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アンコは鳴かない

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/04/02

 雀荘《北風堂》の空気は、いつも少し濁っている。


 煙草はもう法律で吸えないはずなのに、壁紙には昔の煙が染みついている。天井の換気扇はくたびれた音を立て、卓上のライトだけがやけに明るい。牌のぶつかる音、点棒を置く音、誰かの舌打ち、誰かの笑い声。そういうものが混ざって、店の中には一日中、ざらついた熱気が漂っていた。


 金曜日の夜。


 店のいちばん奥の卓だけ、少し空気が違っていた。


 そこには、女子高生にしか見えない少女が座っていた。


 白に近い淡い髪を、片側でゆるく結んでいる。ピンク色のパーカー。小さな肩。目つきだけは、妙に鋭い。


 名前は、アンコ。


 本名かどうかは誰も知らない。


 年は十八くらい、と言われている。


 言われている、というのは、本人がはっきり答えないからだ。


「アンコちゃん、年いくつ?」


 最初にそう聞いた男は、東一局で親倍を振り込み、以後、彼女に年齢を聞く者はいなくなった。


 アンコは、鳴かない。


 それが北風堂での評判だった。


 チーをしない。


 ポンもしない。


 もちろん、カンもしない。


 黙って牌を集める。


 黙って切る。


 黙って待つ。


 そして、誰かが油断したところで、手の内に沈めていた暗刻を開く。


 だから、アンコ。


 暗刻のアンコ。


 誰がつけた名かは知らないが、あまりに似合いすぎて、誰もほかの名前で呼ばなくなった。


 その夜、アンコが座っていた卓には、三人の男がいた。


 一人は、雀荘荒らしの常連、銀二。


 白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、指には安っぽい金の指輪。口数は多く、打ち筋は汚い。だが、読みだけは鋭い。


