異邦人 2/3
「これがオリジン……?」
第一印象は、暗いことだった。壁の外で少女を照らしていた日光は、煤のような曇り空に阻まれて、柔らかなどころか、弱い。
壁の内の世界には、少女にとって見慣れない建物が雑居していた。木造家屋と、煉瓦作りの建物と、バラック小屋とが、煩雑に立ち並んでいる。それを切り拓くように一本道はまだ続く。
その先に聳えるのは、山。
――いや、先刻そう見間違えたもの。
その真の形は、城。
しかも、石垣どころか地盤すらない。それでも、高く。この世界のどの建物よりも高く聳える――いや浮遊している。それは、異端の都市オリジンの象徴。
大地より離れた円盤の巣に、白鷺が天を仰いで翼を広げたような城が建っている。
嘴というべき尖塔は直上に伸び、翼に包まれるように大きな建築物がたたずんでいる。
その信奉を覚えるような純白を、下の街から立ち上る黒煙が隠す。
「けほっ、けほっ……」
穢れた空気のせいか、少女は咳き込んだ。老翁の執事がそっと近づいて囁く。
「いけませんぞ。ここではまだフードを被っていて下され。どこかに刺客がいるかもしれないのですからな」
老翁は静かに、そして厳格に少女を戒めた。少女は、生意気な少年のように言葉を返す。
「分かってるよ。……でも、この街は暗いのね。ここに来てから、青空が見えないもの」
「お気持ちは分かります。ですが、フードを被って下され」
「二回も言わなくていいのに」
少女は、言いつけ通りにフードを被った。ただし、浅めに。それから少女は、さっき浮かんだ疑問を老執事に訊いた。
「マルボル。あの城は何かしら?」
少女は、彼方に聳える城を指さした。マルボルと呼ばれた老執事が答える。
「あれは、サピエンティア城でございます。蒸気機関とやらの力で浮遊する、空飛ぶ城だとか」
「じょうききかん……」
それがどういうモノなのか、少女は全く知らない。老翁の言葉から、何かすごいものらしいとは分かったが、少女には一つの疑問が浮かんだ。
「お城が空を飛ぶ意味なんてあるのかな」
老翁は淡々と返す。
「それは私にもわかりかねます。ただ、あのような歪な城を磐石とはいえますまい」
それに、ただ浮遊しているというには、あの城は矛盾している。浮かぶ円盤の周囲には、気球の風船と籠を繋ぐように、数本の鎖が伸びている。だが当然ながら、都市は飛ばない。となれば、あの鎖は地面を浮かせるものどころか、寧ろ逆だ。あくまで、城が飛びすぎないように地上に繋ぎ止めているものに過ぎない。老執事は、深緑の瞳でそれを見抜いていた。
「あの鎖の一本でも切れれば、サピエンティア城はバランスを崩すでしょう」
マルボルは、城を隠すように周囲から立ち上りつつある黒煙を見つめていた。
父の悪態も、老翁の戒めも、少女を不快にさせた。少女は母の胸に戻り、今度は街を見回すことにした。
気がつけば、建物が煩雑に建つ場所を通り過ぎていた。閑静で開けた土地に、貴族が住んでいそうな広い邸宅が点在している。が、貴族は時代に伴って没落したのか。それとも中空の城へと居を移したのか。それは寂れた静けさだった。道も比較的綺麗にされている。
もっと奥へと進んでいくと、比較的新しい建物が増えている。分身のように連なる煉瓦造りの建物から、労働者たちが出てきた。その数は、壁の外で見た数の比ではない。少女は、見たことのない人の波に内心慄いた。だが少女は同時に興味も抱いた。
オリジンの民は、どうしてこんな薄汚い場所で生きているのだろうか。少女には、いまだ息を深く吸うこともかなわない。父の煙草の香りにすら慣れない少女にとって、それより酷い臭いが舞うこの場にいるのは酷だ。
少女だけではない。両親も、執事も、馭者ですらも、張り詰めたように息を潜めている。
