家路へ
ジュードは、自分の左手にある感触を、決して手放さないように握った。
名前のない少女はジュードの家族発言以来、一言も話してこない。不安がっている様子はないが、その歩みはどことなく弱い。
「帰ったらご飯にしよう。お腹空いただろう」
少女はこくんと頷く。彼女の歩みが少し早くなった。
辺りの建物が、木造建築やバラック小屋に、道は整備された石畳から、足場の悪い泥土へと変わった。スラム街に突入した。
「滑らないように気を付けるんだ。もうすぐ着くから」
ジュードがそう言うと、彼女はまた頷いた。聞き分けのいい子らしい。さっきの丁寧な言葉遣いといい、本来はこんなスラムに住んでいるはずのない子だ。何より、彼女はマギア族と見なされているようだ。
(この頭髪は、普通じゃない。差別にあってしまったのかもしれない)
親が犯罪者であったり反社会的だと、それを恐れる周囲の人間によって魔術師のレッテルを張られてしまうことがある。恐怖心が差別や暴力の原因だという証明だ。結果、魔術師でも何でもない一般人が公然と殺される環境ができる。マギア族疑惑を口実にした差別や虐殺は、約二千年前に端を発したものだが、人間の偏見は簡単に消えるものではない。
「知識とか技術を引き継ぐのはいいけどさ、どうして人間は差別まで引き継ぐのかね」
ジュードはつい独り言ちた。少女は、ジュードに見向きもせずに歩いている。
(マギア族の髪が空色だなんて、誰が決めたんだろうな)
権力者か、群集か。いずれにしても彼らの選択が、今日になって一人の少女を苦しめているのは確かだった。
小屋同士がひしめく中に、親知らずの如く抜き出た木造家屋があった。それがジュードの住まいだった。
下が空洞の倉庫になっていて、上に続く階段がある。
「ここが家だ。ん、どうした?」
少女は、暗い倉庫の中を見て立ち止まった。どこかで見たような物に似た、大きな鉄人形が佇んでいる。彼女は指差してみた。
「あれか? マキナだよ。機械で出来た大きな人形さ。あれは試作品27号。さ、早く部屋に入ってご飯にしよう」
少女は、「ご飯」の響きに惹かれたようで、ジュードの後についていった。階段を昇る前に、少女はもう一度だけ試作品27号を見遣った。
「ただいま」
階段先のドアを開けると、奥からエマが迎えに来た。
「お帰りなさいジュードさん! ん? その子は?」
実に無邪気な態度で、エマは少女を見た。一瞬、察したような目をしたが、態度は全く変わらない。
「ああ、ちょっと訳ありでな。この子の分の飯も頼む。お腹を空かせているんだ」
「なんと! それは一大事ですね。分かりました! ちょっと待ってて下さいね!」
ビシィと敬礼をしてから、彼女は調理場へ向かった。といっても、小さな一部屋の隅が調理場だ。ジュードたちが天井のオイルランプが照らす部屋の奥に入ると、雑多に物が置かれた部屋に、温かないい香りがしていた。エマは既に食事の準備をしていたようだ。
雑多な物といっても、少女には何がどういうものか分からないし、ジュードにとってはいつもの状態なので特に思うこともない。
「テーブルの工具類どかしといて下さい。その子の分のスペース開けないとですよ」とエマに言われて、ジュードは工具や図面の紙を纏めて脇にどかした。
「ダメですよ、ちゃんとしまわないと!」
「分かった分かった」
「そんなので、よくお手伝いさんなんて出来ましたね。私驚きです」
「あれは仕事だったからな」
「とにかく! 工具はガレージの箱に! 図面は丸めて部屋の隅にやってください! 今晩はシチュー作りましたからね!」
おぉ、と感嘆するジュード。隣で立ったままの少女に目線を合わせると、「片付けてくるから、椅子に座って待っててくれ」と言い残してから階段を下りた。
言われたままに、少女は椅子に座る。肩くらいの高さのテーブルに、両手をだらりと置いてみて、辺りを見回した。
少女にとってはじめて見るものばかりだった。テーブルこそ物がどかされたが、壁や床には工具と呼ばれていた類の物が掛けられていたり、置かれている。調理場横の食器入れには華美なものは一つもなく、数は最低限で質素なものだ。奥にドアがある。少女は寝室辺りを予想した。
エマは食器にシチューを盛り付けていた。
(さっきの人が家族なら、お父さまだろうか。それともお兄さま? じゃあこの女性は何だろう?)