 一人は、大学生のリョウ。


 麻雀アプリで全国上位に入ったことを何度も自慢している。実戦の経験は浅いが、牌効率と確率には強い。


 そしてもう一人は、会社員の黒瀬。


 スーツ姿で、ほとんど喋らない。笑わない。ツモる手つきだけが不気味に速い。


 北風堂の店長が、カウンターの奥で腕を組んでいた。


「珍しい卓になったな」


 常連のひとりが小声で言う。


「銀二、リョウ、黒瀬。それにアンコちゃんか」


「アンコちゃん、今日はさすがにきついんじゃねえの」


「いや、あの子はわからんぞ」


 ざわめきは、アンコの耳にも届いていた。


 けれど彼女は何も言わない。


 ただ、手元の牌を並べている。


 東一局。


 親は銀二。


 銀二は配牌を見て、にやりと笑った。


「お、今日はツイてるねえ」


 リョウが眼鏡を押し上げる。


「そういうこと言う人ほど、手が悪いんですよね」


「若いの、ネット麻雀と現実は違うぜ。現実ではな、顔も声も情報なんだよ」


「その情報、だいたいノイズです」


「かわいくねえな」


 銀二は笑いながら、牌を切った。


 アンコは、黙っていた。


 彼女の配牌は、ひどかった。


 一九字牌がばらばら。数牌はつながらず、対子もない。普通なら遠い。誰が見ても、安く早く流す局面だった。


 だが、アンコは一枚目から南を切らなかった。


 誰にも必要なさそうな、孤立した南。


 普通なら安全牌候補として残す程度の牌。


 アンコはそれを手の中に置き、五筒を切った。


 リョウの目が動いた。


 黒瀬の指が止まった。


 銀二は笑った。


「へえ、面白い切り方するじゃねえか」


 アンコは答えない。


 次巡、彼女は南を引いた。


 その次、また南を引いた。


 手の中で、南が三枚並ぶ。


 暗刻。


 アンコは表情を変えなかった。


 南の暗刻を抱えたまま、まっすぐ手を進める。


 銀二が軽く眉を動かす。


「鳴かねえな、相変わらず」


「鳴く必要、ないので」


 アンコが初めて口を開いた。


 声は小さい。


 けれど、卓の全員に届いた。


 リョウが笑う。


「鳴かない縛りですか?」


「縛りじゃないです」


「じゃあ、こだわり?」


「性格です」


 銀二が大きく笑った。


「いいねえ。若いのに、麻雀で性格なんて言うか」


「出ますから」


 アンコは、牌を一枚切った。


「麻雀には、性格が出ます」


 東一局は、黒瀬が千点で流した。


 東二局。


 リョウが早いリーチをかけた。


「リーチ」


 五巡目。


 場がざわついた。


 ネット麻雀仕込みの速攻。無駄のない手順。待ちはよさそうに見える。


 銀二はすぐに降りた。


 黒瀬も現物を切る。


 アンコは、手を止めない。


 リョウが彼女を見た。


「押すんですか?」


「はい」


「この巡目で?」


「はい」


「危ないですよ」


「知ってます」


 アンコは二萬を切った。


 リョウの目が細くなる。


 通る。


 次巡、アンコは四索を引いた。


 手の中には、三索三索三索、七筒七筒七筒、南南南。


 三つの暗刻。


 あと少し。


 リョウのリーチに対して、アンコは無言で前に出る。


 観客のひとりが息を呑んだ。


「まさか……」


 銀二も気づいた。


「三暗刻か?」


 アンコは表情を変えない。


 けれど、リョウの手が少し震えた。


 自分のリーチに誰かが押してくる。


 それ自体は珍しくない。


 だが、アンコの押し方は妙だった。


 危険牌を切っているのに、焦りがない。


 高い手を張っている者の強さではない。


 すでに何かを見切っている者の静けさだった。


 リョウがツモ切った。


 八筒。


 アンコの目が、ほんの少しだけ上がった。


「ロン」


 牌が倒れる。


 三索三索三索。

 七筒七筒七筒。

 南南南。

 八筒八筒。

 そして、待っていた八筒。


「三暗刻、対々和、南。満貫です」


 リョウは固まった。


「……それ、ダマ?」


「はい」


「リーチかけないんですか」


「かけたら、出ないので」


「いや、でも……」


 リョウは言葉を失った。


 銀二が愉快そうに笑った。


「言ったろ、現実じゃ顔も声も情報だってよ。おまえ、リーチしてからずっと、八筒だけ見てたぜ」


 リョウの顔が赤くなる。


「見てません」


「見てたよ」


 アンコが静かに言った。


 リョウは黙った。


 東三局。


 銀二が仕掛けた。


 ポン。


 チー。


 またポン。


 早い。


 安いか高いかはわからないが、とにかく場を荒らす打ち方だった。


「さあ、アンコちゃん。鳴かない子は遅れちゃうよ」


 銀二は笑う。


「麻雀はな、先に和了ったやつが偉いんだ」


「そうですね」


「わかってるなら鳴けよ」


「鳴きません」


「頑固だねえ」


 銀二は白を切った。


 アンコはそれを見送った。


 次に中が出る。


 見送る。


 發が出る。


 それも見送る。


 観客がざわめく。


「今のポンしないの?」


「役牌だぞ」


「アンコちゃん、手が死んでるんじゃ……」


 アンコは、ただ自分のツモを待っていた。


 そして、引いた。


 發。


 手の中で、發が三枚になる。


 暗刻。


 彼女は一枚切った。


 銀二がその牌を見て、舌打ちした。


「それ、通すのかよ」


「通ります」


「なぜわかる?」


「銀二さんの欲しい牌じゃないので」


 銀二の笑みが消えた。


 アンコは続けた。


「鳴いたあと、手元を見すぎです。待ちはまだ決まっていない。だから安全そうな牌を切っても、表情が変わらない。欲しい牌が出たときだけ、少しだけ口元が動く」


「……よく見てるじゃねえか」


「見てます」


 アンコは發を倒さない。


 暗刻を見せない。


 手の内に沈めたまま、最後まで待った。


 そして流局間際。


「ツモ」


 アンコが静かに言った。


 牌が倒れる。


 發發發。

 二萬二萬二萬。

 九筒九筒九筒。

 北北。

 北をツモ。


「三暗刻、發、ツモ」


 銀二が、低く笑った。


「また暗刻かよ」


「名前なので」


「アンコだから?」


「はい」


 少しだけ、アンコが笑った。


 ほんの少しだった。


 その笑みを見た瞬間、銀二は肩をすくめた。


