アンコは鳴かない
雀荘《北風堂》の空気は、いつも少し濁っている。
煙草はもう法律で吸えないはずなのに、壁紙には昔の煙が染みついている。天井の換気扇はくたびれた音を立て、卓上のライトだけがやけに明るい。牌のぶつかる音、点棒を置く音、誰かの舌打ち、誰かの笑い声。そういうものが混ざって、店の中には一日中、ざらついた熱気が漂っていた。
金曜日の夜。
店のいちばん奥の卓だけ、少し空気が違っていた。
そこには、女子高生にしか見えない少女が座っていた。
白に近い淡い髪を、片側でゆるく結んでいる。ピンク色のパーカー。小さな肩。目つきだけは、妙に鋭い。
名前は、アンコ。
本名かどうかは誰も知らない。
年は十八くらい、と言われている。
言われている、というのは、本人がはっきり答えないからだ。
「アンコちゃん、年いくつ?」
最初にそう聞いた男は、東一局で親倍を振り込み、以後、彼女に年齢を聞く者はいなくなった。
アンコは、鳴かない。
それが北風堂での評判だった。
チーをしない。
ポンもしない。
もちろん、カンもしない。
黙って牌を集める。
黙って切る。
黙って待つ。
そして、誰かが油断したところで、手の内に沈めていた暗刻を開く。
だから、アンコ。
暗刻のアンコ。
誰がつけた名かは知らないが、あまりに似合いすぎて、誰もほかの名前で呼ばなくなった。
その夜、アンコが座っていた卓には、三人の男がいた。
一人は、雀荘荒らしの常連、銀二。
白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、指には安っぽい金の指輪。口数は多く、打ち筋は汚い。だが、読みだけは鋭い。
一人は、大学生のリョウ。
麻雀アプリで全国上位に入ったことを何度も自慢している。実戦の経験は浅いが、牌効率と確率には強い。
そしてもう一人は、会社員の黒瀬。
スーツ姿で、ほとんど喋らない。笑わない。ツモる手つきだけが不気味に速い。
北風堂の店長が、カウンターの奥で腕を組んでいた。
「珍しい卓になったな」
常連のひとりが小声で言う。
「銀二、リョウ、黒瀬。それにアンコちゃんか」
「アンコちゃん、今日はさすがにきついんじゃねえの」
「いや、あの子はわからんぞ」
ざわめきは、アンコの耳にも届いていた。
けれど彼女は何も言わない。
ただ、手元の牌を並べている。
東一局。
親は銀二。
銀二は配牌を見て、にやりと笑った。
「お、今日はツイてるねえ」
リョウが眼鏡を押し上げる。
「そういうこと言う人ほど、手が悪いんですよね」
「若いの、ネット麻雀と現実は違うぜ。現実ではな、顔も声も情報なんだよ」
「その情報、だいたいノイズです」
「かわいくねえな」
銀二は笑いながら、牌を切った。
アンコは、黙っていた。
彼女の配牌は、ひどかった。
一九字牌がばらばら。数牌はつながらず、対子もない。普通なら遠い。誰が見ても、安く早く流す局面だった。
だが、アンコは一枚目から南を切らなかった。
誰にも必要なさそうな、孤立した南。
普通なら安全牌候補として残す程度の牌。
アンコはそれを手の中に置き、五筒を切った。
リョウの目が動いた。
黒瀬の指が止まった。
銀二は笑った。
「へえ、面白い切り方するじゃねえか」
アンコは答えない。
次巡、彼女は南を引いた。
その次、また南を引いた。
手の中で、南が三枚並ぶ。
暗刻。
アンコは表情を変えなかった。
南の暗刻を抱えたまま、まっすぐ手を進める。
銀二が軽く眉を動かす。
「鳴かねえな、相変わらず」
「鳴く必要、ないので」
アンコが初めて口を開いた。
声は小さい。
けれど、卓の全員に届いた。
リョウが笑う。
「鳴かない縛りですか?」
「縛りじゃないです」
「じゃあ、こだわり?」
「性格です」
銀二が大きく笑った。
「いいねえ。若いのに、麻雀で性格なんて言うか」
「出ますから」
アンコは、牌を一枚切った。
「麻雀には、性格が出ます」
東一局は、黒瀬が千点で流した。
東二局。
リョウが早いリーチをかけた。
「リーチ」
五巡目。
場がざわついた。
ネット麻雀仕込みの速攻。無駄のない手順。待ちはよさそうに見える。
銀二はすぐに降りた。
黒瀬も現物を切る。
アンコは、手を止めない。
リョウが彼女を見た。
「押すんですか?」
「はい」
「この巡目で?」