「お…お姉、さま……」
「今運ぶから気をつけてね」
少女の声は余りにも小さかったので、エマには聞こえなかった。エマは、シチューの乗った食器を少女の前に置くと、ニッコリと笑ってみせた。
「どう? 美味しそうでしょ」
「わぁ……」
ブイヨンとホワイトソースが醸し出す、優しくも深みのある香りがした。それは、ふわりと少女の鼻孔をくぐり抜けて、速やかにお腹の底を鳴らさせた。
腹の音を聞いて、エマはまたニコリとした。
「うん、その反応嬉しいわ! ジュードが戻ったらすぐ食べるから、それまでもうちょっと待ってて」
そう言うと、エマは自分とジュードの席の前にも食器を置く。それから少女の横に座ると、彼女は少女の服が濡れていることに気づいた。
「やだ、着替えあったかな……? まあいいや。ちょっとこっち来て」
まだ雨で濡れたままだった少女の手を握ると、エマは奥の部屋へと連れて行った。
少女が予想してた通りの部屋だった。明かりが点いておらず、暗くてよくは見えないが、衣服と机とベッドがある。
エマは、タンスへと足を運んで中を探し回った。「んー、いいサイズのないかなぁ……」と呟いている。
「まあしょうがない。これ着てもらおう! じゃあ服脱いどいて! で、このタオルで身体拭いちゃいな」
エマは、自分の寝間着の上とタオルを少女に渡した。少女は従順にローブと服を脱いで身体を優しく拭き、それからダボダボの寝間着に袖を通した。首に掛かったペンダントも紐が濡れていたようで、少女は、ランプの灯に煌めく輝石を、濡れて冷えたローブの上に置いた。
エマはひとりで着替える少女に声を掛けた。
「ねえ、お姉さんに名前教えてくれるかな?」
少女は、何も言わずに首を横に振った。そしてエマに、
「お姉さまは、私のお姉さまなの?」
と訊き返したのだった。
エマは面食らった。ジュードが連れ帰ってきたことには、少女の髪色以外にも事情がありそうだった。
「えと……どうしてそんなこと聞くのかな?」
エマは、正直な疑問を、少女を怯えさせないように訊いてみた。
「だって、お兄さま……? が、家族だって言った、から……あなたは、お姉さまかな、って……」
怯えながら告げた少女の言葉を聞いて、エマは少女の頭を撫でた。
「うんうん、そっか。教えてくれてありがとう。そうねぇ、ジュードさんが兄なら、私は君のお姉ちゃんだよ。だから、私のことはエマ姉ちゃんって呼んで」
「エマ……お姉さま」
「ノーノー。エマ姉ちゃん」
「うん……エマ姉ちゃん」
「そう! 良い子だね」
エマは、この少女が愛らしく思えた。
幼女がダボダボの寝間着を着て、襟首の所から細い鎖骨が見える。そんな絵面も可愛いかった。エマには少女と同じくらいの歳の妹がいて、妹はエマの故郷で家族と暮らしている。境遇を照らし合わせると、少女が可哀想に思えた。
(こんな子供が記憶喪失なんて……)
「そうだ! お名前、教えないとね」
エマは思い付きで言ってみた。無論この子の名前は知らない。だが、分かるまで「君」だけで呼ぶのは嫌だった。後で嘘だと分かっても構わなかった。
少女はそれを待ち望んでいたようで、今までで一番ハリのある声で「教えて」と言ってきた。エマは、少女にこっそりと耳打ちした。
「そう。君の名前はね……メグ。メグちゃんだよ」
「メグ……」
少女は、胸に抱き留めるように反芻した。少女の口角が少し上がり、顔が明るくなった。
「着替えも終わったし、ご飯食べようかメグちゃん」
「うん」
ダイニングへと戻ると、ジュードが席に座るところだった。
「着替えたのか」
「はい。服が濡れてたので」
ジュードの向かいにエマが座り、エマの横にメグが座った。
「それでは、食事前のお祈りを」
温くなったシチューを前に、エマは両手を組み合わせて瞳を閉じる。ジュードは黙ってそれを見つめ、メグはエマの見よう見まねをした。
「世界を安寧に治める唯一の神よ。今日を生きる糧に感謝を。恵まれぬ人々に施しのあらんことを。コスモス」
「……コスモス」
メグは最後の言葉だけ言ってみた。エマが目を開け、祈りが終わったのを認めると、ジュードは予め持っておいたスプーンをシチューの中に入れた。
「いつも思いますけど、ジュードさんは信心がないんですね」
「無神論者なだけだ。信仰はある」
「初めて知りました。何教ですか?」
一口分のシチューを飲み下すと、ジュードは淡々と答えた。
「機械化主義者」
「……聞いて損しました。いつものことでしたね」
「いいんだ。これが俺の生き方なんだから。神様なんて信じだしたら、『聖典』を読まされて、工作ができなくなる」
「まあそこまで熱心な人は少ないですけど。とくにここ(オリジン)だと教会に通う人だって少ないですし」
「確かに、聖典教信者は少ないだろうな」
聖典教とは、世界で最も普及している一神教である。各地には教会があり、世界宗教として一般的なものである。教義としては、「世界の安寧は、唯一神コスモスへの信仰によってもたらされる」というもので、この信仰が世界に広がってより千年間は実際に戦争がない世の中であったと言われる。近年はオリジンの産業革命に端を発した産業主義の影響で、神への信仰が薄くなっている。一口に聖典教徒といっても、信心深い人が少ないのが実情だった。エマは、毎週教会に顔を出してる点で、比較的信仰心に篤い方だといえる。
メグと名付けられた少女は、堰を切ったように勢いよくシチューを口に運び、みるみるうちに食器を空にした。
「メグちゃん、おかわり食べる?」
「うん」
エマの言葉に、メグは嬉々として頷いた。エマはすっかり、少女の保護者として馴染んでいる。
一方、驚いたのはジュードだった。
「メグ? この子の名前、分かったのか?」
「いえ、私がさっき名付けました。名前がないと色々不便だし、何より可哀想じゃないですか」
エマの理由について、ジュードは一応納得した。名前があると、概念は輪郭を帯びる。イメージが出来上がるのだ。言ってしまえば名前も概念の一つであり、メグという名前があることでジュードは少女への大体のイメージが出来上がった。
(きっとこの子は、優しくて聡い子だろう)
出されたおかわりに、メグは頬を紅潮させていた。二人は少女を見守りながら、この夕飯時を楽しんでいた。
エマによって、少女にメグという名前がつけられました。
なぜ、メグと名付けたのか? それについて本編では触れないのでここで。
エマの幼いころの友達に似ていることから、その友達のあだ名に因んでメグと名付けたのです。




