他人が俺のためだけに何かするとか、そんなの全然意味が解らない。俺の境遇に同情するとか、可哀そうだとか思うとか……そんなの要らないから!
「葵、おまえは俺の事情を知ってる癖に……そんなことを言うなよ!」
俺が拒絶しようとすると、葵は背中に抱きついて来た――嫌じゃない汗の匂いと、暖かくて柔らかい感触を感じる……
「颯太……そんな事を言わないでよ! 私は同情とかそんな事じゃなくて。颯太が……好きだから傍にいたいの!」
生まれた頃から、ずっと一緒にいたのに、中二の夏に突然俺に拒絶されて……それでも葵には思うところがあったのだろう。
「葵、おまえ……好きだなんて簡単に言うなよ。俺がお前に何をしたのか……」
葵が俺を憎からず想ってくれていた事は知っている――だけど、それは中二までの話で……俺は三年間も、葵を拒絶して来たんだ。
そんな俺の事を、葵が今でも好きである筈がない……いや、もしかしたら昔のように想ってくれているのかも知れない。だけど……葵が想っているのは今の俺じゃなくて、中二の頃の俺だ。
「颯太は……全然解ってないよ。だって……私にとっては、今も昔も颯太は颯太だから。私はただ、颯太の傍に居たいだけ……」
葵の温もりを感じて――俺は背中に汗を掻いていた。だけど、葵の顔が当たっている部分は……他の部分よりも、ずっと濡れていた。
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