人混みが生み出す不文律な足音の漣が、いつまでも続く。少女は、僅かな時間で色々なモノを見すぎた。お陰で、それまでの平原が夢のものに思えた。また、あそこに歩く男たちの顔を一つ一つ見ては、色や体格に差はあれ、沈んだ表情は共通で、多様なのか単調なのか、よく分からなくなった。そうして、五感を通して伝わる全てのことが頭の中をグルグルと回った挙句、少女は吐き気を覚え、母の腕に顔を埋めた。そしてそのまま、荷馬車の揺れのみに意識を傾けてジッとしているのだった。
荷馬車は、少女が母の腕に顔を埋めた辺りから工場が立ち並ぶ場所を通っている。労働者は、蟻が巣穴に吸い込まれるように、各々に勤め先の工場に入っていった。道が閑散になると、煉瓦積みの工場の煙突から黒煙が忙しなく立ち上り始めた。
その頃合に、父は馭者に訊いた。
「我々は、どこで降りられるかな」
「間もなくです。あの〈スカートの下〉の中央まで行けば、こちらの者が待っているはずですよ」
馭者は先刻とはまるで違う口調で、荷馬車の乗客に答えた。あれは、彼なりにおどけてみせたものらしい。
それよりも、父は馭者が口にした聞きなれない言葉が気になっていた。
「〈スカートの下〉?」
馭者は、少女の母を一瞥してから言い始めた。
「はい。ご婦人の前で言うには下品な俗称ですが。サピエンティア城の下にも街がありまして、そこは日中でも陽の光が入らない場所になってるんですよ」
父の目の先に、上空の巨城とその下の漆黒の影が映った。ここからでは、〈スカートの下〉の詳細はわからない。城の土台たるプレートの外周には、大型の煙突が大量に設置され、下を向いた楕円の口から、〈スカートの下〉を隠すように黒煙が吐き出ている。
その黒い幕の先は、ここからでは伺えない。
「……それを比喩的に〈スカートの下〉と呼んでいる、と」
「はい。城が建つ前は、〈スカートの下〉の場所にオリジンの政府があったんですがね。聖典教会のレコンキスタが失敗に終わって、産業が伸びたあたりから、そういったものはもう全部お空の上に行ってしまったんですよ。それで今は、空からのゴミが降り積もるような場所になってしまった」
「城のゴミが、下の街に投棄されていると?」
「はい。あそこは、まともな人間が住む場所じゃないですよ。それにほら、プレートの周りには、下向きの煙突があるでしょう? あれが黒いカーテンになっていまして、陽も当たらないのに、更に暗くなっている。あぁ、それでもね、住む人もいるんですよ。もっとも、水商売をやっている人たちと聖典教会の一部の信徒ぐらいですが。常夜の街だから、あまり碌な者はいないんですよ」
ここにきて馭者がやけに饒舌になっていることが、父は気になった。――任務の終わりが見えてきて気が緩んでいるのだとしたら、少し困りものだ、と父はその背中を睨む。父の気など露とも知らない馭者は、言葉を続けている。
「あそこに入りたくないというのは分かります。ですが、あそこには、城につながる裏道みたいなものがあるんですよ。城に行けば、首長のジオ・アルバトロスの保護下につけますから、息苦しいとは思いますが、これで今一つ辛抱願います」
馭者は、手元の袋から仮面のようなものを四つ取り出した。
「これは防塵マスクです。煙草より質の悪い煙をくぐるわけですから、お嬢様にも着けてください」
老執事が、馭者からそれを受け取ると、父に一つ手渡し、二つを少女の母に手渡した。母は、腕に抱きついたままの少女の肩を叩いた。
「さあキャナリー、これを着けるのよ」
母に促されて、少女は初めて見る仮面に興味をもった。それから、また一段と暗く濁る空を見て思わず母に訊ねた。
「また夜……?」
母は首を振って否定しつつ、フードを外さないように気をつけながら愛娘の顔にマスクを付けた。
慣れない状態に、少女はくぐもった声で意見した。
「……苦しいよ。お母様」
「我慢なさい。外したらもっと苦しいのだから」
子に示すように、母もマスクを着けた。黒いローブで全身を覆い、顔までマスクで隠した異邦人たちは、傍目には近寄りがたい一団となっていたに違いない。だが実のところ傍目など既にどこにもなかった。