「怖い子だねえ」


 南場に入るころ、トップはアンコだった。


 だが、差は大きくない。


 黒瀬がじわじわと二着につけ、銀二が三着、リョウがラス。


 勝負はまだわからない。


 南二局。


 黒瀬が動いた。


 今まで静かだった男が、初めてリーチをかけた。


「リーチ」


 低い声。


 場の空気が変わった。


 銀二が顔をしかめる。


「黒瀬のリーチは嫌だねえ」


 リョウも降りる。


 アンコは手牌を見た。


 悪くない。


 いや、かなりいい。


 三萬三萬三萬。

 四筒四筒四筒。

 六索六索六索。

 白白。


 すでに三暗刻。


 待ちは白。


 白が来れば、ツモ四暗刻。


 出れば三暗刻対々和。


 だが、白は場に一枚も見えていない。


 黒瀬のリーチに、白は危険すぎる。


 次巡。


 アンコは白を引いた。


 四枚目ではない。


 三枚目。


 これで白も暗刻。


 手の中には四つの暗刻。


 四暗刻、単騎待ちではなく、すでに完成形に近い。


 しかし、彼女の手はまだ和了っていない。


 不要牌を一枚切らなければならない。


 その牌が、黒瀬の当たり牌なら終わり。


 アンコの指が止まった。


 観客たちも声を消した。


 銀二がつぶやく。


「ここが勝負だな」


 リョウは息を詰めている。


 黒瀬は、サングラスの奥で何を考えているのかわからない。


 アンコは、黒瀬の河を見た。


 切られた牌。


 手出し。


 ツモ切り。


 リーチ宣言牌。


 そして、黒瀬の指。


 黒瀬はほとんど表情を変えない。


 だが、彼にも癖はあった。


 自分が待っている色の牌が出ると、左手の親指がわずかに卓を叩く。


 たった一度。


 音にもならないほどの小さな動き。


 アンコはそれを見ていた。


 黒瀬が欲しいのは索子。


 アンコの不要牌は、二索と七萬。


 二索は危ない。


 七萬は、おそらく通る。


 アンコは七萬を切った。


 黒瀬は動かない。


 通る。


 次巡、アンコは静かにツモ山へ手を伸ばした。


 牌を引く。


 指先で、形がわかった。


 白。


 四枚目の白。


 アンコは、息を吸った。


「ツモ」


 誰もすぐには反応できなかった。


 アンコは手牌を倒す。


 三萬三萬三萬。

 四筒四筒四筒。

 六索六索六索。

 白白白白。


 卓上のライトが、白い牌を照らす。


「四暗刻」


 店の中が、一瞬、完全に静かになった。


 その後、どっと声が上がった。


「役満!」


「マジか!」


「黒瀬のリーチ押し切った!」


 リョウは口を開けたまま固まっている。


 銀二は手を叩いて笑った。


「こりゃすげえ。たいしたもんだ」


 黒瀬は、初めてサングラスを外した。


 その目は、悔しさよりも楽しさを帯びていた。


「なぜ、七萬を切れた」


 アンコは答えた。


「指が動かなかったので」


「そこまで見ていたのか」


「はい」


「怖いな」


「麻雀なので」


 アンコは点棒を受け取る。


 表情は変わらない。


 けれど、頬がほんの少しだけ赤くなっていた。


 オーラス。


 アンコは大きくトップ。


 普通なら守ればいい。


 だが、銀二が言った。


「アンコちゃん。最後くらい、鳴いてみたらどうだ?」


「嫌です」


「即答かよ」


「鳴くと、手の中が見えるので」


「隠すのが好きか」


「はい」


 アンコは牌を並べた。


「見せるのは、最後でいいです」


 その言葉どおり、オーラスも彼女は鳴かなかった。


 小さな手で、牌を一枚ずつ引く。


 切る。


 引く。


 切る。


 誰にも見せず、誰にも頼らず、手の中に形を作っていく。


 最後は、安い手だった。


「ツモ。千三百、二千六百」


 役満のあとの和了としては、地味すぎる。


 けれど、アンコは満足そうだった。


 勝負は終わった。


 トップはアンコ。


 黒瀬が二着。


 銀二が三着。


 リョウはラス。


 リョウはしばらく黙っていたが、やがて頭を下げた。


「強いですね」


「ありがとうございます」


「ネットで打ってるだけじゃ、こういうのわからないです」


「ネットにはネットの強さがあります」


「でも、リアルは怖いです」


「はい」


 アンコは少し考えてから言った。


「でも、楽しいです」


 リョウは笑った。


「また打ってください」


「はい」


 銀二が立ち上がる。


「いやあ、今日は完敗だ。アンコちゃん、今度は酒でも――」


「未成年なので」


「やっぱ十八じゃねえか」


「十八くらいです」


「そこはぼかすのかよ」


 店内に笑いが起こった。


 黒瀬はサングラスをかけ直し、静かに言った。


「次は勝つ」


「はい」


 アンコはうなずいた。


「次も勝ちます」


 その言い方があまりに自然で、黒瀬は少しだけ笑った。


 勝負が終わったあと、アンコは店の外に出た。


 夜風が冷たい。


 北風堂の看板が、古いネオンで赤く光っている。


 彼女はポケットから小さなメモ帳を取り出した。


 そこには、対局相手の癖がびっしり書かれている。


 銀二――口元。鳴き後に視線が泳ぐ。

 リョウ――リーチ後、待ち牌を見る。感情が顔に出る。

 黒瀬――左親指。索子に反応。強い。再戦注意。


 アンコはメモ帳を閉じた。


 麻雀は、運のゲームだと言う人がいる。


 たしかに、何を引くかは選べない。


 でも、何を残すかは選べる。


 何を切るかは選べる。


 誰を見るか。


 どこで待つか。


 いつ沈黙を破るか。


 それは、運だけではない。


 アンコは夜空を見上げた。


 ネオンにかすんで、星はほとんど見えない。


 けれど、彼女の目には、まだ卓上の白い牌が光って見えていた。


 手の内に沈めた暗刻。


 最後まで見せなかった形。


 誰にも頼らず作った勝ち筋。


 アンコは小さくつぶやいた。


「次も、鳴かない」


 そして彼女は、夜の街へ歩き出した。


 背中の向こうで、北風堂の自動ドアが開き、また牌の音が聞こえた。


 カチャ。


 カチャ。


 カチャ。


 それは、誰かの人生が、またひとつ積まれていく音だった。

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