人間の足は3本だったかい?
さあ、ボタンを押したな?
楽しい楽しい、呪いの始まりだあ。
しっかり目に焼き付けて、すっきりしてくれよなあ? ひっひっひ。
「まったく、雅美のあの顔ったら最高」
クスクスと思い出し笑いをして、千明は自室のベッドに気分良く仰向けに転がった。
足を引っ掛けたときのあの不様な転びかた。起き上がった時のあの目。ちょっと脅してやったら怯えた顔しちゃって、ああ、面白いったらなかったとほくそ笑む。
一生懸命書いたノートは破り捨ててやったし、帰り道に水溜まりの中へダイブさせてやった。雅美は怨みがましそうな目で千明を見てから、おどおどと目を逸らしていた。期待通りの態度に胸がスッとする。
廊下をスリッパが擦る小さな音がして、千明は素早く身を起こし机に向かう。教科書とノートを広げて鉛筆を持った。
コンコン、とドアがノックされトレイにアイスティーとクッキーを乗せた母親が入ってきた。
「千明ちゃん、勉強は進んでる?」
「ええ、ママ。勿論よ」
両親の前では品行方正、千明は完璧な娘でいる。口ごたえなどとんでもない。そんなことをすれば今穏やかに微笑んでいる母親は、鬼のような形相に変わることを知っている。
成績優秀、従順で外面のいい、ご近所に自慢できる娘でいなければならない。
母親が部屋を退出した途端、千明の顔が歪む。千明の手がスマホへと伸びた。SNSを開き、グループを選択してありったけの雅美の悪口を書き込む。
明日はどう泣かせてやろうか。どんな嫌がらせをしてやろう。雅美の情けない顔を思い浮かべていると気分が晴れてきた。スマホを置いて、教科書とノートへ意識を戻した。
カリカリというシャープペンの音と、時折めくる教科書のパラリという音が部屋を支配する。上位の成績を維持していなければ両親がうるさい。予習復習は欠かせなかった。
ふとスマホが小さく振動し、画面が光る。誰かが雅美の悪口でも書き込んだのかと、気軽に画面を開いた。
見たこともないサイトが開かれていた。
『これから呪い殺すからよろしくなあ。ひっひっひ』
真っ黒な画面に赤字でそれだけが書かれている。
「はあっ? 何これ?」
ばつ印を押して消した途端、また同じ真っ黒なサイトが勝手に開いた。
『まずはほんのご挨拶』
たった一言だけが書かれている。スクロールも出来ないし、他にリンクも何もない。
「なによ、気持ち悪い」
もう一度ばつ印を押して閉じた。今度は勝手に立ち上がらなかった。
もう勉強する気になれなくて、教科書とノートをしまおうと閉じる。すると、机に文字が書かれていた。
『バカ』
見慣れた千明自身の字だった。
「私こんなこと書いたっけ?」
訝しく思いながら消しゴムで擦る。消えない。
油性ペンで書いたように消えなかった。消えるどころか……。
「なにこれっ」
バカと書かれた文字の横にポツリと黒い点が出来、ツツーと伸びていく。やがて『ノロマ』という文字が現れた。千明の筆跡で。
またスマホが振動して勝手にサイトが開く。真っ黒な背景に赤字だけがくっきりと浮かぶ。
『同じことをされる気分はどうだい? ひっひっひ』
千明から血の気が引いていく。スマホにサイドが開かれるだけなら、変なウイルスか何かだと思える。しかし、机に文字が出てくるなんて悪戯だとしても可能だろうか。
そんな千明を嘲笑うかのように、机の文字は増えていった。
『死ね』『キモい』『臭い』
「ひっ」
鋭く息を吸うと、千明は教科書とノートを放り出し、椅子から立ち上がった。とにかく机から離れてこの部屋から出ようとする。
ぽとり。
立ち上がった椅子から、黒い何かが落ちた。つい目で追うと、それは虫の死骸だった。
「嫌っ。なにっ、なんなのよ」
スマホが振動した。ビクッと体を震わせてそちらを見る。机の上に置きっぱなしだった筈のスマホが千明の足元に落ちていた。
画面に表示された赤字。
『さあて、そろそろ本番といこうか』
「ひいぃぃぃっ」
震える手足をなんとか動かしてドアへ走ると、何かにつまずいた。あっけなく転んでから慌てて上半身を起こし、ぎこちなく首を動す。確認などしたくないという思いとは裏腹に目線は足を辿ってしまう。
足だ。机の下に出来る小さな暗闇から生える足。学校の白い靴下に見覚えのある上履き、千明の筆跡で学年とクラス、千明の名前が書いてある。
スマホが振動する。床に座った千明の横で。また赤字だけがぽっかりと浮かんでいた。
『人間の足は3本だったかい?』
「わ、私の、あ、足っ」
慌てて自分の足を確認した。つまずいて投げ出されたままの左足、ある。左足の下になって隠れている右足、左足をどかすと太ももが出る。
膝もある。それより先は曲げているから見えない。伸ばしたら出てくる筈だ。
「あれ、右足は曲げてたっけ?」
そうだ、曲げていた筈だ。でないとおかしい。見えないなんて。
曲げているから隠れて見えないだけ、間抜けな勘違いだ。何をやっているのだと自分を笑う。千明は笑い、右足を伸ばして己の勘違いを確認しようとした。
伸ばした足に、膝から下はなかった。
「ひっ、はひっ、あははっ、ひっははは」
誰かの変な笑い声がする。千明の声にとてもよく似ていた。やめてほしいと思う。そんな変な物真似などしないで欲しい。
ビリビリビリッ。
独りでに開いたノートが勝手に破れて、ひらひらと宙を舞う。千明の目の前に壁でもあるかのように貼り付いた紙が黒く塗り潰されていった。
やがて真っ黒になったノートの切れ端に赤い点が現れる。点から線が伸びていき、赤字で大きく『死ね』と書かれた。
「いやあああああっ!」
千明は悲鳴を上げて片足で立ち上がりドアノブへ手をかけた。ビシャリと水音が立ち、鉄錆の臭いが充満する。震えと、汗で滑るせいで上手くドアノブを回せない。ガチャガチャと派手な音をさせてドアノブと格闘していると、ドアへ黒い字が書かれた。
『売女』『ブス』『負け犬』『消えろ』『キモい』『ダサい』
ドアを埋め尽くす文字の数々はやはり千明の字で、どれも雅美に向けて言ったり書いたりしたものだった。
ドアノブと同じように千明の思考も空回りする。
ありえない。こんなの嘘だ。夢だ。現実じゃない。
「ああああぁぁ」
右足が焼けつくように熱いのに、ドアノブを回そうとしている手は冷たくて力が入らない。
とにかくここから逃げなければ。ドアを開けてここから出たら、きっと母親に助けて貰える。そうすれば全て解決する。
ガチャッ。
やっとドアノブが回って開いたドアを開けて、腕と片足に全力を注いで部屋の外へ転がり出た。
『毎度ありぃ』
開いたドアの先には、スマホの画面が視界いっぱいに広がっていた。
「ぃやあああぁぁっ!」
滅茶苦茶に手足を振り回すと真っ黒な画面とともに赤字も消え去り、全身に受ける風と浮遊感。足元に何もない。廊下もない。眼前に迫るのは、固そうな地面。
なんで?
それが千明の最後の思考だった。