工場の立ち並ぶ区域を過ぎると、荷馬車は、サピエンティア城の下へと迫っていた。荷馬車が、一段と大きい建物の横を過ぎた。そこから、城に向かって大きい鎖が伸びている。その建物は、城の錨の役割をする家屋大の台だった。荷馬車からは見えないが、このような錨がサピエンティア城を囲うように八つ存在する。
それから少し進むと、鉄道の駅があった。そこから伸びる線路は、城を囲うように螺旋状に上り続ける高架線路で、どうやらプレートまで繋がっているようだ。
荷馬車は、立ち込める黒煙の向こう〈スカートの下〉に潜り込む。黒煙は、零れたインクが白紙を染めあげるように、視界を真っ暗に染める。少女は、目の前の母の姿すら見えなくなって驚いた。これは、夜の闇とは違う。マスク越しでも呼吸をためらう、煙の闇だ。
パシッ、と馭者の鞭打ちが響く。馬の歩みが遅くなったのだ。荷車が荒々しく揺れて、黒煙のカーテンを抜ける。
――と。現れた風景は、街だった。常夜の闇を照らす街灯が奥へと連なっている。さっきの朝日が夢に思える見事な夜の街が、一行の目前に広がっていた。
〈スカートの下〉の石畳の道には、その所々にガラクタらしきゴミが見られる。馭者が言っていた、城からのゴミだ。何かの部品だったらしい鉄屑の形は、シュンム帝国の工芸品にはあまり見られないものばかりだ。父はまた馭者に問うた。
「馭者。なぜあのようにガラクタが捨てられている?」
オリジンは鉄を外国から輸入しているのだから、無駄になどできないはずだ。
「知られていないのでしょう。ここは〈スカートの下〉ですからね。大抵の人は近寄ることすらしません。
ましてや回収ともなると、来るのはほんの僅かな者です。彼らも拾うくらいはするでしょう。ですが、それよりも上から捨てられる数の方が多いのです」
「上から? サピエンティア城には、ガラクタを作る工場でもあるのかね」
父の皮肉交じりの言葉に、馭者は軽快に返した。
「工場はないですが、娯楽があるんです。言ってしまえば、ここは城を清潔に保つためのゴミ捨て場。片付けをしない子供部屋みたいなものですよ」
「不浄な……」
父はそれ以上の言及を止めた。言いたいことは多々あるが、問い詰めることでこの不快感が消えるわけではない。
不浄とは、なにもガラクタだけに思ったのではない。この〈スカートの下〉全体にいえるのだ。淫靡な街灯が照らしだすのは、水商売、クスリ、ギャングといったものが棲む、負の空気が籠った場所だ。
そして、父が何よりも不快を覚えたのは、その中に見慣れた建物を見つけた瞬間だった。
「教会をこんなところに置くなど……!」
父の声は、怒りに震えていた。
明かりに映える教会は、本来あるはずの色を失い、穢されていた。天から地へ、黒から鼠色のグラデーションをしている。聖なる信仰からはあまりにも遠い姿だった。
「噂には聞いていたが、実際に見るとなお嘆かわしい……」
父の嘆きに、傍らの老執事は慰めるように言葉を選んだ。
「ですが、あそこにあるモノを考えれば、寧ろここにある方が良いのかもしれません。隠れているからこそ、我らの血統は世の中に正義を証明できる。そうではありませんか。
旦那様、今は耐える時です。時が来れば、コスモマギアの血統は復権を果たすでしょう」
「時がくれば、か。マルボルよ。我らはそうして生を繋げてきた。それも間もなく二千年経つのだ」
「……わかっております。わかっておりますとも。ですがそれも、もう終わりがくるでしょう。あの言葉の時は、目の前に来ているのです」
『神話録』。『聖典』と同様、この世界の無数の人々に読まれているその書物には、ある予言が記されていた。
――唯一となりし神が消え、知恵より生まれし力にて、知恵の国滅びし時。封印は解かれ、彼の地にて復活を果たさん――
マルボルがいう言葉とはこれだ。