「はい」
「危ないですよ」
「知ってます」
アンコは二萬を切った。
リョウの目が細くなる。
通る。
次巡、アンコは四索を引いた。
手の中には、三索三索三索、七筒七筒七筒、南南南。
三つの暗刻。
あと少し。
リョウのリーチに対して、アンコは無言で前に出る。
観客のひとりが息を呑んだ。
「まさか……」
銀二も気づいた。
「三暗刻か?」
アンコは表情を変えない。
けれど、リョウの手が少し震えた。
自分のリーチに誰かが押してくる。
それ自体は珍しくない。
だが、アンコの押し方は妙だった。
危険牌を切っているのに、焦りがない。
高い手を張っている者の強さではない。
すでに何かを見切っている者の静けさだった。
リョウがツモ切った。
八筒。
アンコの目が、ほんの少しだけ上がった。
「ロン」
牌が倒れる。
三索三索三索。
七筒七筒七筒。
南南南。
八筒八筒。
そして、待っていた八筒。
「三暗刻、対々和、南。満貫です」
リョウは固まった。
「……それ、ダマ?」
「はい」
「リーチかけないんですか」
「かけたら、出ないので」
「いや、でも……」
リョウは言葉を失った。
銀二が愉快そうに笑った。
「言ったろ、現実じゃ顔も声も情報だってよ。おまえ、リーチしてからずっと、八筒だけ見てたぜ」
リョウの顔が赤くなる。
「見てません」
「見てたよ」
アンコが静かに言った。
リョウは黙った。
東三局。
銀二が仕掛けた。
ポン。
チー。
またポン。
早い。
安いか高いかはわからないが、とにかく場を荒らす打ち方だった。
「さあ、アンコちゃん。鳴かない子は遅れちゃうよ」
銀二は笑う。
「麻雀はな、先に和了ったやつが偉いんだ」
「そうですね」
「わかってるなら鳴けよ」
「鳴きません」
「頑固だねえ」
銀二は白を切った。
アンコはそれを見送った。
次に中が出る。
見送る。
發が出る。
それも見送る。
観客がざわめく。
「今のポンしないの?」
「役牌だぞ」
「アンコちゃん、手が死んでるんじゃ……」
アンコは、ただ自分のツモを待っていた。
そして、引いた。
發。
手の中で、發が三枚になる。
暗刻。
彼女は一枚切った。
銀二がその牌を見て、舌打ちした。
「それ、通すのかよ」
「通ります」
「なぜわかる?」
「銀二さんの欲しい牌じゃないので」
銀二の笑みが消えた。
アンコは続けた。
「鳴いたあと、手元を見すぎです。待ちはまだ決まっていない。だから安全そうな牌を切っても、表情が変わらない。欲しい牌が出たときだけ、少しだけ口元が動く」
「……よく見てるじゃねえか」
「見てます」
アンコは發を倒さない。
暗刻を見せない。
手の内に沈めたまま、最後まで待った。
そして流局間際。
「ツモ」
アンコが静かに言った。
牌が倒れる。
發發發。
二萬二萬二萬。
九筒九筒九筒。
北北。
北をツモ。
「三暗刻、發、ツモ」
銀二が、低く笑った。
「また暗刻かよ」
「名前なので」
「アンコだから?」
「はい」
少しだけ、アンコが笑った。
ほんの少しだった。
その笑みを見た瞬間、銀二は肩をすくめた。
「怖い子だねえ」
南場に入るころ、トップはアンコだった。
だが、差は大きくない。
黒瀬がじわじわと二着につけ、銀二が三着、リョウがラス。
勝負はまだわからない。
南二局。
黒瀬が動いた。
今まで静かだった男が、初めてリーチをかけた。
「リーチ」
低い声。
場の空気が変わった。
銀二が顔をしかめる。
「黒瀬のリーチは嫌だねえ」
リョウも降りる。
アンコは手牌を見た。
悪くない。
いや、かなりいい。
三萬三萬三萬。
四筒四筒四筒。
六索六索六索。
白白。
すでに三暗刻。
待ちは白。
白が来れば、ツモ四暗刻。
出れば三暗刻対々和。
だが、白は場に一枚も見えていない。
黒瀬のリーチに、白は危険すぎる。
次巡。
アンコは白を引いた。
四枚目ではない。
三枚目。
これで白も暗刻。
手の中には四つの暗刻。
四暗刻、単騎待ちではなく、すでに完成形に近い。
しかし、彼女の手はまだ和了っていない。
不要牌を一枚切らなければならない。
その牌が、黒瀬の当たり牌なら終わり。
アンコの指が止まった。
観客たちも声を消した。
銀二がつぶやく。
「ここが勝負だな」
リョウは息を詰めている。
黒瀬は、サングラスの奥で何を考えているのかわからない。