この言葉を真に受ける人間が、世の中にどれだけいるのかは分からない。しかし、彼らにとっては最大の関心ごとだった。
「また戦争が起これば、今度こそ予言の体現となるだろう」
「ですから、あと一手を防ぐために我々は逃れているのです」
「暗殺だけは避けねばならん。その意味では、オリジンも安心できないぞ」
「はい。くれぐれも油断なきよう」
この二人の会話を、少女は母の腕でそっと聞いていた。
荷馬車の終点は、教会のすぐそばだった。サピエンティア城から真下に伸びる太い柱に、扉がある。そこで荷馬車は止まった。
「私の頼まれた仕事はここまでです。あとはあの扉の前の奴がジオ・アルバトロスの元まで送ってくれるはずです」
馭者は、扉を指さした。確かに男がいる。
四つのフード姿が、荷馬車をおりる。馭者は、一同を見送ると、鞭を打ってそそくさと去った。三日の付き合いも、役目が終わればそれまでだ。
「お待ちしておりました。サンドロ・モナド・コスモマギア様。それと、御家族の皆様」
柱の傍にいる男は、街の人間とは違って清潔な身なりをしていた。
少女の父――サンドロは男と握手を交わしてから低く言った。
「その名で呼ぶな。どこに刺客がいるかもしれないのだ」
「失礼しました。以後気を付けます」
男は凛々しく返した。その深緑の瞳を見て、モナドは彼を同志だと悟った。
「この上に行けば、城の内部です。そしたら、ジオ・アルバトロスの元へご案内します」
「分かった。頼む」
サンドロの言葉に応じ、男は扉の鍵を開けて、奥へと案内した。一同が入ると、男は扉を閉じて、内から鍵を閉めた。
扉の奥には蛇腹の柵があり、更にそれを開けると箱型の狭い部屋についた。エレベーターである。
四人は、マスクを外しながらエレベーターに入る。
「上昇します。お気を付けて」
全員が入ってから、男が部屋のレバーを引く。すると、部屋は一度大きく揺れてからジワリと上昇した。エレベーターはその速度を徐々に速めていった。
「きゃあ……!」
少女は、息がしやすくなったと思ったのも束の間、突然の揺れに驚いた。
ゴンゴンゴン……! と、段を踏んで揺れが増していく。
その騒音の中で、男は一同にエレベーターについて説明する。
「このエレベーターは百メートルあります。籠に付けた紐を蒸気機関が巻き上げているのです。止まる場所に近づいたらブレーキレバーを引くのです」
蛇腹の柵の向こうは、柱の内側を延々と見せ続けている。初めは黒だった壁は、一定の間隔で藍・青・紫・赤の順で段々と色を変える。そして橙に変わったとき、男はブレーキレバーを引いた。天井からキィイ……! と甲高い音が鳴る。
少女は思わず耳をふさいだ。
耳をつんざく音が止むと、蛇腹の向こうに道が現れていた。
「城の中です。ついてきて下さい」
サンドロは先んずる男を呼び止めた。
「待った。一つ訊きたい」
「何でしょうか。あまり悠長にしている時間はないのですが」
そんなことは分かっているはずだ、と男の瞳は真っ直ぐにサンドロを捉える。
「この……エレベーターと言ったか。それがどうして城と〈スカートの下〉を繋げているのだ?」
男は、誰かを嘲るように返した。
「緊急避難のためだそうですよ。例えば、城を地上と繋ぐ鎖が断ち切れたときに地上に逃げられるためにです。
人っていうのは、誰よりも高みにいたがるくせに、地上から離れて生きることは出来ない。機械化主義者どもだって、信仰を捨てていても人間だということです。この街について他に訊きたいことがあれば、ジオ・アルバトロスに訊いてみればいいでしょう。彼もまた我々の同志なのですから」
男はそこで言葉を切って蛇腹の柵を開けた。一同は男の後についていく。城の中は、街中にあった煉瓦造りとは違った雰囲気だった。赤い絨毯の廊下と、白く塗られた壁を、まさに城らしいと異邦人たちは感じた。
幾つかの扉を通り過ぎて行き、そのうちの一つの前で男は歩みを止めた。それから扉をノックした。