アンコは、黒瀬の河を見た。
切られた牌。
手出し。
ツモ切り。
リーチ宣言牌。
そして、黒瀬の指。
黒瀬はほとんど表情を変えない。
だが、彼にも癖はあった。
自分が待っている色の牌が出ると、左手の親指がわずかに卓を叩く。
たった一度。
音にもならないほどの小さな動き。
アンコはそれを見ていた。
黒瀬が欲しいのは索子。
アンコの不要牌は、二索と七萬。
二索は危ない。
七萬は、おそらく通る。
アンコは七萬を切った。
黒瀬は動かない。
通る。
次巡、アンコは静かにツモ山へ手を伸ばした。
牌を引く。
指先で、形がわかった。
白。
四枚目の白。
アンコは、息を吸った。
「ツモ」
誰もすぐには反応できなかった。
アンコは手牌を倒す。
三萬三萬三萬。
四筒四筒四筒。
六索六索六索。
白白白白。
卓上のライトが、白い牌を照らす。
「四暗刻」
店の中が、一瞬、完全に静かになった。
その後、どっと声が上がった。
「役満!」
「マジか!」
「黒瀬のリーチ押し切った!」
リョウは口を開けたまま固まっている。
銀二は手を叩いて笑った。
「こりゃすげえ。たいしたもんだ」
黒瀬は、初めてサングラスを外した。
その目は、悔しさよりも楽しさを帯びていた。
「なぜ、七萬を切れた」
アンコは答えた。
「指が動かなかったので」
「そこまで見ていたのか」
「はい」
「怖いな」
「麻雀なので」
アンコは点棒を受け取る。
表情は変わらない。
けれど、頬がほんの少しだけ赤くなっていた。
オーラス。
アンコは大きくトップ。
普通なら守ればいい。
だが、銀二が言った。
「アンコちゃん。最後くらい、鳴いてみたらどうだ?」
「嫌です」
「即答かよ」
「鳴くと、手の中が見えるので」
「隠すのが好きか」
「はい」
アンコは牌を並べた。
「見せるのは、最後でいいです」
その言葉どおり、オーラスも彼女は鳴かなかった。
小さな手で、牌を一枚ずつ引く。
切る。
引く。
切る。
誰にも見せず、誰にも頼らず、手の中に形を作っていく。
最後は、安い手だった。
「ツモ。千三百、二千六百」
役満のあとの和了としては、地味すぎる。
けれど、アンコは満足そうだった。
勝負は終わった。
トップはアンコ。
黒瀬が二着。
銀二が三着。
リョウはラス。
リョウはしばらく黙っていたが、やがて頭を下げた。
「強いですね」
「ありがとうございます」
「ネットで打ってるだけじゃ、こういうのわからないです」
「ネットにはネットの強さがあります」
「でも、リアルは怖いです」
「はい」
アンコは少し考えてから言った。
「でも、楽しいです」
リョウは笑った。
「また打ってください」
「はい」
銀二が立ち上がる。
「いやあ、今日は完敗だ。アンコちゃん、今度は酒でも――」
「未成年なので」
「やっぱ十八じゃねえか」
「十八くらいです」
「そこはぼかすのかよ」
店内に笑いが起こった。
黒瀬はサングラスをかけ直し、静かに言った。
「次は勝つ」
「はい」
アンコはうなずいた。
「次も勝ちます」
その言い方があまりに自然で、黒瀬は少しだけ笑った。
勝負が終わったあと、アンコは店の外に出た。
夜風が冷たい。
北風堂の看板が、古いネオンで赤く光っている。
彼女はポケットから小さなメモ帳を取り出した。
そこには、対局相手の癖がびっしり書かれている。
銀二――口元。鳴き後に視線が泳ぐ。
リョウ――リーチ後、待ち牌を見る。感情が顔に出る。
黒瀬――左親指。索子に反応。強い。再戦注意。
アンコはメモ帳を閉じた。
麻雀は、運のゲームだと言う人がいる。
たしかに、何を引くかは選べない。
でも、何を残すかは選べる。
何を切るかは選べる。
誰を見るか。
どこで待つか。
いつ沈黙を破るか。
それは、運だけではない。
アンコは夜空を見上げた。
ネオンにかすんで、星はほとんど見えない。
けれど、彼女の目には、まだ卓上の白い牌が光って見えていた。
手の内に沈めた暗刻。
最後まで見せなかった形。
誰にも頼らず作った勝ち筋。
アンコは小さくつぶやいた。
「次も、鳴かない」
そして彼女は、夜の街へ歩き出した。
背中の向こうで、北風堂の自動ドアが開き、また牌の音が聞こえた。
カチャ。
カチャ。
カチャ。
それは、誰かの人生が、またひとつ積まれていく音だった。




